31.ハルピュグル
頭にあるのは黒い扇形の冠羽。
鋭い嘴、悠然と佇むその姿は最強という名に相応しい程の存在感を放っていた。
「これが……ハルピュグル?」
『そう。オレ達はハルピュグルの姿を使えるだけじゃなくて、その姿を取る事も出来る』
嘴が開くけれど、くぐもった声は耳に届いた訳じゃない。頭に直接響くような、不思議な感覚。
『この姿だと全て鳴き声に聴こえちゃうだろうから、念話を使わせてもらうね』
「念話。ラルは本当に凄いね」
『ハルピュグルの能力のひとつ。オレが凄いんじゃないよ』
「使いこなせているのが凄いと思うんだけどな。ね、触ってもいい?」
『もちろん』
「どこか触られたくないところはある?」
『そんなに色々触ってくれるんだ?』
歩み寄り、白い羽毛に包まれた胸元に手を伸ばす。そんな時に掛けられた揶揄うような声に、わたしの手は止まってしまった。
「もう! そうじゃなくて嫌な場所だってあるでしょって事!」
『分かってるよ。尾羽の方はちょっとざわざわするけど、アヤオならどこでも触っていいよ』
低く笑うラルの声に、人型だったらどんな表情をしているのか想像がついてしまうくらいだ。
わざとらしく肩を竦めたわたしは、両手を胸の羽毛に埋めた。
これはやばい。
今までにこんなにも触り心地のいいものがあっただろうか。包まれて眠ってしまいたい。家で飼っていたお猫様の触り心地とはまた違う。どちらも甲乙つけがたいな……。
誘われるように抱き着いてしまう。
羽毛に頬を擦り寄せると、擽ったい程の柔らかさ。
『……今すぐ人型に戻りたい』
「え、嫌だった?」
『人型だったらアヤオを抱き締められたのに。ああ、でもこれはこれで……』
ラルはそう言うと、大きく広げた両翼でわたしを包み込む。ラルの言葉に羞恥を感じたのに、この温かさに包まれていたらもう文句も言えない程に気持ちいい。
「……いけないいけない。これはやばい。人をだめにする」
そんなソファーもあったよね。あれも気持ちいいんだけど、これはまた別。
ずっとこうしていたい気持ちを何とか押し止め、ラルの胸元から体を離した。それに合わせて包んでくれていた両翼も離れると、なんだか一気に寒くなってしまった気がする。
『名残惜しそうな顔してる』
「え、ほんとに? だって本当に気持ちよくて」
『自分に嫉妬する事になるとは思わなかった』
拗ねたような口振りに思わず笑ってしまった。
「それで……わたしを王都まで運んでくれるの?」
馬車に乗らないで、ハルピュグルの姿になったという事は、王都までこの姿で行くという事なんだろう。
そう思ったわたしはラルの鉤爪を見た。黒く鋭いその爪は、人型の時のものよりも力強そうな気がする。あれで掴んで行くんだろうけど……痛くないようにしてくれるよね? ラルだもん、大丈夫だよね?
『何か想像している気がするけど、爪で掴んだりはしないよ。獲物じゃないんだから』
「あ、違うの?」
『獲物といえば獲物だけど』
「そういうのいいってば、もう」
『あはは、オレの背中に乗ってくれる?』
背中。
ラルがわたしに背を向けて、足を折るようにその場に座る。促すように肩越しに振り返られて、わたしは上背に両手を掛けた。痛くないだろうか、なんて心配になってしまうけれど、ラルは気にしていないらしい。
『羽を掴んでいいよ。そんな簡単に抜けないから』
「痛くない?」
『うん、大丈夫。飛び始めたら姿勢も安定すると思うけど……アヤオが掴まれるベルトか何かを用意した方が良さそうだねぇ』
「今回だけじゃなくて、また乗せてくれるの?」
『アヤオが望むならいつだって』
きっと優しい顔をしているんだろうな。そんな風に思えるほど、穏やかな声だった。
落ちないように羽にしがみつく。どんな景色が見られるんだろうと、気持ちがわくわくするのが分かる。
『精霊に頼んで、風を遮断した方がいいかもしれない。上空は寒いから』
「そんな高い所を飛ぶの?」
『あまり低いと目立っちゃうからねぇ』
それもそうか。
わたしは一度、羽から手を離して両手を大きく上に伸ばした。
「奏でる風 悠久の調べ 守り手となって弾む風よ 煌風壁」
伸ばした腕を、そのまま横に広げる。
現れた精霊がわたしの腕の周りを飛び回り、目が合うと可愛らしいウィンクをくれた。
精霊の飛ぶ軌跡を辿るように淡い緑の光が煌めく。その光はわたしの周りを囲う壁となった。
わたしの周りが優しい風で包まれている。全てを遮断する結界とは違ってそこまでの強度はないけれど、寒さや衝撃を緩衝させるには充分でしょう。
『じゃあ、飛ぶよ』
ラルがゆっくりと翼を広げる。羽先までぴんと伸びて、神々しいまでの美しさ。
翼をはためかせて、勢いよく大地を蹴る。ぐん、と体が引っ張られるようで、わたしはしっかりと羽に掴まり直した。
その場を旋回しながらラルが高度を上げていく。森の木々があっという間に遠ざかっていく。手が届きそうな程に空が近く、そして蒼い。
森も、遠くに見えるペルレアルの街も小さくなる程の高度で、ラルは水平に飛び始めた。
風壁のおかげで寒さもないし、結構なスピードにも関わらず衝撃も感じないでいる。体が水平になった事で、わたしはその背に正座を崩した形で座った。ショートパンツに巻く形のスカートで良かった。いや、こんな高さで誰も見ていないんだけど。
『大丈夫?』
「うん、すっごく綺麗! わたし、こんなに高いところを飛ぶのなんて、この世界に来て初めてだよ!」
気遣う声に、見えていないと知りつつも大きく何度も頷いた。はしゃぐような自分の声が恥ずかしくもあるけれど、こんなのはしゃがない方が無理でしょう!
『良かった。怖くない?』
「たぶんここまで高いと怖いとか感じないのかも。もっと低かったら怖く思うのかな」
現実離れしているような高さ。
高いところが苦手じゃないから、そう思うのかもしれないけれど。
「それに、もし落ちても絶対にラルが助けてくれるでしょう?」
ラルは落とすような飛び方をしないと知っているけれど、もしかしたらわたしの手が滑って落ちてしまうかもしれない。それでもラルは助けてくれる。それは疑いようがないもの。
『……アヤオは、なんかいいよね』
「なにそれ」
『好きだよってこと』
「え、そんな響き無かったけど?」
可笑しそうにラルが笑う。その穏やかさに追及する気もおきなくて、わたしも笑った。
ラルの背から見る景色は、全てが色鮮やかだ。
空の蒼さも、太陽の煌めきも。眼下に広がる秋の景色も美しい。
伝わる温もりも、触れる羽の柔らかさも優しくて。
ずっとこうして居られたらいいのに。そんな事をちらりと思った。