29.分かち合う事ができなくても
面談を終え、買い取り品の精算も終えてギルドを出る。
ラルはその間、一言も口にすることはなかった。
外はすっかり夜の帳に包まれていて、強い風が街路樹の葉を巻き上げながら吹き抜けていく。寒さに思わず身を震わせるけれど、傍らを歩くラルにはそんな風も意識の外にあるようだった。
食欲がないというラルに、林檎を剥いた。
それも少し囓っただけで、食べられないとフォークを置く。そんな時でも申し訳なさそうにわたしを気遣うから、わたしはいつものように笑う事しか出来ない。
お湯を張った浴槽にとっておきのバスボムを落として、ラルを浴室に追い立てた。ふと触れた指先が氷のように冷えきっていたから。
温まるまで出ないようにと言い聞かせると、ラルは困ったように笑うだけだった。
いつもより長湯をしたラルの髪を、温風器で乾かしていく。風と火の魔石を使っている魔導具で、これを使えば長い髪も簡単に乾く。少し大きくて重たいけれど、きっとこれもどんどん改良されていくのだろう。
「ありがとう、アヤオ。……今日はもう休むね」
「うん、おやすみ。明日はお仕事休んでもいいし、朝寝坊をしちゃってもいいよ」
「ありがたいけど、仕事をしていた方がいいかな」
「そっか。でも何かあったらいつでも言ってね」
わたしの頭に乗せられた手が、頬に向かって滑り落ちる。お風呂上がりでぽかぽかしている掌なのに、その芯は冷えきっているような、そんな感覚があった。
ラルはわたしの頬を親指で撫でると、おやすみと言葉を残して自室へと消えた。
あの悲しみを癒せる術をわたしは持たない。
どこまで踏み込んでいいのか、その距離感さえ測れない。
自分の無力さに溜息をつきながら、わたしもお風呂に入ろうと浴室へ向かった。
風が強い。
窓が震える度に、冷気が入り込んでくるようでとても寒い。
この家は新しいし、隙間風が入り込むような事もないのだけれど。冷たい風を思い浮かべて、わたしが勝手に寒がっているだけだ。その証拠にカーテンは全く揺れていない。
わたしはダイニングテーブルで本を読んでいた。
明かりを絞っているからラルが眠る邪魔にはなっていないと思う。
ふと時計を見ると、既に日付が変わっている。眠たくなるまで少し、と思って読み始めたのにこんなにも時間が経っていたなんて。しかしページ数は進んでいない。本の内容もほとんど頭に入っていない。
そんな自分に呆れながらマグカップに手を伸ばす。満たされていたはずのハーブティーは飲みきってしまっていたようで、底に描かれた猫の絵が顔を出している。
新しくお茶を用意するには、時間が遅すぎる。
そろそろ眠らないと……わたしの方が朝寝坊をしてしまいそうだ。
本に栞を挟んで椅子から立つ。
読んでいたのは恋愛小説。幼い頃に竜を助けた事で声を失った魔女が、成長してその竜に再び出会うお話。竜の妃にと請われているのは魔女の姉で、魔女姉妹は竜の城で悪意に巻き込まれ……これは悲恋の予感が強いんだけど、大丈夫かな。幸せな話が読みたくて買ったのに。あらすじには幸せな結末、と書いてあるしそれを信じるしかないか。
マグをシンクに置いた時、微かな音が聞こえた。振り返るとラルの部屋の扉が薄く開いている。ラルはそこから顔を覗かせていた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「大丈夫。……眠れなくて」
部屋から出てきたラルの顔色は悪い。力のない笑みに、翳った瞳。
ひとりでずっと、考え込んでいたのかもしれない。それに気付くと、踏み込む事の出来なかった自分に腹が立った。
「何か飲む?」
「自分でやるから大丈夫。眠るところだったでしょ? おやすみ」
眠ろうとはしていたけれど、こんなラルを一人にしておくわけにもいかなくて。
わたしはラルに近付くと、その片手を両手で掴んだ。冷えきった指先に、わたしの熱が伝わっていく。
「……アヤオ?」
「一緒に寝よう。おいで」
わたしの言葉に面食らったように、ラルが目を丸くしている。
「や、いや……だめだよ。男と一緒に眠るものじゃありません」
「何を今更。ずっと一緒に寝てたでしょ」
「あれは子どもだったからで……。分かってる? オレはアヤオが好きで――」
「分かってるよ」
動揺したラルがわたしから一歩離れる度に、一歩その距離を詰めていく。惑い顔でわたしを見るラルは言葉を探しているようだ。
「一人で乗り越えなくちゃいけない夜もあるけれど、今夜はそうじゃない。ラルの抱える気持ちも、不安も、悲しみも、分かち合うには難しいかもしれないけど……一緒に居る事はわたしにも出来る。ううん、わたしが一緒に眠りたいの」
傍に居たいとわたしが思った。
この世界に転移して初めての夜からずっと不安だった。わたしの傍には誰もいなくて寂しかったから。でも……ラルと一緒に過ごすようになって、何も怖くなくなったから。
今度はわたしが、ラルの不安を溶かす番だ。
「アヤオ……」
「何もしないから安心して」
「それはオレが言うべき言葉だと思うんだけどねぇ」
可笑しそうにラルが笑う。
まだ瞳は悲しみに翳っているけれど、顔の強張りは解けたみたいだ。
ラルの手を引いて寝室に向かう。ベッドサイドの灯りをつけると、ダイニングの灯りはラルが消してくれた。
いつもそうだったように、先にラルがベッドに入る。少し躊躇うような素振りは、わたしが背中を押すことで解決した。
隣に潜り込んでしっかりとブランケットを掛ける。
間近にラルの顔を見てしまって、恥ずかしさに慌ててベッドサイドの灯りを消した。
「……抱き締めてもいい?」
囁く声に潜むのは懇願の色。
温もりを求める気持ちは、わたしにも分かる。
「いいよ」
返事と共にラルに体を寄せた。
ラルの腕がわたしの頭の下に潜り込む。逆手が背中に回される。すっぽりと包まれたわたしは、片手をラルの背に回して自分からも抱きついた。
「アヤオは温かいねぇ……」
「ラルが冷えているんだよ。ほら、足まで冷たい」
「ちょ、擽ったい……!」
足に触れるのを止めさせようとしてか、ラルがわたしの足と自分の足を絡めてしまう。……密着感が増して、これはやばいのではないだろうか。
意識している事を誤魔化すように、わたしはただ笑うだけに留めた。口を開くと余計な事まで言葉にしてしまいそうだから。
「ありがとう、アヤオ」
「ラルは一人じゃないでしょ。わたしが傍に居るんだから、もっと甘えていいのに」
「好きな人の前では格好つけたくなるもんでしょ。弱いとこなんて出来るだけ見せたくなかったんだけどな」
「わたしは……ラルが弱さを見せたって格好悪いなんて思わないよ」
「……そっか」
ラルとわたしの温もりが重なっていく。
とくんとくん、伝わる鼓動が優しい響き。
ラルを寝かしつけるつもりが、わたしの方が先に寝てしまいそうだ。
「……眠れそう。おやすみ、アヤオ」
「おやすみ……」
ラルも眠れるなら、わたしも寝て大丈夫かな。ラルの声も先程までとは違って柔らかい。
「好きだよ」
ぎゅっと抱き締められながら紡がれる甘い言葉は、蕩けるような響きを持っていて。言葉を返そうと口を開くけれど、声を発する事も出来ずにわたしの意識は遠退いていった。
でも、あれ……?
わたし、何て言おうとしたんだろう……。




