青銀の闇 7
残されたのは、ジルケに守られて眠りの淵を彷徨うカレナ、フェリクスと共に現れた影の者たち。そしてルードヴィヒの足元で意識を失っているエルフリーダと、いまだに青褪めた表情でガタガタと身体を震わせているスッペ公爵だった。
予想もしなかった事の顛末に公爵の思考は混乱を極め、それが今なお治まらずにいるようだった。
指先一つ動かさない黒衣の者たちは、全員が全員ともスッペ公爵ただ一人を注視している。まるで一挙手一投足を見逃すまいと鋭く見据え、公爵を中心に大きく円を描くように周りを完全に囲んでいた。
一切動こうとしない影の者たちの不気味さが、逆に恐怖心を煽っているのだろう。先ほどまでいた男たち同様に、公爵もまったく動こうとしない。いや、動けないと言った方がよいのだろう。憐れなくらいに恐慌状態に陥っている様が全身から伝わってくる。
ルードヴィヒはゆっくりと公爵に近付き、その姿に冷ややかな眼差しを送る。
「とんだ計算違いだったな。白痴である筈の王子がまさかこのような行動に出るとは、お前でなくとも想像はつかなかっただろう」
公爵を嘲りながらも自身を卑下する言葉を吐く。
なんと滑稽なことだろう。
こんな男に見下されていたのかと思うと怒りなどさっぱり消え去り、今はただ自嘲の思いしか浮かんでこなかった。
「既にスッペ領の領主館とレドラスの邸に騎士と査問官を差し向けてある。諦めろ」
その言葉に公爵は弱々しく床に崩れ落ち、虚ろな瞳を閉じた後に力なく俯いた。
それを見下ろし、ルードヴィヒは淡々とした口調で告げた。
「スッペ公爵領主、ユルゲン・クリストフ・ブレッヘルト。領民からの税金の過剰搾取、領民の過重労働の強制、鉱山物と農作物の改ざんと偽装申告、他国と共謀しての密計の画策、そして国王並びに王太子妃の暗殺未遂。以上の罪状で貴様を拘束する」
ルードヴィヒが口にしたのは、中でも厳しく処罰される大罪の類い。把握しているものをすべて挙げれば切りがない。叩けば更に微細な埃が大量に出てくるだろう。
国王暗殺は王制であるこの国では最も重い罪。その刑罰は極刑しかあり得ない。
尋問において強制的にすべてを吐き出させられた後に親族にも会えぬまま処刑、という流れ以外は最早許されないだろう。
起こしてしまった事の大きさ、代償の重さに、さぞや自身の行動を悔やむことだろう。
これが数年前であったならば、喜んでこの身に掛かる重責を譲ってやったのに。
そう、ラヴィーナでソルライトが発掘される前であったならば。
公爵の行動はあまりにもタイミングが悪すぎた。
カレナに関する希望の光を見出すことが出来た時点で、既にルードヴィヒの行動はすべてが決定付けられたのだ。
その以前の自分は、すべてを放棄しても構わないと心の底から思っていた。
もしもその時点で公爵が行動を起こしていたならば、自分は一切手出しをしなかったかもしれない。
そんなことを考えながら、ルードヴィヒは先見師の告げた言葉の意味を改めて思い返した。
すべては神の思し召しどおり。
どうせお告げを賜るのであれば、カレナとの拓かれた未来に関してであったならば余程発奮出来ただろうに。
ルードヴィヒは頭の中で揶揄しながら当時の記憶を掘り起こした。
ある時を境に、ルードヴィヒの環境は大きく変化した。
当時の王太子であった父親テオドールと側室の間に何人か子が生まれはしたが、全員が全員とも女児ばかり。王位を継ぐべき男児はルードヴィヒ以外何故か授かることはなかった。
しかし、たった一人の嗣子であるルードヴィヒを誰もが嫌悪し侮蔑していた。筆頭貴族たちはテオドールに、種まきに更に勤しめと議会で諫言し続けていた。
フランツ一世でさえ、孫を不憫に思い自身の名を与えこそすれ、それでも時折僅かな時間に面会に訪れる程度だった。
そんなある日、古代言語の解読が進んだのと同時にそれが一転した。
レックスロートの当時の国王が秘蔵の書物を解読するために大陸中の言語学者たちを招いて暫くした頃だった。その言語学者の中にフランツ一世の側近だったプファルツも含まれていたのだ。
こうして先見師が口にした言葉の真の意味が明らかにされた。
ルードヴィヒが国を背負うべき真の後継者だと発覚し、フランツ一世を含めた国の上席たちは青褪めた。告げられた真実に対する信憑性を誰もが疑いはしたものの、その先見師の発した過去の言葉に偽りがないことは、既に前例から見ても証明されたものだった。
通常であれば、重責を背負うための意識と教養を身に付けさせるために、産まれて間もない時分から後継者のための選りすぐりの教師陣が選定される。
虐げ蔑んできただけではなく、唯一の世継ぎに国政を担うだけの知識を養うための教育を一度として施したことがなかった大人たちは早急に方針を転換させた。
既にフランツ一世は王位を退くことを示唆しており、その後継として、大々的に告示された神の子とされるテオドールが戴冠することは国中が知っていた。明かされたお告げの真実は混乱を呼ぶ恐れがあることから、一部の人間にしか知らされることはなく緘口令が布かれたが、そのすぐ後に、引きこもり状態で放置されていたルードヴィヒに幾人かの教師が付いた。
しかし、最早手遅れだった。
生まれて此の方、声を発する事も感情を表す事もないこの国の王子は、完全に自らの殻に閉じこもってしまっていて、誰にもそれを覆すことは出来なかった。
日がな一日自室で過ごし、その姿を人前に晒すことは一切なかった。
宛がわれた教師が赴いても扉はぴたりと閉ざされたまま、どのような呼びかけにも開かれることはなかった。
困り果てたフランツ一世が思案に暮れていると、彼の魔女の側室と言われるカロリーネ・アンが口を開いた。
『それでは、国王陛下自らがお教えして差し上げればよろしいのではないですか?退位なさるのであれば、お時間は余りある程にお作りになれますでしょう。顔も知らぬ者たちよりも祖父であるあなたさまの方が、よほど御心をお開きになり真の姿を見せて下さる可能性があるのでは?』
その言葉に、フランツ一世は即座に行動を起こした。
その頃、既にカロリーネ・アンの住まうラウフェン宮殿へ居を移していたフランツ一世は、その宮殿の一室をルードヴィヒに与えた。
見えるのは祖父であるフランツ一世とカロリーネ・アン、カロリーネ・アン付きの侍従ゲルトと侍女のジルケ。その、たったの四人だけだった。
王宮の侍女たちの腫れものに触るような態度も、義務感を前面に押し出す侍従たちもそこにはいない。王宮での暮らしの中で常に晒され続けた視線から逃れ、ルードヴィヒの心はほんの僅かばかり軟化し、張り巡らされていたすべてを拒絶するような負の雰囲気が変化した。
特にカロリーネ・アンに関しては、自身が子を生すことが出来ない身体のせいか、根気強くルードヴィヒに向き合い、実の子のように可愛がった。
初めこそぎこちなかったフランツ一世もカロリーネ・アンの思惑に引き摺られ、その空気も変化していった。
そうして現れ始めた非凡な才能。
口を開くことはなくとも、その表情には感情の欠片が微かに顔を見せ始めた。
教えてもいなかった文字を書き、難解な質題を苦もなく解く。
その並はずれた才に、フランツ一世は高揚感を抑えることが出来なかった。
新たに、テオドールの側近であり剣技に長けたヒラー公爵を呼び剣術指南役を、自身の側近であったプファルツを教師として加えた。
その後、プファルツの妻ゾフィーなど、信のおける人物を教師として数名宛がった。
こうしてルードヴィヒは、自身の存在意義をこれまでとはまったく別のものへと大きく変えていった。
この時点でフランツ一世は、先見師に告げられた黒の聖女はカロリーネ・アンだと信じて疑っていなかった。
プファルツも含めた側近たちも同様に。
「いつからですか?」
弱々しいスッペ公爵の問い掛けに、ルードヴィヒは回顧の記憶を絶ち切り視線を落とした。
「貴様の所業など、とうの昔から気付いていた。流石にカベルと陛下暗殺に関しては最近だったがな」
「それもそうですが、……そのお姿です」
「ははっ。白痴だとか言い出したのは貴様たちであろう。初めから意図して姿を隠していたわけではない。そう思っているならば、俺はそのままでも良いと思っていた。そう、あの時までは……」
一瞬の間、静寂が辺りを包みこむ。が、すぐに何か気が付いたように公爵は勢いよく顔を上げた。
「ラヴィーナの王女ですか?」
見開かれた窪んだ目を見つめ、ルードヴィヒは再び嗤った。
「闇を照らす明けの明星を害する者は何人たりとも許しはしない。それが仮に神だとしても同じ事」
「……では、もし仮に王女を迎え入れる条件が整っていなかったのだとしたら――」
「今更仮定の話が聞きたいか?それならば教えてやる。俺は地位や権力などには興味がなかった。もしあの時欲しがったのならば、喜んでくれてやっていたぞ。ありえないことだが、もし仮にカレナが王女ではなく平民だったら……恐らく俺は国を捨てていただろうな」
仕組まれたような偶然に、滑稽過ぎて声を上げて笑いたくなる。
今の容姿でなかったら虐げられはしなかった。
虐げられなければカロリーネ・アンとの出会いはなかった。
カロリーネ・アンとの出会いがなければカレナとは出会えていなかった。
あのタイミングでソルライトが発掘されなければカレナを娶ることが出来なかった。
カレナを娶ることが出来なければ、ルードヴィヒが動くことはなかった。
結果、いずれブルグミュラーは大国という位置から転落していくのであろう。
可笑しなくらいの偶然の重なり。
今まで苦痛を強いられた分、この先の未来を幸多きものとしてくれるのかと神に詰め寄りたくもなる。
けれど、怠慢な行いの報いがすべて自分自身に返ってきただけなのだ。
自分には神を罵る資格などない。
国の内情を憂い、もっと早い段階で行動を起こしていたら、このような事態にはならなかっただろう。
先見師のお告げを聞いた幼い頃に自分自身を受け入れていたとしたら、カレナを危険な目に遭わせずに済んだかもしれない。
今更悔いたところで過去をやり直せるわけではないと理解はしているが、どうしても頭の片隅に残滓のようにこびりついて離れない。
「なぜそこまで……」
スッペ公爵の呟くような問い掛けには応えず、ルードヴィヒはフェリクスを見やり視線を交わす。
その視線にフェリクスは頷いた。
「連れていけ」
ルードヴィヒの低い声に、フェリクスは騎士の最敬礼をするとスッペ公爵を立たせて共に部屋を出ていった。