眠れる獅子目覚めるとき 8
半刻ほどが過ぎ、彼らの周りの人垣も少なくなってきていた。
先ほどからフランツは、カレナを労わってか接見相手のほとんどを彼が務めている。ただ横で微笑みを浮かべているだけで話は勝手に進行していった。かといってフランツも積極的に会話している訳ではなく、合いの手を入れたり相槌を打つくらいであり、そのフォローに回っているのは傍らに控えるヴァルターだった。
この様子ならば少しくらい場を離れていても問題は無さそうだ。
カレナはそう判断し、状況を見ながら少しづつフランツの傍を離れ壁際に移動した。
朝早くから準備と婚約の儀で緊張を強いられ、夜会では半刻という短い時間ではあるものの、切れ間のない挨拶と賞賛の言葉すべてに丁寧に返答し、そして常に好奇の眼に晒されていたのである。
思いのほか好意的な者が多かったのは意外だった。しかし、鉱山の恩恵を受けただけの成り上がりの蛮国、最小最弱国家から来た分不相応な花嫁。そんな嘲笑をあからさまに浮かべる者も中にはいた。そのすべてをフランツではなく側近のヴァルターがフォローし牽制してくれていた。
それなりに覚悟はしていたもののやはり堪えるものがある。この夜会で精神的にかなり疲弊したのは自分自身でも理解していた。
カレナは近くに来た給仕からアルコールの入っていない飲み物を受け取り、壁に背を預け溜息をついた。
とにかく身体が辛かった。喉は喋り過ぎでからからに渇いていて、一日中緊張感で強張っていた身体は倦怠感が酷かった。早く部屋に帰りたいと心の底から思った。
もちろん半刻ほどしか経っていないので閉会になる筈もなく、一向に冷める気配のない熱気の篭もった会場を遠目に眺めていたその時。
カレナの視界に飛び込んできたのは強烈な赤だった。
遡ること少し前。
微笑んでいるフランツの視線が、一瞬だけで囲んでいる輪から離れ外へと向かった。
主のその視線を見逃さず、ヴァルターが横に立つフェリクスに目配せをする。
フランツの視線は既に元通りに、前に立つ興奮気味に話しかける小太りの子爵に戻っている。
誰もが気が付きようもない僅かな動き。それを察して、フェリクスの視線は壁際に立つカレナに向けられた。
その視線の端にカレナに向かうある人物が映った瞬間、フェリクスは静かにその場所を離れていった。
カレナは自分に向かって歩を進める、自分と同様の年恰好の若く美しい女性から目を逸らすことができなかった。
露出度の高い色鮮やかな真紅のドレスに身を包み、首元は豪華な金色の首飾りで彩り、印象的なドレスと同色の真紅の口紅が白い肌に映えていた。
栗色の巻き毛を揺らして悠然とこちらに歩いてくる姿は、纏う者によっては品格を落としかねないそのドレスも彼女の気品を下げることなく、かえって堂々たるその立ち姿に感嘆の思いを抱かせる。
だがしかし、その女性の発する視線は先ほどまで向けられていたものとは明らかに違っていた。
憎悪と侮蔑。
その言葉が最も的確な表現だろう。
好意などとは程遠いその視線に、カレナの背筋に悪寒が走る。
女性はそのままカレナの前で足を止めると、上から下まで品定めするように目線を動かした。
そして憎しみを露わにした鋭い視線と蔑むような笑みを口元に浮かべ、こう言い放った。
「田舎者は国に帰りなさい」
女性が発した一言にカレナは凍りつく。
ここまであからさまに悪意を向けられたのは初めてだった。
瞬時に我に返ったものの、この状況に困惑し何か返答すべきなのか思案していると、女性の肩越しにカレナを呼ぶ声が聞こえてきた。
「カレナさま」
声に気付き、真紅の女性は身を翻して足早にその場を去っていった。
その背を呆然と眺めているカレナを見知った顔が覗く。
目の前には、人の良さそうな笑みを浮かべたフェリクスが立っていた。
「あ、あの……」
「どうかされましたか?お疲れですか?」
尋ねてくるフェリクスに対して、今起こった出来事を言うべきか否か迷ったが、結局告げることをやめて彼と向き合った。
「ええ、少し疲れてしまって」
「そうですか、ではお部屋までわたくしがお送りします」
「はい。お願いします」
にこやかに言うフェリクスに素直に従いカレナは会場を後にしたが、彼女の脳裏にはあの色鮮やかな赤が錆のようにこびりついて離れなかった。