百二、人の心
「ん…。」
目を開けると、集まってきた橋姫の肉片が、原型を取り戻しつつあった。
『おのれ…。何をこそこそ話していたのか知らないが、この私をこけにしたことを後悔させてやるわ!うおぉぉぉおおおぉぉぉぉぉおおお!!!』
ほぼ完全に元の形に戻った橋姫が、これまでで1番強い妖気を放つと、彼女の目が酷く釣り上がり、頭から5本の角が現れた。
『くらえぇぇぇえええ!!!!!!』
橋姫は車輪の数を更に増やし、俺と千晶へ向けて投げつけてくる。
先刻とは打って変わり、冷静な顔をしてそれを見つめる。
意を決した様に、己の首に下げられた黒い勾玉を、弾くように触った。
それに反応する様に、俺の足元にある草花や水面がざわめき出す。
「陰陽戦術。未の刻。」
ポンッと鼓の音がして、太陽と月が回転する。雨雲が漂う薄暗い空が、昼過ぎの晴天へ様相を変える。蓮の葉に似た、幾つもの羊草の葉が、俺を中心として根のように足元へ広がり、橋姫本人と2つの祠へ近づいていく。
『な…何だこれは!?』
狼狽する橋姫と2つの祠まで、羊草の葉が辿り着き、続きの言葉を発する。
「多岐亡羊。」
__カシャァン!
硝子細工が砕けるような音と共に、睡蓮のような、羊草の白い花が咲き乱れ、祠が粉々に砕け散った。
『っっっ!!!ぁぁぁあああぁぁぁあああ!!!』
叫び声をあげる橋姫の姿が、鬼のそれから美しい女性のものへ戻り、襲いかかって来た車輪が消滅していく。
「…なぁ。」
地面に座り込み、今にも消えそうになっている橋姫の元に、ゆっくり歩み寄る。
『…こっ…来ない…で…。』
苦しみの叫びはすすり泣きへと変わり、邪気の失われた橋姫は袖で顔を覆い隠す。
橋姫の前でしゃがみ、その手を少々強引に顔から引き離した。
『っ…。』
涙で濡れた橋姫の顔に、一瞬つられて泣きそうになり、罰が悪くなってすぐ目を逸らす。そして、小声でボソリと呟いた。
「次生まれる時は…鬼神なんかになるんやないで。」
『っ…!う…うぅっ…。うぁぁぁぁぁぁあああ!!!』
泣き崩れた橋姫の体が、より強く、淡い光に包まれていく。
恋は人を狂わせる。
それはきっと、今も昔も変わらない。
我を忘れて、己がどうでも良くなってしまうくらいに。それこそ、嫉妬で鬼になってしまうくらいに。
それでもやはり、手放してはいけないんだ。
人の心というものを。
光に包まれた橋姫の身体は、溶けるように空気中へ消えていった。