37.月に溶ける
「はー! お腹いっぱーい!」
デザートにアップルパイを食べ終えたわたしは、満足感でいっぱいだった。お腹をさすって上機嫌で歩いていると、隣でラルが笑っている。
「結構食べたねぇ」
「美味しくて食べすぎちゃった。わたしも冬籠り準備かなぁ」
「冬眠でもする気?」
「起きたら暖かくなっているのはいいんだけど、肥えるのは……」
丸く肥えて眠る自分を想像すると、ちょっと、いや……やっぱりわたしは冬眠をしない方が良さそうだ。
歓楽街を離れて住宅街へと向かう道は人も少なく、とても静かだ。この側には公園があるから、余計にそう思うのかもしれない。
夜はやっぱり肌寒いけれど、不快なほどではなく。楽しい食事で気持ちが高揚しているせいもあるだろう。
石造りの階段を上る。アパートまではもう少しだ。
夜独特の空気感と、冴え澄んだ匂いを楽しみながら階段を上り終えると、大きくて低い満月が姿を現した。いつもよりも距離が近いように思えるのは、この季節だからだろうか。
「ね、すごいよ! お月さま!」
後ろを歩いているラルを振り返ると、彼は顔を強張らせた。
「アヤオ!」
一気に距離を詰めてきたラルがわたしの腕を掴む。必死にも見えるその形相に、わたしは驚きを隠せなかった。
「……ラル?」
「ごめん……っ、アヤオが……月に溶けて消えてしまいそうで」
月に溶ける。
わたしは背後の月を振り返った。大きな満月は仄蒼く、確かに吸い込まれそうな程に美しい。
「アヤオがいなくなるのは怖い」
いつもよりも焦りを含んだ声に、わたしの心がざわめきたつ。青藍の瞳が不安に揺れているのを見ると、大丈夫だよと触れたくなる。
そうだ、わたしはこの人を置いてどこにも行きたくないのだ。
ラルを置いて、一人になって。そうしたらぽっかりと空くであろう穴は何にも埋める事なんて出来やしないのを分かっているから。
わたしが消えて、ラルを一人にして。そうしたらきっとこの人は嘆き苦しむ。側にいないわたしにはその悲しみに手を伸ばす事が出来ない。
心のどこかでそれを分かっていた。
心のすべてでそれを恐れていた。
だから、ラルの気持ちに応えずに、距離をおいていたのかもしれない。
――バカだ、わたしは。
わたしの腕を掴む手に、力が籠る。いつもよりも幼く見えるその表情を見ていると、胸の奥が苦しくて疼いて、涙さえ溢れてしまいそうで。
「好きだよ」
開いた口から零れた言葉は、わたしの紛れもない本心だった。
「……え?」
唐突な言葉に、ラルが瞬きを繰り返す。言葉を反芻しているのか、その唇が微かに震えた。
「ラルが好き」
言葉にすると、胸の奥で浮わついていた何かが、在るべき場所へぴたりとはまる感覚がした。たったこれだけの短い言葉を、どうしてわたしは恐れていたのか。
「……アヤオ?」
「ごめんね、ずっと言えなくて。なんだろう……自分でもよく分からないけれど、覚悟が決まったのかもしれない」
ふふ、と笑えたのも束の間で、一瞬のうちにわたしはラルの腕に抱き締められていた。力強いその腕は、わたしを離す気がないと言外に示しているようだ。
ラルに抱き締められるのは初めてではないのに、今までは遠慮していたのだろうかと思うくらいに強い力。しかしそれは嫌ではなくて……むしろ、心が満たされていくような不思議な感覚だった。
「今までずっと怖かった。この世界に来て、一人で、元の世界に帰りたくても帰れなくて。この世界は優しいけれど、与えられるものばかりだと、いつかそれが一瞬で無くなってしまいそうで。だから、わたし自身で手に入れる何かが欲しくて気を張っていたのかもしれない」
わたしの髪に顔を埋めながら、ラルは小さく頷いた。両手をラルの背に回す。大きくて広いこの背中はいつもわたしを守ってくれた。
「そんな中でラルと出会って、ラルがわたしを好きだといってくれて。わたしもラルが大事になっていって。それを告げてしまったら……君が特別だと認めるようで。でもそれを認めて、もしラルがわたしの前からいなくなったらなんて思ったら……凄く怖くて」
我ながら支離滅裂だ。沸き上がってくる言葉を、気持ちのままに紡いでいく。溢れた気持ちを今さら押し込める事なんて、出来そうになかった。
「今でもどうしていいか分からない。帰れるのなら元の世界に帰りたい。でもラルを置いていきたくない」
「その答えは、これからオレと見つけていこう」
わたしの髪から顔を上げたラルは、とても優しい瞳をしていた。抱き締める腕から少しずつ力が抜けていくと、お互いの顔を見るだけの隙間も生まれる。それでも距離は近かったけれど。
「そんなアヤオだから、オレは好きになったんだ」
「優柔不断なのに? どちらも手放す事が出来ない強欲でも?」
「優しさだよ。アヤオのそれは、優しい気持ちだ」
優しいのはラルの方だ。
「ありがとう、アヤオ。オレを好きだと言ってくれて」
嬉しそうに笑うラルがわたしの髪に口付ける。蕩けるような優しい仕草が擽ったくて、思わず笑ってしまった。
「……冷えてきてる。帰ろうか」
ラルがわたしの耳に触れて、お揃いのピアスを揺らしていった。
確かに寒い。また気温が下がったのかもしれない。
「温かいお風呂に入りたいけど遅くなっちゃうね」
「遅くなってもいいんじゃない? 明日は休みの予定でしょ」
「それもそうか。じゃあちょっと夜更かしして、小説の続きでも読んじゃおうかな」
気持ちを告げても、急激に何かが変わるわけではない。それはもう既に、想いが重なっていたからかもしれないけれど。
ラルと手を繋いで帰路を歩む。先程まではあんなにも近かった月が、少しずつ距離を取り始めているようだ。蒼映えていた月が、今は金色へと色を変えている。
「オレも読む。こないだシャーリーさんに借りたんだ」
「え、それ大丈夫? どろっどろの愛憎劇でしょ」
「面白いってシャーリーさんは言ってたけど」
「シャーリーさんはね」
帰ったらラルの借りた本を確認しなきゃと心に誓った。
隣を歩くラルの顔をちらりと盗み見る。耳がほんのり赤くなっているのは、寒さのせいだけだろうか。
きっと同じように色付いている自分の耳にそっと触れると、ラルの瞳の色みたいな石が揺れた。
月明かりの下を並んで帰る。
いつもと同じ道で、いつもと同じ二人なのに、いつもとは違う。それが何だか恥ずかしいのに幸せで、わたしの頬も緩むばかりだった。




