青銀の闇 5
ルードヴィヒはエルフリーダを抱いたまま、片手で用意していた白い布を取り出した。
周りの男たちは、その様子を押し黙ったまま見つめている。
部屋の空気は先ほどとはまったく別のものへと確実に変化していた。
そのことが、腹の底から笑いたくなるくらい堪らなく可笑しかった。
笑みを浮かべたまま、ルードヴィヒは目を閉じている女の鼻と口元に布を宛がった。
突然の刺激臭に、エルフリーダは身体を強張らせ目を見張る。
それを宥めるように、巻き付けていた手で柔らかくエルフリーダの身体を撫でてやる。
「エリー、大丈夫だよ。吸って……吐いて。そう、ゆっくり深呼吸してね」
穏やかな声で優しく促す。
その声に、エルフリーダはすぐさま面白いくらい素直に従った。
ルードヴィヒにすべてを委ねるように、ゆっくりと薄茶の瞳が閉じていく。
支えている細い身体が徐々に重さを増す。
そうして、完全にエルフリーダの意識は途切れた。
スッペ公爵は娘のその姿を見て、心の動揺を見せるかのように身体を大きく揺らした。
ルードヴィヒの行動に口を開くべきか否か戸惑っているような素振りを見せたものの、それでも声を発する事はしなかった。
代わりに口を開いたのは、スッペ公爵の横に立つ男だった。
「それは……」
その声は幾分強張っているかのように低く唸るようなものだった。
ルードヴィヒはその言葉に目を細めた。
「目覚めた時に副作用が無い特別な薬だって言ってたかなあ。ああ、きみの使ったものよりは濃度は高いから、数時間は目覚めないと思うよ」
腕の中から落ちそうになるエルフリーダを横抱きにし、ルードヴィヒは先ほどカレナの腰を抱いていた男を見つめた。
エルフリーダの言動で公爵の意識は混乱の中へと陥っていることだろう。恐らく今は正常な判断は出来ない筈。
しかしそんな中、この男だけは焦りの色を見せずに余裕さえも感じさせる態度で、ずっとこちらを見つめていた。そう、つい先ほどルードヴィヒがエルフリーダを眠りに誘う直前までは。
「なぜそれを?どこで手に入れた?」
男の問い掛けは至極尤もなものだった。
ルードヴィヒがエルフリーダに使ったものは、男がカレナに使ったものとまったく同じ薬品であった。
極寒の地にしか生息しない希少な植物から精製された睡眠薬。神経に与える影響がないので、人体に摂り込んだとしても副作用が一切ない。これに別のある薬草を混ぜることで、眠るように死を齎す劇薬へと変化する。この睡眠薬は、その劇薬を精製する過程で偶然出来上がったものだという。
一般に使われている睡眠薬は使用の副作用として依存性や一過性の健忘、覚醒時の倦怠感と四肢の痙攣などが生じることが常である。因って、状況が整っているのならば薬を盛った者にそうとは気付かせないことが可能だという利点があった。副作用の度合いに差はあれど服用後の症状がまったく現れない睡眠薬など、ルードヴィヒとて今まで一度としてお目に掛かったことは無い。まさしく薬の国カベルの優れた研究と技術の賜物だろう。
一般には勿論の事、たとえ大国ブルグミュラーの王族だとしても通常では決して手に入れることの出来ない門外不出の薬を、ルードヴィヒが容易く使って見せたことに男が訝しむのも当然だ。
「ふふっ、どこだと思う?」
ルードヴィヒはエルフリーダを脇に寝かせた後、馬鹿にした笑みではなくただ淡く笑いながら問い掛けを返した。
しかし、それが逆に男の神経を刺激したようだった。
男は苛々した様子で顔を歪めた。
「何を知っている?どこまで知っているんだ?」
閉鎖的な国が多い北方の国々において、男の祖国であるカベルもその例外ではない。
国内情勢をほとんど公にすることのないレックスロートほどではないものの、カベルも国勢などの詳細が掴み辛い国の一つである。それでも、カベル製の薬品が大陸中に出回るようになり、最近では情報の入手が随分緩和されたほうだ。
しかし、元は国の情報を開示することを殆どしなかった国である。人々の口は堅く閉ざされることを常とし、一部の情報であるならば完全にひた隠すことが出来るのだろう。
男の疑問は、この部屋にいる男たちがどこの誰でどんな事情でこの場所にいるのかではなく、恐らくカベル国内の事情を指しているのだろう。
ルードヴィヒは淡い笑みを崩さぬまま男の問いに答えた。
「うん?この薬がカベルの国王個人が抱えている研究所でつくられた、一部の人間しか知ることのない薬の一部だってこと?それとも、研究所の学者たちが監禁され、そこの薬が教皇庁の上層部に流出しているってことかな?」
男の顔色が面白いくらいに一瞬にして変わった。
まさかカベルの内紛や男たちの仕えている人物までも、ルードヴィヒが把握しているとは思わなかったのだろう。それどころか、つい先ほどまでは男たちがカベルの者だということも知られていないと思っていたのだろう。
「なぜ、それを……」
国王の毒殺未遂に関連して間者をカベルへと向かわせた結果、ルードヴィヒが手に入れたのは解毒薬ではなく隠された国の内部事情だった。
この世界の創造神ノイエが、はじめてこの世界に生命の息吹を吹き込んだものとされる神の樹。その大樹が根付くレックスロートは大陸の最北端に位置している。今現在でも、神はその大樹を通してこの世界を見守っていると多くの人々に信じられていた。それを表すかのように、神の樹に近い北にいくほどノイエ神を崇める信仰心は強くなる。
揺籃の地レックスロートの隣国であるカベルも同様だった。そして、そんな敬虔な民を纏め上げる存在がその国にはいた。国を統べる国王とは別に、民の信仰心を統治する教皇という至高の存在。しかしその存在意義は常に執政とは切り離された立場にあり、教皇が国の政治に絡むことは今まで一度としてありはしなかった。教皇とは国を導く者ではなく、あくまで神を心の拠り所とする人々を精神面で支える聖職者たちを導く者という存在でしかない。
現に教皇の選定にはカベル国王は一切口を出すことが出来ないという。その座の継承方法は明らかにされてはいないが、現在その位に就いているのは三年ほど前に就任したばかりの年若い教皇だった。その人選はカベルの教皇庁の長い歴史から見ても、これといって変わった点など無かった筈だった。
しかしその後、長いあいだ均衡を保っていたのが幻だったかのように、カベルは頂点から闇に浸食されていった。至高の存在が同じ時代に二人現れてしまったことが今回の悲劇の始まりだったと言えるだろう。
北方の国々の特徴である信仰心の強さ故に、国民は国の統治者である国王よりも教皇を崇拝し敬うようになった。実際にそれほどの人物なのだろう。本来ならば政とは離れた立場にいるべき教皇は、見事なまでに人心を掌握して自身の存在意義をすり替えた。その結果、二人の立場は完全に入れ替わってしまった。カベル国王の権威は失墜し、教皇は国の頂点に君臨するただ一人となった。
そしてその魔手は隣国レックスロートへも伸びていった。神樹の存在と、他国から遠巻きながらも神の国と崇められるその地を手中に収めることで、教皇庁の力を自国民はもとより、他国にも見せつける思惑があったのだろう。
しかし隣国の守りの壁は思いの外厚かった。大陸で唯一の魔術師団を抱える神の国はその驚異的な強さをカベル相手に存分に発揮した。初めて目にする魔術師団の攻撃に、カベルの軍は国境の砦から一歩たりとも前に進軍することが出来なかった。
やがて長引く戦いにカベルの兵たちは疲弊し気力を失いはじめた。しかし国の威信を賭けた戦いを途中で放り出すことなど出来る筈がない。ましてやカベル側から始めてしまった戦である。おめおめと尻尾を巻いて逃げ帰ってしまっては、人々の教皇に対する崇敬は薄れてしまうだろう。下手をすると今のカベル国王のように、瞬く間に教皇の権威は地の底へと落ちてしまうかもしれない。
こうして教皇側も方針を転換せざるを得なくなった。結果、焦った教皇庁は起死回生の策としてブルグミュラーの軍事力に目を付けたのだ。確実にレックスロートを落とすために。
そして標的にされたのが強国ブルグミュラーの三大公爵の一人であるスッペ公爵だった。まんまとカベル側の甘言に惑わされ、上手く利用されたのだ。教皇の信の厚い側近を送り込んでくるほどなのだから、余程レックスロートとの戦況が思わしくないのだろう。
レックスロートとの戦いもブルグミュラーでのことも、はじめは教皇本人の指示なのかそれとも教皇庁の上席の者たちの謀なのかは定かでなかった。しかしこの男の正体と同時に明らかになったのは、本気でこのブルグミュラーを手中に収めようとしているのだろうことだった。
それならば、こちらも本気を見せるのが筋だろう。僅かに戸惑いながらも怒気を放つその男に、ルードヴィヒは笑みに纏う空気を一変させた。
「裏で動いているのが自分たちだけだとでも思っていたのか?我が国の国王暗殺を計画した時点で警戒すべきだったな。お前の主である教皇はそこまで頭がまわらなかったのか?忠実なる僕、ホルスト・アンブロジウスよ」
口調をがらりと変えた皮肉混じりの言葉に、男は目を見張った。
口ではそうは言ったものの、ルードヴィヒはこの男の主が奸知に長け辣腕を揮う人物だということは十分に理解している。カベル国内の事情と一向に歩みを見ない戦況に、こちらに送り込んでいる間者にまで気を配ることが出来ないのかもしれない。もしくは、かんばしくない動向を察知して尻尾切りしたかのどちらかだろう。
絶大なる支持を集める若き教皇とその懐刀。側近のアンブロジウスを送り込んできたということは、あちらもそれ相応の覚悟の上だということ。
「それが本性か。すべてを知っていたのか」
「途中からだがな。国王の暗殺未遂さえなければ気が付かなかったかもしれない。その点で言えば、我らが愚王陛下は珍しく良い働きをしてくれた」
実の父親を嘲り鼻で嗤ったルードヴィヒに、アンブロジウスはわなわなと身体を震わせた。自分の置かれているこの状況からか、その顔は怒りと羞恥と焦燥の入り混じったような複雑な表情を見せていた。余程自分たちの計画に自信があったのだろう。先刻までの自分の姿を見ていれば、そう思われても仕方がないのだろうが。
「もしや解毒薬を――」
「ああ。手に入れたのは、恐らくお前が想像しているところではないだろうが」
「なに?!」
絞り出すような低い声を遮り、ルードヴィヒは気だるげに出入り口の脇の壁に身体を預けた。つい先ほどまでの余裕を跡形もなく消し去ったアンブロジウスに、ルードヴィヒの心は黒い愉悦に満たされた。
その感情のままに愉しげな笑みを浮かべる。
「お前の国が手に入れようとしているレックスロートだが、あの国をあまり甘く見ない方がいい。流石は神の国と言われているだけはある。お前たちが密かに使った薬はすべて研究済みだそうだ」
「レックスロート?まさか――」
「そのまさかだ。他国の王族の使者でさえ容易に書簡さえ手渡すことが出来ない彼の国だが。こちらには、ちょっとした伝があってな。解毒薬もレックスロートの国王直々に賜ったものだ。おかげで俺も、そして残念ながら我らが国王もすっかり健康だ」
「なに?!」
「ついでに言うと、事を為損じた時のために用意しているお前たちが嗾けた戦の準備もとうに整っているぞ」
「くっ!」
ルードヴィヒは笑みを消し去り、顔を歪めるアンブロジウスをその秀麗な目を細めて鋭く見据えた。
「言っただろう、裏で動いているのはお前たちだけではないと。お前たちはブルグミュラーを諦めるほか既に道はない」