二日目
二日目
天候晴れ、朝八時に朝食を済まして出発。
『今日はのんびり走ろう』
暫く10号線を南下、大分から197号線に乗って海沿いを走ることにした。
佐賀関から217号線に乗り換え佐伯まで下る。左手に海を臨みながら走った。
途中佐伯港に寄り、フェリー乗り場の食堂で昼食。
『このままフェリーに乗れば四国か・・・』
福は中学時代家出をして、四国へ行った時のことを懐かしく思い出していた。
一瞬、四国へ行こうかと迷ったがフェリー代が高かったので止めにした。
昼食後388号線で延岡に向け出発、リアス式海岸の景色を堪能しながら、午後一時に延岡に着く。ここまで、約150キロ。
『さて、これからどうしよう。このまま、10号線でひたすら南下するのも、なんだかなぁ・・・』
福は暫くの間地図と睨み合った。
『海は十分見たから今度は山だな』
福は、天孫降臨の地高千穂に行ってみることにした。
10号線に別れを告げ、218号線で高千穂へ向かう。
『ふ〜ん、この道は神話街道っていうのか』標識を見て、岩戸隠れの神話を思い出す。
暫くは平坦な田舎道を走ったが、だんだん登りがキツくなってきた。
バイクのギアチェンジが頻繁になり、エンジン音が大きくなる。
『苦しそうだな、頑張ってくれよ』
バイクに声をかけ、曲がりくねった山道を高千穂目指して進む。
約一時間半で高千穂渓到着、延岡から約40キロの距離だった。
土産物屋の前にバイクを止め、観光客に混じって渓谷沿いの道を歩く。
遥か下の方に、エメラルド色の川の流れが見える。
岩ばかりの道を暫く歩くと大きな駐車場があった。
駐車場から川に降りる長い階段があり、下を覗くとボート乗り場が見えた。
『ちょっと、運動のためにボートを漕いでみるか、バイクに乗ってばかりだと肩が凝るもんな』
福は階段を降りて行く。
緑色に見えた川も、近くで見ると透明度が高く時々魚影が見えた。
ボートを漕いで、渓谷の緩やかな流れを下って行くと、美しい真名井の滝に行き着く。
しぶきが、火照った体に心地良い。
もうこれ以上ボートでは行けないというところでUターンした。
来た時と、反対側の崖上の道を歩いてバイクのところへ戻る。
『さて、次はどこへ行くかな』福は周りを見渡して地図を探した。
道端に高千穂の周辺図が立っていた。天の岩戸が近い。
『天照大神が籠もったと言う洞窟だな』
恐怖心の克服という命題が、ふと頭を過る。
『よし、今夜はそこでテント泊だ』
天岩戸神社に着いた福は、荷物を担いで葛折の長い坂道を降りて行った。
洞窟に行く為に、石の丸橋を渡りきった時、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
洞窟の前には石積が無数に点在する天の安川原がある。
『賽の河原もこんな感じかなぁ』
観光地だというのに不思議に人影が見えない。
『そうか、今日は平日だもんなぁ』と、自分を納得させる。
河原にテントを張り、福は肥後守を取り出した。
肥後守というのは、和式の折りたたみナイフのことで、福が小学生の頃はみんな持っていた。鉛筆を削ったり、遊び道具を作ったりするのだ。
福は、吉川英治の小説宮本武蔵の中で、吉岡一門の名目人源次郎少年の霊を慰めるために、仏像を彫っていた事を思い出した。
『よし、俺も彫ってみよう』
福は手頃な枯れ枝を拾って来て、黙々と削りだした。
どれくらい削っただろう。こけしのような外観が彫り上がった時、あたりは薄闇に包まれていた。少し先に見える洞窟が、暗渠の入り口のように口を開けている。
『気味が悪いなぁ・・・』
ゆっくりと辺りを見回すと、大きな岩の上に一羽のカチガラスがとまっているのが見えた。
『高崎山でも見たが、まさか同じ鳥じゃないよな』
その時、突然カチガラスが鋭く鳴いたと思ったら、嘴を叩きつけるようにして騒ぎ始めた。
それを合図に突然霧が降りてきて、周囲が異様な雰囲気に包まれた。
「わわわわわわわ・・・!」
福は、急いでテントを畳もうとしたが、気ばかり焦って上手く行かない。
『神様が怒っているんだ!』そんな考えが頭を掠めた。
ようやく荷物を纏めて、逃げるように丸橋を渡った。
なにかが後を追ってくるような気がして、恐ろしくて振り向くこともできない。
全力で坂道を駆け上がる。心臓が破裂しそうだ。
駐車場に戻り、急いでバイクに荷物を括り付けた。キーを差し込みバイクに跨がってキックアームを思いきり踏み込んだ。
『えっ、エンジンがかからない!』踏み込んでも踏み込んでも、プスンプスンというだけで反応が無い。
「くそっ、バイク屋のオヤジめ、整備は完璧だと言ったくせに!」福は口汚く罵った。
ふと見ると、キーの位置がOFFになったままだった。
『あちゃー!』もう躰中が汗でビショビショだ。
キーをONにして、やっとの思いでエンジンをかけた。
『早く、人のいる所に行かなきゃ!』
福はバイクを飛ばしに飛ばして、やっと人家の見える場所に着いた。
坂道の両側に軒を接するようにして十数軒の宿が立ち並ぶ。
少し落ち着いたので、安そうな宿を物色することにした。
何度か坂道を往復して、古びた民宿に当たりをつける。
福は、[岩戸屋]という宿の引き戸を開けた。
帳場には誰もいなかったので、奥に向かって声をかけた。
暫くして返事があり、腰の曲がったお婆さんが出てきた。
「なんじゃな、予約のお客さんかえ?」
「い、いえ、予約じゃありません。すみませんが部屋は空いていませんか?」
福は、おずおずと訊いてみた。
「ああ、飛び入りかい。あるにはあるが、あんまり良い部屋じゃないよ」
「結構です、風呂と寝床さえあれば」福はもう、外に出たくはなかった。
「そうかい、もう遅いんで晩飯は出せんが安くしとくよ」
お婆さんは、そう言いながら福を階段の方に誘った。
「部屋は二階じゃ。風呂はそう大きくはないが地下に岩風呂がある、ゆっくり入ってくりゃええ」
お婆さんは、二階の突き当たりの部屋を開けて、電気のスイッチを入れた。
「へぇ、なかなかいい部屋じゃないですか」
和室だが清潔で広い、これで安けりゃ文句は無い。お婆さんはなぜ、良い部屋じゃ無いと言ったのだろう。
福は、荷物を置いて風呂に入ることにした。
「後で、にぎりめしでよけりゃ持ってきてやるよ」
「ありがとうございます、助かります」
福は、お婆さんに礼を言って地下に降りて行った。
[男湯]と書いてある暖簾をくぐって脱衣所に入る。
客は誰もいなかった。きっと夕食を食べているのだろう。ちょうどそんな時間だ。
服を脱いで、タオル一本を持って岩風呂の戸をガラリと開けた。
中は湯気が籠ってよく見えない。灯りは裸電球が一つ点いているだけだ。
湯船の中にぼんやりと人影が見えた。
「なぁんだ、人がいる。一人じゃ怖いもんな」
福は二、三歩踏み出してギクリとした。明らかに、髪を結い上げた女の人の白い肩が見える。
「し、失礼しましたっ!」
福は慌てて岩風呂を出た。『・・しまった、ここは女湯だったのか、暖簾を見間違えたんだ』
脱衣所を出て暖簾を振り返る。
「あれ?やっぱり男湯だぁ」
紺の暖簾には、白い文字で確かに男湯と書いてあった。
ガヤガヤと話し声がして、四、五人の男たちが階段を降りてきた。団体の泊まり客だろうか、酒の匂いがする。脱衣所の外に裸で突っ立っている福を見て、怪訝そうに入って行った。
しばらくして、岩風呂の戸を開ける音がする、が、何も起こらない。
相変わらずガヤガヤと話している。
『不思議だ、女の人がいれば騒ぐはずなのに』
福は、もう一度湯殿に戻ってみた。女の人の姿は無い。
『さっきのあれはなんだったんだろう?』
福は、風呂に入る気力も無くして男湯を後にした。
部屋に戻ると既に布団も敷いてあり、卓の上ににぎりめしとタクアンが置いてあった。
しかし、食欲は全く無くなっていた。
仕方なく布団の上に寝転ぶと、いつの間にか眠ってしまった。
どれくらい経っただろう、突然、鞭で床を叩くような甲高い破裂音が響いた。
びっくりして飛び起きた瞬間、部屋の景色が反転した。明かりのついた部屋の中が真っ暗になり、真っ黒だった筈の窓の外が眩しいくらいに光っている。
躰が金縛りにあったように動かない。
その時、気味の悪い笑い声がどこからともなく聞こえて来た。
目だけを動かして部屋の中を見回すと白いものが蠢いている。
何かが足元から這い上がってくる。
「た、助けてぇぇぇぇぇ!」必死で声を張り上げると、フッと部屋の景色が元に戻った。
『トントン・・』その時、部屋の戸をノックする音がした。
「わっ!」福はびっくりして跳ね起きた。
「どうしたね、何か声がしたけど?」お婆さんがドアから覗いている。
福は、顔を引きつらせたまま、お婆さんを見つめた。
福は、今日の昼からの出来事を、お婆さんに話した。
「そりゃあんた、神様のバチが当たったんだがね。あんなところにテントなんか張るもんじゃないがよ」お婆さんは福を責めた。
福は項垂れたまま、お婆さんの言葉に頷いた。
お婆さんに話して落ち着きを取り戻した福は、部屋の明かりを消した。
その途端、福は再び声を上げる事になった。
「な、何だこれ!」
さっきと同じ様に、窓の外が明るく部屋の中が暗い。
違っているのは、躰が自由に動くことだ。
理由はすぐにわかった。なんのことはない、窓のすぐそばで街灯が煌々と灯っていたのだ。
「これかぁ、お婆さんがあまり良い部屋じゃないと言っていた理由は」
「これじゃ、まぶしくて眠れないじゃないか・・・」
福は、ブツブツ言いながらも、いつしか眠りに落ちて行った。
翌朝、宿を出る時お婆さんが言った。
「そのカチガラスが、あんたを守ってくれたんだよ」
福は、お婆さんの言葉を半信半疑で聞いていた。