49.一歩踏み出したその先は
ワンピースの裾を翻し、綺麗に着地をするギルドマスター。
蹴られたその人はゆっくりと後ろに倒れていって、後ろにいたメイナードさんがその体を支えている。……メイナードさん?
その隣ではシャーリーさんがお腹を抱えて笑っている。よく見れば、蹴られていたのはライノだった。
「礼儀を知らない小僧が。私の事をそんな呼び方するんじゃねーわよ」
何なんだ一体。
思わず目を向けた先、ラルも苦笑いをしている。
「……いてて、ほんっと足癖の悪いババア――ぎゃっ!」
体勢を立て直したライノが鼻を押さえながら言葉を紡ぐと、その言葉は途中で悲鳴へと変わる。飛び上がったマスターがライノの頭に拳骨を落としたからだった。
「あら、アヤオとジェラルドもいたの」
今気付いたとばかりにシャーリーさんが手を振ってくる。あまりにもいつも通りの朗らかさで、わたしとラルはぺこりと頭を下げるしか出来なかった。
「アヤオ!?」
ぱっと顔を上げたライノが喜色に顔を綻ばせるけれど、わたしの隣に立ったマスターの気迫に押されてか、近寄ってくる事はなかった。
「お前達には大森林での依頼を託していたはずだけど?」
「終わったんだよ。それと気になる事があって報告しに来た」
痛むのだろう頭を擦りながらライノが答える。
ギルドマスターともこのやりとり、『クオーツ』がこのギルドの看板冒険者というのは本当だったらしい。
「気になる事?」
マスターの問いに動いたのはメイナードさんだった。
「神殿の結界の前にこれが落ちていた。結界に触れた跡もあったが、解かれるまでもいかなかったようだ」
テーブルの上に置かれたのは――鳥の羽根。しかも大きくて、黒や白、灰色の混ざる羽根が何本も。
これは……。
「……シルヴィス」
ラルが低く呟いた。
そうだ、これはハルピュグルの羽根。ラルの背中に現れるものと同じ、鷲の羽根だ。
「ジェラルド、羽根は簡単に抜けるの?」
マスターの問いにラルは首を横に振る。
「これだけの本数となると、自分で抜いた可能性が高いでしょう」
「ふむ……となれば、これはシルヴィスからのお誘いという事で構わねーのね」
マスターはうんうんと頷いて、執務椅子に腰を下ろす。大きな椅子に大きな机。幼い少女には不釣り合いなはずなのに、そこの主はこの少女以外に有り得ないと思わせる程にぴたりとはまっている。
空いたテーブル向かいのソファーにはライノとメイナードさんが座り、シャーリーさんはわたしの隣に座ってくる。場所を詰める為に、わたしはラル側へと身を寄せた。
「釣りをしているのはあちらということね。それなら掛かってあげようじゃねーの。いいわね、ジェラルド?」
「もちろんです」
「何かやるってんなら、俺らも手伝うぜ」
「当たりめーだわ。もちろん『クオーツ』にも依頼が出るから、ここ数日は空けておきなさい」
「へいへい」
大きな執務机には白くて可憐な花が飾られている。
その机に頬杖をつきながら、マスターは可愛らしく微笑んだ。
「ジェラルドとアヤオも空けておくように」
「はい」
わたしとラルは頷いた。シルヴィスはハルピュグルが支配する世界を作ろうとしている。それをラルは止めようとするし、わたしはラルの隣に立ちたい。
わたし達の返事に満足そうに頷いたマスターは、その雰囲気を和らげた。
指先で机をなぞりながら、わたしへと視線を向けている。
「アヤオ、お前は異界からの転移人だったわね。もうこの世界には慣れた?」
「そう、ですね……皆さん良くしてくれますから」
「何かあったら私に言うといいわ。力になれる事があるかもしれねーもの」
「ありがとうございます」
「マスターも転移人だ。この人の場合はまた少し特殊だが……」
タパスさんの言葉にマスターは肩を竦めている。
見れば『クオーツ』の面々も不思議そうな様子でマスターを見ていた。転移人だとは知っていたけれど、特殊だという事情は知らないと言ったところか。
「私は自分で望んで転移したってだけよ」
「望んで?!」
「そんな事が出来るのかよ?! さすがはロリ――ぐっ!」
ライノの言葉はまたも途中で苦悶の呻きに変わる。マスターが机にあった文鎮をライノに投げつけたからだ。それは見事にライノの額ど真ん中に命中した。……結構重そうな文鎮だけど大丈夫かな。……ライノだから大丈夫か。頑丈だし。
「私はかよわく見えても偉大な魔術師なのよ」
かよわいかは別としても、幼い少女にしか見えない。
「自分の暮らす世界の他に別の世界がある事を知ったら、行ってみたいと思うじゃない? だから転移する為の座標を計算して、魔法式を構築した。言っておくけど私だから出来る事であって、真似するんじゃねーわよ?」
「真似できないわよ」
魔導師であるシャーリーさんには、それがどれだけ凄い事なのか分かるのだろう。呆れたような目線は珍しい。
「……じゃあマスターは、自在に転移する事が出来るんですか? 他の世界とも……?」
わたしの問いに、ラルが目を見開いたのが視界の端に映った。わたしの腕をしっかりと掴んで、なにか言いたげにこちらを見ている。
「そうね、出来る。でも時間までは操れない」
わたしの言いたい事が分かるのだろう、マスターは困ったように笑った。
もし時間も指定して、元居た世界に転移出来るのなら。
「……手紙とかも無理ですか?」
「それが誰の元に渡るかも分からねーわよ。……やめておきなさい。残してきた家族を思う気持ちは分かるけど、もしその手紙が無事に家族の元に渡ったとして、家族はお前に囚われ続けるだけよ」
「……この世界で幸せに暮らしてるって、それも……?」
声が震える。
ラルがわたしの肩を抱いてくれて、わたしは大人しく身を寄せた。
「それを家族は信じるかしら。信じたとして、異なる世界に行った娘がいつか帰ってくる事を待ち続けるかもしれねーわ。でもそれはとても残酷な事よ。希望を持ち続ける事は、時にひどく辛いだけだもの」
マスターの言っている事はわかる。
幸せだと伝えて、それでわたしは満足するけれど……家族はきっとそうじゃない。いなくなったわたしからの手懸かりとして、きっと必死にわたしを探すだろう。探しても見つからない場所に、わたしが居ると分からずに。
わたしは頷く事しか出来なかった。
その拍子に零れた涙は、シャーリーさんがハンカチで拭いてくれた。
「マスター、どうしてアヤオだったんでしょう。転移するには何か条件などあるんですか?」
わたしの肩を抱いたまま、ラルが問い掛ける。
マスターは手の平をわたし達に見せる。瞬きをした間に、何もなかったはずのそこには白い小石が数個現れていた。
「これをこの窓から外に投げたとして、当たる者と当たらない者がいるでしょう? それと同じ。何が原因でもない、条件があるわけでもない。誰がなってもおかしくないし、誰もならないかもしれない」
わたしがこの世界に転移したのは、ただの偶然。
それを聞いてどこかほっとしたのも事実だ。小説の中では、こうした人は『特別な使命』を帯びていたりするものだから。
でもわたしはそんな大それた人間じゃない。
「運が良かったのか悪かったのか、それはわからねー事だけど。私達の側にはいつもこんな出来事が転がっている。一歩踏み出した先がどうなるかなんて、誰にも分からないって事よ」
そう言って笑ったマスターは、どこか妖艶で息を飲むくらいに美しかった。