青銀の闇 8
スッペ公爵とフェリクスの退室に伴い、黒衣の者たちも割られた窓から音もなくその場を後にする。
二人の背中を見送り、ルードヴィヒは勢いよく後方を振り返った。
その瞳には、最早ただ一人の姿しか映してはいなかった。
ルードヴィヒのその様子に、最後までカレナの傍に控えていたジルケは、すぐさま立ち上がって部屋を後にした。
足早にカレナに駆け寄るルードヴィヒ。
長身を屈め、足を着き、その腕の中へとカレナの華奢な身体を抱き寄せた。
「カレナ……」
先ほどまでの態度とはまるで別人のような、酷く弱々しい声を発するルードヴィヒ。
秀麗な顔は痛々しいほどに歪められている。
今、その身の内を焦がすのは、狂おしいほどの切ない感情だった。
込み上げる想いに胸が焼け爛れたかのような錯覚に陥る。
「カレナ」
呼び掛けてもカレナの瞳が開かれる気配はない。
ルードヴィヒはその長い指でカレナの絹糸のような髪を梳き、滑らかな頬を優しく撫でた。
そうして、震える指先は細い首筋にできた紅い傷へと移動する。
守ると誓ったのにもかかわらず、カレナの身に傷を付けさせた自分自身に無性に腹が立っていた。
「カレナ」
ルードヴィヒの指が、羽毛で触れるかのような柔らかな動きで幾度も傷をなぞる。
固まった真紅の血が指先に張り付く。
こびり付いた血を何度も指でなぞると、その下からは薄紅色の傷痕が姿を表す。
昂る思いを抑え、ルードヴィヒはその傷痕にそっと唇を落とした。
自分の身体にこの何十倍もの傷を付けてでも、カレナのこの傷を消してしまいたかった。
傷跡が自分の愚かさを表しているかのように思えてならなかった。
カレナの傍に居る資格がないのだと訴えているかのようだった。
決してあとに残るような傷ではなかったが、傷つけてしまったという事実がルードヴィヒの身を蝕んでいく。
「カレナ」
そして怒りと同時に湧き起こる苦痛。
こうしてこの身に抱いているにもかかわらず、煌めく黒曜石のごとき瞳はその姿を現さない。
その煌めきの中に、ルードヴィヒの姿を映し出すことはない。
この現実に、これ程までに辛く苦しい思いに苛まれるとは。
震えを帯びるその原因が、漸くカレナをこの腕に抱いたという高揚からなのか、それとも自分への嫌悪と怒りからくるものなのか、最早自分自身判断がつかなかった。
小刻みに震える身体に力を入れ、ルードヴィヒは腕の中のカレナをその胸元へと掻き抱いた。
「カレナ」
力強い腕が、意識のないカレナの身体を抱き締める。
いつかのカレナと同じ様にルードヴィヒもまた、震える声でカレナの名を呼び続ける。
聞こえてはいないと分かっていながらも、呼ぶことを止められなかった。
たとえ目覚めていたとしても応えてくれる確かな証が有る筈もなかったが、それでもその名を声に乗せずにはいられなかった。
苦しいほどの衝動に突き動かされ、ルードヴィヒは何度も何度もその名を呼ぶ。
そうしてどのくらいの時が過ぎただろうか。
もう何度目になるか分からない呼び掛けの後、腕の中の身体がぴくりと小さく反応を示した。
「カレナ」
ルードヴィヒは逸る思いで、その美しい顔に手で触れながら最後にもう一度その名を口にした。
「……ナ」
混濁した意識の奥底で誰かの声が聞こえた気がした。
僅かにそちらに意識を向けると、優しい温もりに触れた。
何かに守られているような感覚に心の底から安堵する。
このままこうして陽だまりの中にいるような心地良い温もりに身を任せていたい。
そう思い、カレナは再び意識を混沌の底へと沈めようとした。
「……ナ」
それは明らかに誰かの声だった。
聞いたことがあるようでいて、まったく知らない声のようにも思えた。
彷徨う意識の中で、カレナはその声の方へと耳を澄ませた。
「…レナ」
それは確かに知っている声だった。
けれどもそれが誰の声であるのかは思い出せない。
カレナは、切なく響くその声の主を記憶の奥底から探し出そうとした。
「カレナ……」
今度ははっきりと聞き取れた。
明らかに、声は自分の名を呼んでいる。
誰なのだろう。
どうしても思い出せない。
もう一度声を聞かせて欲しいと願った矢先、今度は強い力で包み込まれた。
「カレナ」
この力強い抱擁を自分は知っている気がする。
自分が求めたのはこの腕だった筈。
この温もりにもう一度包まれたいと思っていた。
少しずつ浮かび上がる意識の中で、カレナは焦り始める。
戻らなければ。
自分が居るべき場所はここではない。
カレナは懸命に記憶の糸を手繰り寄せた。
幾度もカレナの名を呼ぶ人物。
失くしたくなかった優しい温もり。
遠い昔にその手を取った大切な存在。
もう一度会いたいと希った人。
徐々に覚醒する意識の中、カレナの中にその人物に関する記憶が甦る。
カレナはついに目の前にある意識の扉を開け放った。
漆黒の長い睫毛に縁取られた瞳が徐々に開かれる。
ぼやける視界。
虚ろな瞳が開かれて最初にそこに映し出されたのは、対なる金と銀だった。
切ないほどに懐かしいその輝きに、カレナの眦から一筋の雫が零れ落ちた。
なぜ忘れてしまっていたのだろう。
幾度となく再会を夢見ていた筈だったのに。
カレナは滲む視界で自分を腕に抱く目の前の存在を見つめて、小さく口を開いた。
「ルウお兄さま……」
不安そうに瞳を揺らすその人物に柔らかな微笑みを向けた後、徐々に瞼を落とす。
カレナは笑みを浮かべたまま、再び静かな眠りについた。