眠れる獅子目覚めるとき 6
婚約の儀式は驚くほど順調に進んでいった。
とはいっても、カレナはこれといってすることもなかった。
二人揃って祭壇の前に進み、あとは神官長の長い言葉を聞いたあとで誓約の書を二人それぞれに読み上げて、最後にフランツがカレナの額に口付けを落とすという簡単なものだった。
カレナは儀式の途中でフランツが誓約の書をまともに読み上げられるかを危惧したが、どうやらそれは徒労に終わったようでまったく問題無く事は進んだ。
やはり知能障害とまではいかないレベルのようだ。
カレナは密かにほっと胸を撫で下ろした。
儀式の後若干の休憩を挟み、カレナはフランツと共に病に伏せっている国王の寝室へ婚約の報告のために訪れた。
初めて見るブルグミュラー国王テオドールは一目で病気だとわかるほどの青白い顔をしていた。それでも、二人の訪問を弱々しい笑顔で嬉しそうに迎えてくれた。
「すまんな、こんな身体でなかったらおまえたちの婚約の儀に参加できたものを……」
起きることも出来ずに寝たきりの状態で心底悲しそうに呟くテオドールに、カレナは思わず瞳を潤ませた。
目の前の寝台に横たわる脆弱な人物が、これほどまでに大きな軍事国家の頂点に君臨する者と同一人物だと誰が思うだろう。
「お気になさらないで下さい。婚約の儀はもう済みましたが成婚の儀はまだ先でございます。今はご病気を治されることだけをお考え下さい」
カレナの言葉にテオドールは優しそうな笑みを返す。
「カレナ王女、ラウフェンの宮殿にはもう行ったかね?美しいところだっただろう。とても澄んだ泉が近くにあるから今年の夏はあそこで過ごすといい」
「……ラウフェンですか?」
初めて聞く名前だった。
既に行ったこととして話を続けるテオドールに小さく疑問符を漏らすと、テオドールは驚きに顔を強張らせ今度はフランツの方へと視線を向けた。
「フ、フランツ?まだ王女に……」
「父上、もうお休みになられたほうが宜しいんじゃないですかぁ?」
テオドールの言葉を遮るように笑顔で声を発したフランツは、口調も声音もいつも通りの語尾を伸ばしたものだった。
しかし、彼から発せられる冷ややかな空気がそれまでのものとは明らかに異なっていた。片方だけ姿を見せているブルーグレイの瞳が、怪しく揺らめいているように見えるのは気のせいか。
対面してそれほど経っていないが、醸し出す雰囲気が先ほどまでのそれとは明らかに違い、カレナは訳のわからない恐怖感を覚えた。
「お身体に障りますので、これで失礼致しますね」
だが凛々しくも美しい笑顔だけはやはりそれまでと同様だった。
会話を続けたいと願うカレナの背に手を当てて退室を促すフランツに、恐怖感はますます膨らむ。
何なのだろう、この美しい笑みに覚える恐怖は。
何なのだろう、この違和感は。
だが、なすすべもなく促されるまま素直に従い、国王へ短い挨拶して背を向ける。
「待て!さ、最後に一つだけ……、王女はもうルードヴィヒに会ったのか?」
国王の切羽詰った声音よりも“ルードヴィヒ”という言葉が引っ掛かり、カレナは顔だけ後ろを向けた。
まったく聞き覚えのない名前の筈だ。男性の特に珍しくもない名前であるという以外は知るところはない。
「……いいえ」
“ルードヴィヒ”という名前がカレナの中の何かに触れたのは明らかだった。
しかし、カレナにはそれが何なのかまったく解らなかった。
寝台から身を乗り出しこちらを凝視する国王に、カレナはなんとか一言だけ返した。
「そうか……」
そう一言呟き、国王は再び寝台に身を横たえた。
それを見届けて国王の寝所を後にしたカレナは、待機していた侍女に促されフランツとは別に自室の方へと足を踏み出した。
カレナはどうしても釈然としないものを感じすぐに後ろを振り返ったが、もう既にフランツの姿はその場から消えていた。
自室に戻りドレスと装飾品を脱ぎ浴場で身を清めたカレナは、クララの出してくれたお茶で喉を潤して漸く一息ついた。
「もう半刻ほどで、今度は婚約披露の夜会の準備ですので」
クララの言葉に軽く頷いてから、カレナは思い切って切り出した。
「クララ。ちょっと王子の時と同じ様に、皆に聞いてきて欲しいことがあるのだけど」
「何ですか?」
侍女というものは大抵が噂好きだ。
ことにこの王宮の侍女は、フランツ王子の噂話を新参者でしかも王子の婚姻相手の専属侍女に容易に明かしている。守秘義務についての観念が欠けているのか、もしくはフランツ王子に対して敬愛精神の欠片をも抱いていないのであろう。
今回に関しては、知っていれば容易く聞き出すことができそうだ。
「まず一点は、“ラウフェン宮殿”とはいったいどこで、どのような宮殿なのかということ」
「ラウフェン宮殿ですか?」
「ええ、そうよ。それからもう一点は“ルードヴィヒ”という人物が誰なのか。この二点よ」
「?それは……」
「テオドール国王への謁見の時に話が出たのだけれど、どうしても気になって。わかることならどんなことでもいいのよ」
クララに余計な心配をかけたくないため、詳しい話は出来るだけ避けたかった。
特に、自分が感じた恐怖感や違和感に関しては。
「宮殿はいいとして、その“ルードヴィヒ”なる人物は、国王や王子に関係のある人物ですか?」
「恐らくそうなんだろうけど、どういう人物なのかまったくわからないのよ。名前からして男性だという以外に」
「畏まりました。分かり次第御報告しますわ」
「ええ、お願いね」
クララからの情報以外に知る術がないカレナは、自身の胸の内に潜む消化しきれない何かを解消すべく有能な侍女からの報告を待つことにした。