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福 物語 〜高校生編  作者: 真桑瓜
15/44

四日目

四日目


夏休みも、あと残り僅か。

昨日はアクシデントがあって、予定の半分しか進めなかった。

バイトで稼いだお金も、もうあまり残っていない。

旅立ちの時は、あんなに自由を感じたのに、結局は時間・空間・お金に縛られることになる。

『仕方ないか、人が作った世界で生きているんだもんな』

福は、大人びた事を考えていた。

『本当の自由って、実はとっても厳しいのかもね』

ともあれ、今日で旅の半分は終わりである。

『とりあえず、本土最南端まで行ってから、北上を始めよう』

但し、昨日のような事にならないように、地図をよく見て、カチガラスの出現にも気をつけていよう。


本日は、薄曇り。しかしさすがは太陽の国宮崎、雨にはまだ会っていない。

『昨日の遅れを取り戻さなきゃ』

福は、都井岬を諦めて220号線を行くことにした。

途中、数台のツーリング中のバイクとすれ違った。

みんな、胸の前でVサインを出して挨拶してくれる。

福も、嬉しくなってVサインを返すが、大きいバイクばかりで肩身がせまい。

『よ〜し、二年になったら大型の免許を取るぞ!』と、決意を新たにする。

今日もバイクは快調に走る。道の両側には青い稲田が延々と続いていた。

榎原を過ぎて園田を通過したあたりで、後ろから大きなトラックが追いついてきた。太い材木を沢山積んだトレーラーだ。

福はなるべく左に寄って速度を落とす。

『どうぞ先に行ってください』

ところが、トラックは福の後ろにピタリと付いて、追い越す気配がない。

『なんだなんだ、どういうつもりなんだ?』

バックミラーで、運転手の顔を確認しようとするが、運転席が高すぎて顔が見えない。

福は、怖くなって、スロットルを全開にした。

しかし、どんなにスピードを出しても、トラックはピタリと付いてくる。

『原付じゃこれが限界だ!』

プア〜ン!トラックが大音量でクラクションを鳴らす。

必死で逃げるが、トラックは福をあざ笑うかのように追いかけてくる。

『これじゃ、象に踏み潰されようとしているアリンコだ』

緊張した状態が数キロ続いた。

と、トラックがスピードを上げて福を追い越しにかかった。

『よかった、飽きたのか。このまま追い越させよう』

福がスピードを落とすと、トラックの後輪がすぐ右側に見えた。

福はでかいタイヤに吸い込まれそうになる。

吸引力に逆らって道路の左端ギリギリのところにバイクを寄せた。が、今度はタイヤの方から福に迫ってくる。

『もうダメだ!』

そう覚悟した時、「飛ぶんだ!」っと大きな声が聞こえた。

福は躊躇なく、青々と伸びた稲の海にダイブした。


バイクは稲をなぎ倒し、田んぼの中でバウンドした。

福は投げ出され、十メートルほど飛ばされて背中から落下した。

一瞬、息が詰まり記憶が飛んだ。何が起こったのか理解するのに数秒かかった。

トラックはすでに見えなくなっていた。

『ああ、生きている・・・』福は仰向けに伸びたまま、空を見上げて呟いた。


遠くからバイクのエンジン音が聞こえてきた。

2ストローク車独特の甲高い音が、福の意識の向こう側で急ブレーキをかけて止まる。

「大丈夫か!」ライダーがバイクに跨がったまま福に声をかけてきた。

福は呆然としたまま、声のした方をゆっくりと振り向いた。

スリムなバイクの車体が目に入った。『あれは確か・・・カワサキ500SSマッハIII、乗り手を選ぶじゃじゃ馬じゃないか』バイク雑誌で見た事がある。

ライダーは、黒の革ツナギに真っ赤なフルフェイスのヘルメットをかぶっている。

福は返事も忘れてライダーを見つめていた。

ライダーはがバイクを降りてヘルメットを取った。

黒く真っ直ぐな髪が、肩まで落ちてきた。唇が燃えるように紅い。

『女の子・・・?』福は目を瞠った。

彼女はヘルメットを置くと、稲の海に飛び込み、福の側で片膝をついた。

「ちょっと見せて」

彼女は、福の躰をあちこち触って点検した。

「怪我は大したことなさそうね・・・立てる?」

福は、一度腹這いになり、両手に力を込めて立ち上がる。

「うん、足も大丈夫そうだね!」

彼女は立ち上がって、艶やかな笑顔を福に向けた。

「ありがとう」福は礼を言った。

「いいってこと、それより、手伝うからバイクを道路まで揚げなくちゃ」

「ああ、そうか・・・」

二人は苦労してバイクを稲の海から救い出した。

「あっ、左のリヤウインカーが折れてる。あとはバックミラーが曲がっただけね。これくらいで済んで、ほんと奇跡だわ!」

彼女は福の時と同じように、バイクも点検した。

「ちょっとウインカー点けてみて」

福は、左のウインカーのスイッチを操作した。

「灯りは点くけど、点滅しないわねぇ。ま、いっか、手信号でも曲がれるわ」

彼女は、スタンドを立てて福のバイクに跨がる。

「エンジンはかかるかなぁ?」

彼女は自分でキックアームを蹴った。エンジンは、プスン・プスンという音を立てるだけで、一向にかからない。

「こりゃ、プラグがかぶってるわ」

「かぶるって?」福は尋ねた。

「呆れた、そんなことも知らないでバイクに乗ってるの?」彼女が眉をしかめる。

「私のバイクから、工具を取ってくるから待ってて」

それから彼女は、慣れた手つきでプラグを外した。

「あなた、ライター持ってる?」

福は荷物からキャンプ用の100円ライターを取り出した。

「これでいいかな・・・」

「うん、上等よ」

彼女は、プラグのヘッドをライターで焼き、こびりついたカーボンを金属ブラシでこすって、きれいに落とした。

「よし、これでかかるはずよ。キックしてみて」

福が、アームを踏み下ろすと、エンジンは一発で動き始めた。

「あっ、かかった!君は、バイクの修理もできるんだね、本当にありがとう・・・あの、何かお礼がしたいんだけど・・・」

「お礼って・・・見たところ君、貧乏旅行じゃない?そんな人からお礼なんてもらえないよ」

「でも・・・」

「あっ!そうだ、そんなにお礼がしたいんなら、家に寄ってってくれないかなぁ。今日、親父の機嫌がすこぶる悪いんだ」

「えっ、お父さんの機嫌が悪いって・・・僕に何かできるの?」

「うん、ちょっと話し相手になってくれればいい。ところで君、お酒は飲める?」

「う〜ん、ちょっとなら・・・」

「私、井上久美子。家は漁師、親父は網元だよ」

「僕は、矢留福、高校一年。福岡から来ました」

「ナンバープレートを見ればわかるわよ。私は看護専門学校の一年、つまり君より三つお姉さんね。ヨ・ロ・シ・ク」久美子戯おどけて片目を瞑ってみせた。

「ところで、久美子さんの家ってどこですか?」

「油津よ、港のすぐそば」

「えっ、油津?今朝出てきたばかりなのに」

「油津のどこに泊まっていたの?」

「駅の待合だよ、気がついたら寝てた」

「ふ〜ん、そこで誰かに合わなかった?」

「若い駅員さんにはあったけど・・・」

「そう・・・家に行く前にちょっと寄り道するわよ」

久美子はそう言って、ヘルメットをかぶった。


油津の駅は、通勤通学の時間が過ぎて閑散としていた。

久美子のバイクの音は、全くもって場違いだ。

エンジンが止まると、静寂が訪れた。

久美子はバイクを降りて、駅舎を覗き込む。

「健さん、いる?」

返事がない。

久美子は、勝手に改札を通ってホームに出た。

反対側のホームで、小柄な駅員が掃除をしている。

「健さ〜ん!」

「ああ、久美ちゃんか、どうしたんだい?」

「ちょっと話があるの、こっちへ来てくれるかなぁ?」

「わかった、今行く」

健さんと呼ばれた駅員は箒とちりとりを持ったまま、踏切を渡って久美子の前にきた。

「健さん、今夜家に来てくれない?」

久美子は、駅員の顔を見るなりこう言った。

「突然だなぁ。だけど君のお父さんは僕を嫌っているんじゃなかったかな?」

「大丈夫、今夜はお客さんがいるの」

久美子は福を振り向いた。

「あっ、君は今朝の・・・」

健は、福の顔を見て驚いたようだった。

「はい、矢留福と言います。今朝はお世話になりました」

福は軽く頭を下げた。

「なんもなんも、お世話なんかしとらんよ」

「健さん、今夜はこの子も一緒だから、親父もそうつれなくは出来ないんじゃないかなぁ?」

「そうかな?まっ、行く分には構わないけどね」

「決まり!じゃ、仕事が終わったら来てね」

久美子は、嬉しそうに健に手を振って、バイクに跨がった。



久美子の家は、漁港のすぐそばにあった。

古い入母屋造りの二階建てで、まるで陣屋よう名趣おもむきがある。

広い敷地には、魚網や福の見た事の無い漁の道具が所狭しと置かれている。

バイクを敷地の隅にある大きな車庫に止めた。

車庫には、自家用車の他に、軽トラと久美子のものとは別に、もう一台大型バイクが停めてあった。

「ちょっと待ってて、親父に君が来たことを報告してくるから」

久美子は、玄関を開けて奥へ入って行った。

しばらく待っていると、久美子が戻って来た。

「許しが出たよ、荷物を持って上がっておいで」

玄関脇の部屋に荷物を置いて、福は奥へ続く廊下を久美子の後について行った。

一階の西と南を囲む、縁側の廊下を歩いて行く。いったい幾つ部屋があるのだろう。

三つの部屋の前を通り過ぎ、四つ目の部屋の前で久美子は止まった。

「親父、連れてきたよ」

久美子が、声をかける。

「入ってこい」

野太い声が返ってきた。

福は、久美子について恐る恐る部屋に入った。

部屋に入ると、色の浅黒いプロレスラーのような大男が、仏壇を背にして卓の前に座っていた。

男は、福をギロリと睨む。

「俺の縄張りでひどい目にあったそうだな。俺が代わって謝る、すまん」男は福に頭を下げた。

福は慌てて首を横に振った。「いえ、そんな、謝るだなんて・・・」

『見ず知らずの人に謝られても困る・・・それに縄張りってなんだ?』

「親父は油津じゃ知らない人の無い名士なんだ。だから、この辺りで起こった事は自分の責任だと思ってる」久美子が小声で教えてくれた。

「今夜は泊まって行け、お詫びに旨い魚をたくさん食わせてやる」

有無を言わせぬ強引さに、福は断ることができず首を縦に振るしかなかった。

「よ、よろしくお願いします」

その時、外から異様な大声が響いてきた。

「え〜い!えいえいえいえいえいえいえいえい・・・え〜い!」

声と同時に、木と木がぶつかる鈍い音がする。

「あっ、ごめんね、びっくりした?弟が裏庭で剣術の稽古をしているの」

久美子は外に顔を向けながら福に言った。

福には思い当たる事があった。

「あの声は・・・、示現流ですね?」

「えっ、知ってるの?」

「はい、師匠に聞いたことがあります。薩摩に一撃必殺の剣術があるって。師匠のおじいさんが、薩摩の中村半次郎を知っていたって」

久美子の父は、その話に、興味を持ったようだった。

「その、師匠ってのは何者だ?」

「僕の空手の師匠です」

「空手をやるのか・・・しかし、師匠ってのは古臭い呼び方だな」

「でも、ぴったりなんです。空手だけじゃなく、剣術、居合、棒術、柔術、手裏剣、なんでも教えてくれます」

「何のために?」

「武術の原理は、すべて同じだそうです。その原理を武器に合わせて使い分けるのだと師匠は言いました。そして逆に、複数の違った動きから一つの原理を導き出すのだと」

「ふ〜む、その師匠は深いな・・・そうだ久美子、ちょっとあきらを呼んでこい」

「親父、何をする気だよ?」

「いいから呼んでこい!」

久美子の頭に悪い予感がよぎった。


「なんだよ親父、俺、今稽古中なんだけど」

憮然とした顔で、福と同じ年頃の若者が入ってきた。体格は、父に似てがっしりしている。

「おお、晶、ちょっとこいつと太刀合ってみろ!」

「なんで俺が、こんな生っちょろいやつと立ち合わなきゃならないんだ?」晶が福を見てうそぶいた。

「つべこべ言うな、お前が勝ったら、新しいバイクを買ってやるぞ」

「えっ、本当かよ親父?」

晶の目が輝いた。福を抜きにして勝手に話が進んでいる。


「ちょっと待って下さい、僕はまだ立ち合うとは言ってません」

「お前、久美子に、礼がしたいんじゃなかったのか?」

久美子の父が福を睨んだ。

「はあ、それはそうですが・・・」

「だったら、文句は無いじゃないか?」

「・・・」

「ごめんね、親父は言い出したらきかないから・・・」

『なぜそうなる・・・?』しかし福は、抵抗が虚しい事を悟った。

久美子は、福に向かって手を合わせた。


「若いの、まだ名前を聞いてなかったな」

「矢留福と言います」

「俺は、井上大蔵という、覚えておいてくれ」

それから大蔵は、若者を福に紹介した。

「息子の晶だ、鹿児島の示現流の道場に通っている。晶、挨拶しろ!」

晶は、不精無精名乗った。

「井上晶だ。最初に断っておくが、俺は手加減はしない」

福は、晶の態度に腹が立った。

「望むところだ」

福は、晶を睨み返した。


裏庭に出ると立木が立っていた。立木は両側が深くえぐれており、相当な力で打ち込まれた事を物語っている。

その横には四尺に満たない木の棒が、無造作に束にして置いてあった。


「どれでも好きなものを取れ」晶は、棒の束を指差して言った。

福は中くらいの太さの物を選び、晶は一番太い棒を手に取った。

「いいか、これは遊びじゃない。真剣にやれ!」

「分かってるよ親父」晶が不敵に笑った。

「矢留とか言ったな。晶に勝ったら久美子を嫁にやる」

「ええっ、なんでそうなるんですか!」

「なんだ、不服か?」

「・・・」

『こりゃ何を言っても無駄だ・・・』

「始めるぞ!」

大蔵の大声に弾かれたように、両者は飛び下がって構えた。

晶は示現流トンボの構え、福は中学の時、石井や横山に対した入身の構え。

「ほう、変わった構えをする・・・」大蔵が呟いた。

『面がガラ空きじゃないか、あれでどうやって発剣するんだ?』晶は一瞬迷ったが、すぐに打ち消した。『示現流は一撃必殺、初太刀に全てをかける、二の太刀は無い!』

晶はすり足を飛ばして福に迫った。

「チェストー!」必殺の一撃を、福の頭上に振り下ろす。

福はその剣を避ける事をしなかった。そんな事をしても間に合わないことは目に見えている。

その構えのまま、切っ先を下方向に回し浮身をかけた。

福の剣は地面を切り裂く様にして跳ね上がり晶の左腋わきを斬り上げる。

晶の剣は腋を打たれながらも勢いを失わず福の左肩を強打した。

一瞬固まった二人は、痛みをこらえて構え直す。

「親父っ!もういいよ、それ以上やると死んじゃうよ!」久美子が大蔵に向かって叫んだ。

大蔵は久美子を睨んだが、「仕方無えなぁ」と言って、二人の間に割って入った。

「それまでだ、二人とも剣を引け」

福と晶は、二、三歩下がってから構えを解いた。

「久し振りにいいものを見せてもらった・・・久美子、二人の手当てをしてやれ」

「分かった、二人とも座敷に上がって!」


久美子は福の上着を脱がせて肩を見た。

「うわっ、見事にミミズ腫れ!」

そう言って、福の肩から背中に掛けて疾る赤黒い痣に湿布を当てる。

「痛いっ!」福が泣きそうな声を上げた。

「弱虫だね君、骨には異常な意から大丈夫だよ」

「はい次、晶、傷を見せて」

晶は、ゆっくりと左手を上げた。

「わっ酷い、刀なら左腕切断、出血多量で死んでるわ!」

久美子は手早く治療を済ませて、二人を大蔵のいる仏間に連れて行った。


大蔵は仏壇に向かって線香をあげ、何やらブツブツ言っていた。

「母ちゃん、今日俺はいいものを見たよ。近頃の若い者も捨てたもんじゃねえな」

「親父、何ブツブツ言ってんだよ、治療終わったぞ」久美子はぞんざいに言った。

「おっ、そうか。今夜は気分がいい、鵜飼に言って酒と料理を用意させろ」

鵜飼というのは、井上家の執事的存在だ。

「分かった!」

久美子は、急いで仏間を出て行った。


鵜飼は台所にいた。台所と言っても軽く二、三十人は一緒に飯が食える板張りである。

「爺、親父が酒と料理を用意してくれって」

「はい、お嬢様」

鵜飼は七十を少し超えた爺様だが、白い髪がふさふさと多く、口髭を蓄え、矍鑠かくしゃくとしている。まるで明治時代の紳士のようだ。漁師の家には全然似つかわしくない。

「旦那様は、ご機嫌のようですな」

「そうなんだ、だけど晶は機嫌が悪い」

「ほう、どうされましたかな?」

「剣の勝負に勝てなくて、新しいバイクを買って貰えなくなったからね」

「あのぼんが、負けたのですか?」

「いや、引き分けだったけど」

「ふ〜む、お珍しい事ですな。さぞかし難しい顔をしておいででしょう」

「そうなんだ」

「それにひきかえ、お嬢様は機嫌が御よろしい」

「分かる?」

「この鵜飼に、お嬢様のことで分からない事などございません」

久美子の顔はがほんのりと赤くなった。

「そんな事より酒と料理頼んだよ、五人分ね」

「はい、御任せください、腕によりをかけてご用意いたします」

鵜飼は、それ以上何も聞かなかった。


食事は、仏間の隣の十畳の間に用意された。

最初は、伊万里の大皿に魚介の刺し盛りが出た。

酒は、木の薫りのする灘の銘酒である。

福は、その匂いを嗅いだだけで頭がクラクラした。ウイスキーは平助と中州で飲んだが、日本酒は初めてだった。

「酒は、俺のほうが強そうだな」

晶は福の様子を見て機嫌が良くなったのか、ニヤリと笑った。

「良かったら、二、三日泊まって行けよ、その傷じゃバイクは無理だろ」

「ああ、ありがとう。考えてみるよ」

福は、素直に礼を言った。


次から次に出てくる料理は、どれも驚くほど美味しい。

「爺は、料理の天才なの」久美子が、ピザを頬張りながら言った。

その時、襖の外で鵜飼の声がした。

「お客様がお見えです」

「何?客なんて呼んだ覚えは無いぞ」

襖が開いて、久美子が健さんと呼んでいた駅員の顔が見えた。

「こんばんは、遅くなりました」

健は、畳に手をついて挨拶をした。

「あっ!健さん、入って入って」久美子は嬉しそうに、健を中にいざなった。


「久美子、駅員を呼んだのか?」

大蔵はジロリと久美子を睨んだ。

「黙っていてごめん。だって親父、健さんを誤解してるんだもん」

「何が誤解なもんか、酔っ払いに殴られる様な青瓢箪はお前の婿にはなれん」

「だって、あれは・・・」

「まあいい、駅員、そこに座れ」

健は、末席におとなしく座った。

「今日は、久美子が自分で婿を連れてきた、その祝いだ」

「親父、何を言い出すんだ!」

久美子は、慌てて遮った。

「お前の婿は、強い男でなけりゃ務まらん」

福は一瞬、誰のことを言っているのかわからなかった。

「あの、それって・・・」

「お前のことに決まってるだろう」

「親父!私が好きなのは健さんだよ!」

「黙れ!お前の婿は俺が決める!」

大蔵は、今までのえびす顔から一転、仁王のような形相で久美子と健を睨んだ。


「親父さん」

健が、静かに口を開いた。

「私があなたより強ければ、二人の結婚を許していただけますか?」

大蔵は、唖然として健を見据えた。

「お前が、俺より強い?ありえんだろう」

「それはやって見なければ分からない事です」

「馬鹿言え、酔っ払いに絡まれてなんの抵抗も出来ん奴に、俺が負けるとでも思っているのか!」

「私は駅員の業務を全うしただけです」

「そうか、いい度胸だ後で後悔するなよ。表に出ろ!」

二人は、裸足で庭に降りた。

「二人ともやめて!」久美子は必死に叫んだ。

「久美ちゃん大丈夫だよ、お父さんに怪我はさせないから」

「なんだと!」大蔵の怒りは頂点に達した。

「剣ですか、素手ですか?」健は大蔵に尋ねた。

「素手だ!」

大蔵は、いきなり健に飛びかかって行った。

体格差は大人と子供ほどもある、健は鞠のように宙に放り投げられた。

「危ない!」

久美子が叫んだ時、健はなんのことなく沓脱ぎ石の上に立っていた。

「小癪な!」

大蔵は、健に突進して行った。

健は大蔵の頭上を飛び越え、後方に降り立つ。

大蔵は、振り向きざま丸太のような腕で殴りかかった。

その手が健の左手に軽く触れたと思った刹那、大蔵は大きく弧を描いて庭の中央に飛んで行き、したたかに背中を地面に叩きつけられていた。

大蔵は、しばらく息をつめたまま身じろぎもできなかった。

健は、ゆっくりと大蔵に近付き右の腕を逆手に決めた。

「痛っ!」

大蔵は、全く動けないでいる。

しばらくは、唇を噛み締めてこらえていたが、やがて観念したように左手で地面を叩いた。

「参った」

健は静かに逆手を解いた。


大蔵は健の盃に灘の熱燗を注いだ。

「鵜飼、どんどん酒をつけろ、今夜は祝いだ」

大蔵は鵜飼にそう言いつけて健を振り返る。

「どうやら俺は、お前さんを誤解していたようだな」

「いえ、まだまだ未熟です」

「あの技はなんだ?」

「柔術です、小さい頃から父に仕込まれました」

「柔術か、どうりで・・・」

「健さん、なんで黙ってたんだい?」晶が尋ねた。

「自分から言う事ではないだろう?」

「健さん、奥床おくゆかしいからね」久美子が、自分のことのように言った。

「もう惚気のろけか、久美子?」大蔵が大口を開けてカラカラと笑った。


福の婿入りの話は霧消してしまい、福は心底安堵した。

無理矢理飲まされた酒に酔って、宴の途中で福は二階に床を取ってもらった。

大蔵もそれ以上無理強いする事無く、福を解放してくれた。

きっと、健さんと飲み明かしたいのだろう。

福は、背中の傷が痛んだが明日は出発しようと決めて、早々に眠りに落ちた。


ボ〜ン・ボ〜ン・ボ〜ン・・・

古い柱時計が午前三時を告げた。福はその音で目を覚ます。

『なぜ夜中に音で時刻を告げる必要があるのか? きっと人間は、いつでも時間に縛られていたいのだな』そんな考えが、頭に浮かんだ。


ミシッ・ミシッ・ミシッ・・・

誰かが足音を忍ばせて階段を上がって来る気配がした。

福の寝ている部屋の前で足音が止まる。

月明かりに照らされて、障子に人影が写し出された。

『わっ、今度は何の幽霊だ!』心臓の鼓動が速くなる。

障子が、音もなく開いた。

福は思わず眼を瞑る。


「起きて・・・」

「・・・」福は片目を薄く開いた。

目の前に人の顔があるった。驚くほど近い。

「わっ!」

「しっ!・・・私よ、久美子」

「・・・」

「今日はありがとう」

「・・・」

「正確には、昨日かな?」

「・・・」

「兎に角、君が来てくれたお陰で、親父が健さんと私のことを許してくれたのよ」

「・・・」

久美子の長い髪が福の頬に触れた。ゆっくりと久美子の唇が福の唇に合わさった。

ほんの数秒が、永遠の時に思えた。


「おやすみなさい・・・」

久美子が静かに立ち上がり部屋を出ると、音もなく障子が閉じて忍びやかな足音が遠ざかって行った。


『今のは・・・夢?』

いや、そんなはずはない、まだ唇に感触が残っている。

心臓の鼓動が息苦しい程高まっている。

福は、生まれて初めてのキスだった。この事は、きっと一生忘れる事はないだろう。



翌朝、福は旅を続けるために、井上家の人々に別れを告げた。

大蔵がもう一日泊まって行けと言ってくれたが、福が断ると無理強いはしなかった。

ふと見ると、入母屋の屋根の上にカチガラスが一羽止まっている。

『昨日の声は、おまえだったんだろう?』

福は、胸の内でつぶやき、スロットルをゆっくりと回して走り出した。







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