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福 物語 〜高校生編  作者: 真桑瓜
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憂鬱

憂鬱


最近の福はなぜか浮かない顔をしている。

学園生活にも慣れ、不良たちとの付き合い方にも慣れた。

何よりも、天岡が福に一目置いているのが大きい。

福が憂いていたのは、母の言った一言だった。

「私、喫茶店をやめようと思っているんだ」と母は言った。

福は驚いた。何とか三人で生活できるだけの収入はあったはずなのに・・・

「やめてどうするんだよ!」福はつっけんどんに言った。

「夜、スナックをやろうと思う」

「えっ、スナックって飲み屋だろ!」

「そう、儲かるらしいのよ」

「儲かるって・・・俺たちを育てるの、大変なのはわかるけど・・・」

「それに将来に向かって蓄えも必要だから」

福には何も言えなかった。将来のことなどまだ考えられない。

「それからね、あなたを大学にやるのはおじいちゃんの遺言なのよ」

「だからってそんなに無理しなくても・・・多恵も中学に入ったばかりだし」

「もう決めた事だから、この話は終わり!」母はもうそれ以上、口を開かなかった。

福にはスナックの事は何も分からなかったけれど、水商売のイメージは決して良いものではなかった。



「どうした、稽古に身が入らんようじゃが?」稽古を中断して平助が訊いた。

「はい、いえ、すみません・・・」

「何か心配事があるのなら儂に話してみんか?」

福は迷った、平助に話してもどうなるものでも無いだろう。

「まあ、無理にとは言わんが年寄りの知恵もバカにしたもんじゃ無いぞ」

平助にそこまで言われて拒めるものではない。福は思い切って打ち明けることにした。

「はい・・・実は母が水商売を始めると言っています」

「・・・」これは平助にも意外だった、次の言葉が出てこない。

「僕はそれが嫌で仕方がありません」

「そうか、とにかく今日は稽古にならんようじゃ、帰って休め」

「はい、申し訳ありません・・・」福は項垂れて帰って行った。


翌日、授業が終わる頃、担任の大久保が福を呼びに来た。「矢留、職員室に電話が入っているぞ、親戚の叔父さんからだ」

「親戚の叔父さん?」福にはわざわざ学校に電話を掛けて来るような叔父さんはいない。

「とにかく行ってこい!」大久保は福を急かした。

福は急いで職員室に行った。「失礼します、僕に電話がかかっているそうで・・・」

「おお、矢留か、そこの電話だ」入口付近に座っていた教師が教えてくれた。

福は黒い受話器をとって耳に当てる。

「もしもし、矢留ですが?」

「福か?無門じゃ」

「えっ、師・・」

「しっ!親戚の叔父さんと話している事にしろ」

「・・・は、はい、叔父さんどうしたのですか?」

「今日は何時頃暇になる?」

「そうですね、今日は学園祭の準備のためのミーティングがあるので・・・六時過ぎなら」

「よし、帰りに中洲まで来い」

中州とは、西日本一の歓楽街だ。

「えっ!でも僕、行ったことがありません」

「場所くらいわかるじゃろう。誰でも良い、橋を渡ったところで新富町の丸山と聞けばわかる」

「そっ、そんな!」

「では、待っておるぞ」

一方的に電話は切れた。福は困った顔で受話器を置いた。

「どうした矢留、何かあったのか?」大久保が訊いた。

「いえ、なんでもありません・・・ありがとうございました」福は職員室を出て教室に戻った。

その後学園祭のミーティングには出たのだが、話は頭に入ってこなかった。


福は、中洲は怖いところだと聞いていた。橋を渡るだけで心臓がドキドキする。

こんなところを、学生服を着てカバンを持った高校生が歩いていてもいいのだろうか?

福はキョロキョロと周りを見回して道が聞ける優しそうな人を探してみた。

「ちょっとあんた・・・」

いきなり後ろから声をかけられて、福は飛び上がるほどびっくりした。

「あんた高校生?」

福は恐る恐る振り向いた。

「あら、可愛いわね、何してるの?」

格好は女の人だが、違和感があった。

髪は金髪、でも外人ではない。なんと言っても声が低い。これが噂に聞くおカマという人か。

「あ、あの、新富町の丸山という店を探しているんですが・・・」福は、なるべく目を合わさないようにして訊いた。

「あら、丸山?知ってるわよ、何しに行くの?」

「し、師匠に呼ばれて・・・」

「師匠って?」

「む、無門平助先生です」

「あら、あなた先生のお弟子さん?」

「はい」

「なら私が連れてってあげるわよ」

「い、いえ結構です、場所だけ教えていただければ・・・」福は後退りながら言った。

「あんた私を疑ってるでしょう?」

「いえ、そんなことは・・・」

「いくら私でも、無門先生のお弟子さんに手を出したりしないわよ、安心してついていらっしゃい」

その人はさっさと歩き出した。福は仕方なく後ろについて行った。

どんどん歓楽街の深部に入って行くようで、福はだんだん不安になってきた。

狭い路地に入った時、福の不安はマックスに達した。

背を向けて逃げようとした時、新富町と書いてあるアーケードが目に入った。

福は、ほっと胸をなでおろす。

アーチを潜って少し行くと、『丸山』と書いた看板に明かりが灯っていた。

同じような看板がたくさんあって、路地を明るく照らしていた。

なんだか、おとぎの国に迷い込んだようだった。

看板の奥に狭くて急な階段がある。階段を上がったところの重そうなドアを押して、その人は入って行った。

「おはよーございます」

「えっ、夜なのに?」

「業界の挨拶よ」

「あら、ケンちゃん珍しいわね、こんなに早く」

「ママ、無門先生来てる?」

「おお、ここにおるぞ」

平助は馬蹄形のカウンターの右奥から応えがあった。他に客はいなかった。

福は、生まれて初めてスナックの中に足を踏み入れた。見たことのない世界が広がる。

店内はさして広くない。暖色系の明かりが少し暗めに灯っていた。

中央の円柱形の棚には、ウイスキーのボトルがぎっしり並んでおり、カウンターの内側に流しと簡単な調理場が見えた。

「先生、連れてきたわよ」ケンちゃんと呼ばれた人が言った。

「どうじゃ、すぐ分かったじゃろ?」

「そりゃ学生服を着て、ウロウロしていたら目立つに決まってますよ」

「え、え、それじゃあ初めから・・・」

「分かってたわよ。無門先生に頼まれたの」

「ご苦労じゃった」

「先生、この子ったら私を見て逃げようとしたのよ」

「ははは、いきなり中州の洗礼を受けたのじゃ、当然じゃろ!」

福はまだ呆然としていた。

「じゃ、私仕事があるから・・・またね坊や」ケンちゃんは福にウインクをして出て行った。

「福、こっちへ来て座れ」

「はい」福は言われるままに平助の隣に座った。

「ママよ、この子に何か飲み物を作ってやってくれんか」

「はい、何がいいかしら?」

「う〜ん、えっと・・・」福にはスナックで注文するべき飲み物が思いつかない。

「ウィスキーの水割りを作ってやってくれ」平助が言った。

「先生、この子高校生なんでしょ?」

「構わん、今日は特別じゃ」

「ホホホ、知りませんよ」ママは笑いながら水割りを作ってくれた。

「飲んでみよ」平助が命じた。

人生最初の酒である。

「は、はい」福は覚悟を決めてグラスに口をつけ一気に飲んだ。冷たくて熱い液体が喉を焼いて胸を通って胃に落ちて行った。

福は大きくせて顔を顰めた。なんとも言いようのない味だ。なぜ大人はこんなものを美味しそうに飲むのだろう?

「どうじゃ、美味いか?」

「ゲホッ・・・う、美味くありません」

「そうであろうな」平助はニヤニヤ笑っている。

「ところでマスターの姿が見えぬようじゃが?」

「今、タバコを買いに行っています、でもちょっと遅いわね?どこかで油でも売っているのかしら・・・」ママが首を捻る。

その時、ドアが開いて男の人が入って来た。「ただいま、あ、先生。いついらっしゃいました?」

「ついさっきじゃ」

「おや、そちらの学生さんは・・お孫さん?」

「まあ、そんなところじゃ」

「あ、そうそう、そこで松尾の親分と会いましたよ、近頃先生は来られるかって聞かれました」

「うむ、暫く会っておらんからな」

「今日あたり見えるんじゃないかってお答えしたら、後で覗いてみるからとおっしゃっていました」

「そうか」

それから平助は、まるで福がそこにいないように、ママやマスターと世間話を始めた。

時々気が付いた様に福に酒を勧めるので、手持ち無沙汰な福はだんだんと水割りが飲める様になった。


暫くすると、またドアが開き男の人が首だけ出して店の中を覗いた。

「こんばんは、流しは要りませんかぁ?」

「あら、バタやん、今日は暇なのよ。閑古鳥が鳴いているわ」ママが申し訳なさそうに答えた。

バタやんは平助に気付いてお辞儀をした。

「先生お久しぶりですね」

「久しぶりじゃ、元気にしていたかの」

「はい、おかげさまで」

「せっかくじゃ、一曲頼もうか」

「ありがとうございます」バタやんはギターを大事そうに抱いて店に入って来た。

「何をいきましょう?」

「任せる、懐かしいところを頼む」

バタやんはギターを抱えて古い演歌のイントロを爪弾いた。

「これでいかがです?」

「うむ」平助が軽く頷いた。

バタやんはいい声で歌い出した。テレビで見る歌手よりずっと上手だ。

福は酒の酔いも手伝って、だんだん気持ちよくなってきた。

曲が終わると、平助は財布から紙幣を何枚か抜き取りバタやんに手渡した。

「えっ、こんなに!いいんですか?」

「まあ良い、取っておけ。それよりここに若いのがいるから、若者の歌も一曲頼むぞ」

「承知しました!」バタやんはギターを構え直し、福もよく知っているアイドルの曲を歌い始めた。

軽率な歌だとバカにしていたのに、バタやんが歌うと名曲に聞こえるのは、なぜだろう?

『世間で評価されているものが、決して本物ではないのだな』と福は思った。


バタやんが帰ると、また店は静かになった。

そのうちに、ポツポツと客が入ってくる。

客は、一人であったり、二人であったりするが、皆静かに酒と会話を楽しんでいる。

タバコの煙が幻想的な雰囲気を醸し出す。

ママもマスターも客が飽きないように、また邪魔をしないように、絶妙の間でこの空間を仕切っている


客が帰り、また静かになる。

それを見計らったように、和装の男性が入ってきた。

「いらっしゃいませ」マスターが静かに言った。

「あら、親分、お待ちしておりましたよ」ママがにこやかに迎え入れる。

親分と呼ばれた人は、微笑みながら近づいてきた。

平助が軽く頭を下げた。

親分は、福の隣に座った。福は男の発する雰囲気に飲まれてすくんでしまった。

「先生、ご無沙汰しております」男が平助に挨拶をした。

「こちらこそ、ご無沙汰しておりましたな」

「お元気でしたか?」

「まだ、この通り酒も飲める」平助はグラスを挙げた。

「そりゃ良かった、でも無理は禁物ですよ」

「もう歳じゃでな」

「ははは、お互いに・・・ところでこちらは?」親分が福を見た。

「孫・・・のようなものですかな」

「そうですか」

「福、松尾組の親分だ。挨拶をせんか」

「は、はいっ!」

福の声は緊張のあまり裏返った。

「や、矢留福と言います、よろしくお願いします!」やっとそれだけを言った。

「松尾です、宜しく」松尾は福を見下す様子も無くそう言った。

それから、平助と松尾はマスターやママを交えて、ひとしきり昔話に花を咲かせた。

二人は、とても信じられないような話を平然と話した。酔いかけていた福の頭はすっかり醒めてしまった。

小一時間ほど経った頃、松尾はグラスを置いて席を立ち、平助と再会を約して帰って行った。

帰り際に福に向かって、「しっかりやりなさいよ」と低い声で言った。


「儂らもそろそろ帰るとするか?」平助がそう言った時、入り口のドアが勢いよく開いた。

「ママ!聞いてよ!あの男ったら、私にいやらしいことばかりするんだから!」酔っぱらった若い女が転がり込んで来た。

「まあ、佳奈ちゃんどうしたの・・・」

「佳奈っ!どうして逃げるんだっ!」後を追って若い男が飛び込んで来た。

佳奈はいきなりその男の頬を張った。

「何すんだよっ!」男は佳奈の右手を掴んだ。

「マア、マア、待ちなさい」マスターが割って入る。

「ちょっと外に出よう、ここじゃお客さんに迷惑だから」

佳奈は、まだ何か言いたそうだったが、マスターに背中を押されて渋々階段を降りて行った。

福はあっけにとられて、その様子をただ眺めていた。

「ごめんなさいね、先生、福ちゃんもびっくりしたでしょう」ママは二人に手を合わせた。

「構わんよ、どうせ痴話喧嘩じゃろう」

「そうなんですよ、あの二人付き合っているんですけど、男の方がヤキモチ焼きでねぇ」

「可愛いのう。じゃが、あの二人そう長くは続かんかもしれんぞ」

「私もそんな気がしますねぇ」

平助がカウンターに勘定を置いて席を立つ。

「また来るでな」


二人は店を出て歩き出した。

もう十二時を回っているが酔客はまだたくさん歩いていた。

交番の前に差し掛かった時、若い巡査が声をかけてきた。

「君々、君は高校生だろう、こんな時間に何をしている?」

「ちと孫に社会勉強を、な」横から平助が答えた。

巡査は平助を見てびっくりしたように目を見開いた。

「社会勉強ってあなた・・・」

その時、交番の奥から中年の警察官が出てきた。

「無門先生、お早いお帰りですな・・・おや、お孫さんですか?」

「おう、山さんか、久し振りじゃ」平助が親しげに答える。

「お元気そうで何よりです」

「お前さんものぅ」

「まあ先生に言うのもなんですが、今日はいつもより人出が多い。お気をつけてお帰りください」中年の警察官は軽く敬礼をした。

「ありがとうよ、では失礼する」平助も軽く会釈をして歩き出した。


「山さん、あの爺さん何者ですか?」後ろで若い巡査の訊く声が聞こえた。

「伝説の男だよ」山さんは簡単に答えた。

「伝説の・・・」

「お前もここでやっていくつもりなら、覚えておくがいいよ」


大通りに出た所で、平助がタクシーを止めた。

「福、一人で帰れるな?」

「はい、師匠・・・今日はありがとうございました」

「今日は何も考えずに休むのだぞ」

「はい」

平助は、運転手に向かって言った。「これで足りるだろう、釣りはいらん、ちゃんと家まで送り届けてくれよ」平助はタクシー代には過分な紙幣を運転手に渡した。

「承知しました!」運転手はドアを閉めて、車を出した。


福は、ほんの少しだけ水商売の実態を見た。

あとは自分で考えろ、と平助は言いたかったのだろう。

今はまだ、結論を保留にしておこう。母には母の考えがあるのだ。何が正しいかなんて分からないのだから。



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