孤狼
狐狼
週も半ば、水曜日の四時限目から天岡の姿が見えなかった。
「あいつ、裏門の藪の中にバイク隠してっだろ。またどっか行ったんじゃね?」と、昼休みの教室で皆が噂している。
そこへ金子が慌てて入ってきた。「おい、グラウンドで天岡が学ランを着た大学生に絡まれてるぞ!」
教室に残っていたものは皆、ワッと駆け出していった。
『大学空手部の連中に違いない』、福もグラウンドに急いだ。
天岡は十人ほどの黒い男たちに囲まれていた。
「お前はまた授業をサボって出かけていたろう?」
「しかも、藪の中に隠したバイクで、だ」
「今度は言い逃れはできんぞ」
「俺は言い逃れなどした覚えはないが?」天岡が静かに言った。
「黙れっ!往生際が悪いぞ!」
「なら、どうすればいい?」
「バイクは預かる!」
「お断りだな」天岡が笑った。
「何っ!」一人がいきなり天岡の胸ぐらを掴む。
鈍い音がして、その男が蹲った。
天岡のパンチが男のボディを捉えたのだ。
残りの男たちが一斉に動いた。
一人が後ろから天岡を羽交い締めにすると、別の男が天岡に近づいた。
「あの時の男だ!」福はその男に見覚えがあった。
「待てっ!」
突然声がして、黒い男たちの背後から一人の男が現れた。
「田岡主将っ!」
男達に緊張が走った。押忍!押忍!っと、あちこちで声がする。
「誰の許しを得てこのようなことをしている・・・中山お前か」
中山と呼ばれたのは、見覚えのある男だった。
「押忍っ!自分は学園長の言いつけを実行に移しただけでありま・・・」言い終わらぬうちに田岡の平手が中山の頬に飛んだ。
「馬鹿野郎!だからと言ってこのザマは何だ、たかが高校生一人に・・・空手部の恥さらしだっ!」
黒い男たちは一斉に俯いてしまった。
「済まなかったな、空手部の主将として俺が謝る」田岡は天岡に頭を下げた。
「分かればいい」
「ところで・・・」田岡は天岡を見据えた、「それはそれとして、このままでは主将としての面目が立たない」
「どうしようというのだ?」
「どうだ、俺と対で勝負してみんか?」
「ほう」
「見た所ボクシングをやっているな?それもかなりの腕だ」
「だから?」
「お前とやってみたい、これは個人的な興味でもある」
天岡は田岡を値踏みするように見た。
「いいだろう、だが今日はダメだ、大事な試合を控えているんでな」
「いつならいい?」
「三日後」
「場所は?」
「そちらで決めてくれ」
「では、当学園大ホールではどうだ、学園長には俺が話しておく」
「いいだろう」
「それまで怪我などするんじゃないぞ」
「お前もな」
田岡は黒い男たちの方を振り向いてニッと笑った。
「絶対に手を出すんじゃないぞ・・・俺の獲物だ」
田岡が去ると黒い男たちもそれに続いた。
去り際に中山が薄笑いを浮かべた。
「気の毒に・・・な」
五限目、地理の授業の時、担任の大久保が言った。「天岡、さっき学園長から電話があった。今日のことは不問に伏すようにと・・・お前何をやった?」
「別に・・・」
「学園長が、『楽しみにしています』とお前に伝えてくれと言っていたぞ」
「悪趣味だな」
「今に始まったことじゃない・・・」大久保はそれ以上何も言わなかった。
放課後、天岡が福の所にやってきた。
「俺の試合のチケットだ、良かったら観に来てくれ」
天岡は、チケットを福に渡すとさっさと教室を出て行った。
皆が福の所に集まって来た。「なんでお前だけなんだ?」井上が訊く。
「さあ?俺にも分からない」福も首を傾げている。
チケットには、明日の夜六時、電気ホール、と書いてある。
「行ってみるか・・・」福は小さく呟いた。
天岡の試合は、東洋バンタム級タイトルマッチの前座だった。
天岡はフェザー級、四回戦に出場する。
六時から始まった試合は順調に消化されていった。
前座なのでまだ客席は疎らだ。
福には三回戦の選手の動きがはっきりと見えた。普段槇草の動きを見慣れているせいだろうか。
天岡の試合は七時前に始まった。観客席は八割がた埋まっている。
この時間帯の試合は見応えがあった。さっきまでとはレベルが違う。
リングアナウンサーが天岡の紹介をした。6戦5勝1分け4KO、体重124ポンド。
ゴングが鳴る前、天岡はチラッと福の方を見た。笑っているように見えたのは気のせいだろうか。
1ラウンドのゴングが鳴った。
相手の選手は積極的に攻める。
天岡はガードのために挙げたグラブの隙間から、相手の動きを見ている。
たまに放つパンチも、相手の反応を見る為のもののようだ。
1ラウンドが終わる、もう福の方は見もしない。
2ラウンドが始まった。
天岡はガードを下げて、わざと顔面を開ける。
相手の選手は果敢にパンチを繰り出すが、全て天岡の躰の動きで躱される。
天岡は、試すようにボディにパンチを放つ。
段々と相手の選手のガードが下がって行く。
2ラウンド目が終わった。
セコンドにマッサージを受けながら、天岡が福を見て、今度ははっきり笑った。
第3ラウンドが始まった。
天岡はうっすらと汗をかいていたが、相手の選手は既に肩で息をしている。
天岡はライオンがウサギを追い詰めるように、相手の選手をコーナーに追い詰めて行く。
天岡は左手でボディにフェイントをかける。
相手のガードが一瞬下がった。
同時に天岡の強烈な右ストレートが、相手の顔面に炸裂した。
相手はコーナーポストを背にして、ズルズルと沈んでいった。
3ラウンド1分15秒、天岡のKO勝ち。
「矢留君かい?」次の試合が始まる頃、福は後ろから声をかけられた。
「そうですが?」
「天岡が君を呼んできてくれって」さっき天岡のセコンドに付いていた男だ。
福が男について選手控え室に入っていくと、天岡はロッカーの前の長椅子に座ってこっちを見ていた。
グローブは外しているがバンデージはまだ巻いたままだ。
「よう、どうだった?」いきなり天岡が訊いた。
「天岡君のパンチは、起こりが見えない」福も単刀直入に答えた。
「そうだろう、だいぶ研究したからな」天岡が笑った。
「天岡君は試合が怖くはないの?」今度は福が訊き返す。
「怖いさ、だから試合の日はバイクを走らせる」
「じゃあ、天岡君がいなくなる日は試合の日だったんだね?」
「そうだ・・・ところで・・・」天岡が口籠る。
「どうしたの?」
「あの時は嬉しかったよ」
「あの時って?」
「俺を庇おうとしてくれた」
「あァ・・・」
「人に庇ってもらったことなんてなかったからな」天岡は照れたように微笑んだ。
「田岡と戦うの?」
「ああ、奴はある大物政治家の次男坊なんだそうだ」天岡が言った。
「だからみんな恐れてるんだ」福は独り言ちた。
「空手は沖縄の有名な先生を自宅に呼んで習ったそうだ」
「強いの?」
「九州の大学選手権では優勝しているらしい。しかし残忍だという噂だ」
「誰がそんなこと教えてくれたの?」
「大学の事務にお節介な奴がいてな・・・矢留さっきから質問ばかりだぞ」天岡は少し笑った。
「ごめん・・・今日はおめでとう」福は思いついたようにお祝いを言った。
「別にめでたくはないが、ありがとう・・・二日後を楽しみにしていてくれ」
福はそのままメーンエベントを観ずに帰途についた。