55.ぶつかる思い
結界は炎を弾いているけれど、このまま魔力が流し込まれ続けたら、きっとオーバーフローを起こしてしまう。魔導具の限界を越えたら一枚目の結界が壊れるのはあっという間だ。
そしてそのまま同じようにして、神殿の結界も壊してしまうつもりだろう。
「波よ波 すべてを飲み込め 風が青き竜となれ 風舞竜!」
風の精霊がくるくると回って、生み出した竜巻を更に大きく育てていく。わたしの身の丈までにもなった竜巻がシルヴィスに向かって飛んでいくけれど、シルヴィスは背中の両翼を羽ばたかせた。迸るのは凄まじい程の熱波。それに煽られた竜巻は簡単に霧散して、勢いを増した熱波はわたしに向かって襲いかかる。
「……っ!」
悲鳴を上げることもできない熱量に、肌も喉も焼けてしまいそう。吹き飛ばされたわたしはごろごろと地面を転がってしまった。
「アヤオ!」
わたしの名を呼ぶラルに、大丈夫だと目で訴える。わたしの事よりも、いまはシルヴィスだ。彼を止めなくてはいけない。
それを理解しているラルは、わたしの元へ来る事はなかった。炎の耐性があるからか、あれだけの熱波も物ともせずに、両翼を使ってシルヴィスへと肉薄する。
「シルヴィス、もうやめるんだ」
「兄さんが死んでおけば、ここまでする事も無かったんだ。これも全て兄さんのせいだ」
そんなのただの言いがかりじゃないか。
そう言ってやりたいのに、声が出ない。呼吸をするだけで精一杯で、詠唱さえも出来そうにない。
「お前のその甘えを、叩き潰してやらないといけないな」
「出来るもんならやってみなよ」
ラルは無事な片腕に炎を纏わせて、シルヴィスと結界の間へそれをねじ込もうとする。結界に向かっていた炎波がラルを飲み込もうとするけれど、ラルは翼を羽ばたかせて風を起こす。上昇気流に煽られた炎の波はごうっと凄まじい音を立るばかりで、ラルに届く事はなかった。
「その風……あの女のものか」
そう。
ラルには風の精霊について貰っている。翼に宿った風の精霊はラルの事を認めているのか、その力を貸すことに抵抗がないようだった。
「兄さんはいつもそうだ。馬鹿みたいににこにこしてれば皆が兄さんの味方をする。全て与えられて全て手に入れて僕はそんな兄さんが嫌いだった。憎くて憎くて堪らなかった!」
早口に思いの丈を吐露するシルヴィスはまるで泣いているようにも見えた。
「僕を認めない里の人間なんて滅びて当然なんだ」
「お前は認められる為に努力をしたのか。自分が優れているとそればかりに胡座をかいて、お前が皆を認める為に何かをしたのか。自分が愛されている事を知ろうともせずに不平不満だけを口にして、自分ばかりが不幸だと、子どものように駄々をこねているだけだろうが!」
ラルの怒声に、シルヴィスが身を縮こまらせる。あまりの迫力に、漸く体を起こせたわたしの肩まで跳ねた程だ。
その刹那、尚も何かを言い募ろうとするシルヴィスの頬に、ラルの拳がめり込んだ。振り抜いた拳によって、シルヴィスは勢いよく吹き飛ばされる。
「ラル……」
深呼吸を繰り返しながらわたしはラルへと駆け寄った。わたしの腕が上がらないのは……どうやら鎖骨が片方折れているようだ。ラルとわたしとまとめて治してしまいたいけれど、シルヴィスがそれだけの時間をくれるかどうか……。とりあえずラルの怪我だけでも、と思ったわたしは、強大な気配に身を竦ませた。
それが近くにいるだけで息が出来ない、圧倒的な存在感。それは――神殿に張られた結界の、すぐ側まで来ているようだった。
「アヤオ、オレの傍に」
「うん……まさか、結界が……?」
結界に意識を向けると、一枚目は今にも割れてしまうそうで、二枚目はその端にヒビが入っているのが見えた。このままだと割れてしまって、封印されているアルヘオハルピュイアが出てきてしまうかもしれない。
「……ラル、古代種って……」
「始祖が鷲のハルピュグルに掛けられた呪いを解いたって話した事あったよね? そのハルピュグルを呪っていた存在。人が太刀打ち出来る存在ではなくて、魔物を統べる力さえ持っていたなんて言われていたけど……この凄まじい存在感からして、あながち間違ってもいないかもね」
「なんでそんな存在が、こんなところに……」
「それはオレにも分からないけど、マスター辺りなら知っているかもねぇ」
っと、そんな話をしている場合じゃなかった。わたしは痛む体を呼吸で誤魔化して、片手をラルに翳す。わたしが何をしようとしているか分かったラルは、わたしを止めようとするけれど……止まってなんてやるものか。
「翠の風 蒼の風 舞う風重ねて深きを織らん 織舞治癒」
もう魔力も限界だ。ラルに力を貸していた精霊は、わたしの魔力を糧にしている。ずっと魔力を放出していたようなものだから、元々多くない魔力がすっからかんになってしまう。場合によっては魔力回復薬を飲まないといけないかもしれない。……苦手だとか言ってる場合じゃないか。
精霊の掌から翠と蒼の光が溢れて、グラデーションも鮮やかなベールが織られていく。それはラルをすっぽりと覆い隠して、溶けるように消えていった。
「……アヤオ、自分を先に回復しないと」
「前線に立っているのはラルだからね。それに……これからがやばいところでしょ」
ラルの折れていた腕も、失っていた体力も回復しているようだ。わたしは深く息を吐いて痛みを逃がしながら、大きくなっていく結界のヒビ割れに目を向けた。
「くく、っ……もういい。僕を認めないこの世界を壊せるのなら何でもいい」
ゆっくりと立ち上がったシルヴィスは口端から流れる血を、手の甲で手荒く拭いながら笑っていた。もう翼も出せないし、炎を生み出す事も出来ないようでふらふらと足取りも覚束ない。それでもシルヴィスは笑っている。
「僕の――勝ちだ」
ゆらりと揺れ動きながらシルヴィスは結界へ向かっていく。シルヴィスが近付くにつれて、更に結界のヒビは大きくなっていくようだった。
高くて澄んだ音を響かせて、一枚目は割れてしまった。
「僕を受け入れろ、アルヘオハルピュイア。共に行くんだ」
「やめろ、シルヴィス」
シルヴィスの体が結界に触れる。ラルが一気に距離を詰める。
「自ら命を捨てるか。難儀な弟だわね」
不意に聞こえた声。振り返ったその先には、ほうきに横座りするギルドマスターと顔色を悪くした『クオーツ』の面々が立っていた。