青銀の闇 3
「この王女は俺が貰っていく」
意識を失ったカレナの腰を抱いたまま宣言してくる男を一瞥し、スッペ公爵はカーテンの隙間から外を窺った。
大議会が始まってから随分時間が経っている。王女が行方不明ということも、知れ渡っているかもしれない。まさかこのラウフェン宮殿にいるということは、さすがに誰も思わないだろうが。
自分の計画を狂わせる要因になっている王女の処遇をどうするかなど、もう既に公爵の頭の中から消え去っている。
公爵の思考の大半を占めるのは、この局面をどう乗り切るかということだった。
少し離れたところで蹲り涙を流し続ける愛娘に視線を落とす。
エルフリーダの突然の奇行の後始末を思うと、スッペ公爵は頭を抱えたくなった。
以前、誰よりも可愛がっていた娘が自分に刃を向けてきた時に気付くべきだったのかもしれない。
この娘は諸刃の剣なのだということを。エルフリーダの行動如何によってはすべてを狂わされてしまうことも、その可能性が多分にあったのだということも。
幼い頃から、思い込みも感情の起伏も人一倍激しかった末娘。
普段は公爵の言葉に素直に頷くものの、一度箍が外れてしまうと抑え込むのに酷く労力を要した記憶がある。
今思えば、ある頃を境にエルフリーダは妄執に侵されたように、狂気の淵を垣間見せるようになっていた。
そんな娘の変化を、見て見ぬふりをしたのは他ならぬスッペ公爵自身だった。
自分の娘を王子の婚姻相手にという野望の一端を、どうしても成就させたかった。
エルフリーダをフランツ王子の側室にという話は、ラヴィーナの王女が正妃になることが決まったあとに、国王陛下から内密に告げられたものだった。
国王は、王子とラヴィーナの王女の婚姻は完全に国のためのものだと、再三口にしていた。どの女性にも興味を持たなかった今までと同様に、フランツ王子がカレナ王女に情を抱く可能性は皆無なのだと。
それを自分が鵜呑みにしてしまったことも、今回の事態を招いてしまった要因だろう。
ということは、国王はカレナ王女のことを知っていたということか。知っていて、異を唱えると予想される自分に甘言を口にしたのか。もしかしたら、自分の企てもすべてが彼の予想の範疇なのか。
いや、それはない。あの国王にそんな知恵などある筈もない。国のこと以外に夢中になることしか能の無い愚鈍な国王なのだから。
だとしたら、国王の影で誰かが手を引いているということだ。
一体誰が。
あの忌々しい宰相か。
それとも、国の武力を掌握している騎士団長か。
そこまで考えて、スッペ公爵は我に返った。
「そんなことは後にしてくれ。それよりも、行くぞ。そろそろ議会も終わる頃だ。早くここを立ち去らねば。まったく、あんたの部下が金に目がくらんでエリーの企みに手を貸さなければ、こんなことにはならなかったのに」
「ああ、こいつらは後でお仕置きだな」
離れた場所で様子を窺っていた男たちは、その言葉にぴくりと顔を強張らせる。
不遜に笑う男を、憮然とした表情でスッペ公爵が睨みつけた時だった。
ひどく場違いな声が、部屋に立ち込める異様な空気を更に硬化させた。
「あれ~、こんなところで何してるんだい?」
緊迫した空気に満ちたその空間を震わせたのは、場にそぐわないルードヴィヒの呑気な声だった。
部屋にいた男たちは、一様に身体を強張らせる。
カレナを抱いていた男がその腕を離し、瞬時に公爵の傍まで移動した。
「フランツさま……」
スッペ公爵の力無い声が、この時ばかりはやけに大きく部屋に響く。
その声に即座に反応したのは、床に膝を着いていたエルフリーダだった。
よろよろと弱々しく身体を起こす。
公爵はそんな娘の行動を横目で見ながら口を開いた。
「なぜここに……。フランツさま。外に誰か居ませんでしたか?」
「ううん。誰も居なかったよ~」
そんな筈がない。
ブレッヘルト家の騎士団の者を数人とフッガー子爵を、見張りとして立てておいた筈だった。
青褪める公爵は、にこりと笑顔を見せながら気だるげに出入り口に立つ王子を見つめた。
額からは尋常ではないくらいの汗が吹き出し始める。
一人だろうか。共の者を侍らせているのではないだろうか。
万一フランツ一人ならば、上手く誤魔化せば何とか乗り切れるのではないだろうか。
目を皿のようにして、慎重に様子を窺った。
王子が議会に参加するようになる以前は、相見えたのはたったの一回のみ。
それでも、王宮に実しやかに流れている噂話は、漏れることなくこの耳に届けられている。特に、この王子に関しては。
いつもは金茶に煌めき放つ髪も、灯りを灯していない部屋の中にいるため鈍い光沢を纏わせているだけだった。
こちらに緩く微笑むその表情も、別段変ったところは見受けられないかに思われた。
しかし、ふと感じる違和感に公爵は気が付いた。
「フランツさま、その姿は……」
小さな呟きを吐く公爵を余所に、フランツは部屋の中をぐるりと見渡した。
「随分と大勢人が集まってるねえ。何の会なのかなあ。どうしてここにカレナ王女がいるんだい?」
「そ、それは……」
口籠る公爵に、フランツは視線を下げた。
「エリー、どうしてそんなところに座り込んでいるんだい?」
「フランツさま……」
精気の抜けた顔で、エルフリーダは茫然とフランツを見つめていた。
「もしかして、エリーがカレナ王女を連れ出したの?」
そのフランツの言葉に、エルフリーダの身体がびくりと激しく揺れた。
フランツはそんなエルフリーダを見つめたまま、優しげな笑みを浮かべた。
「エリーはもしかして僕のためにカレナを連れ出したの?」
エルフリーダは自分に向けられた、夢にまで見た神々しい笑みに釘付けになった。
出会った時に見えた楽しげなものとはまったく別のもの。
他の誰でもない、自分だけに向けられた美しい微笑み。
エルフリーダは思わず首を縦に振った。
「エリーは、僕が好きでもない女性と婚姻を結ぶ事を心配して、カレナ王女を連れ出したんだね」
その言葉にエルフリーダはのろのろと立ち上がる。
「そうですわ。フランツさまの愛を受け取るのは、わたくしだけですもの」
「僕のことを考えてくれたんだね。ありがとう。嬉しいよ」
フランツの言葉に吸い寄せられるように、エルフリーダは一歩ずつ歩きだした。
その姿を、フランツは微笑みを浮かべたまま優しく見つめていた。
公爵を含めた周りの男たちは、その異様とも言える光景に固唾を飲む。
エルフリーダが目の前まで来ると、フランツは笑みを深くして腕を広げた。
「フランツさまっ!」
エルフリーダは感極まった様子で、その腕の中に飛び込んだ。
フランツは自分の腕の中の華奢な身体を優しく抱き締めた。
「ありがとう。きみのような女性を側室に迎えられるなんて、僕は幸せ者だね。きみはいつも僕のことを考えてくれていると思っていたよ」
「ええ。フランツさまのことだけを、ずっと想っておりました。わたくしこそが、フランツさまの妃に相応しいのですわ」
目の前で繰り広げられる意外な光景に、スッペ公爵と男たちは目を見開いて固まっている。
こんな顛末を、誰が予想出来ただろう。
フランツがエルフリーダに好意を示すことは、今までに一切無かった筈。
そもそも二人は、婚約の儀の後の夜会で初めて会ったのではなかったのか。
何がどうして、こんな事になっているのか。
スッペ公爵は驚きのあまり、この事態を利用しようという考えさえ浮かばなかった。
誰もが口を挟むことを憚られる、完全に二人の世界だった。
「そうだね。きみこそが、僕の寵妃に相応しい。僕のために色々動いてくれていたんだよね?」
フランツがエルフリーダの薄茶の髪を撫でながら問い掛けた。
その言葉に、エルフリーダは嬉しそうに笑顔を作った。
「そうですわ。わたくし、フランツさまのために内緒で色々してきましたの。だって、わたくしからフランツさまを取り上げようとなさるんですもの」
「そうだね。僕の相手はエリーしかいないのに、皆は分かっていないよねえ。ハルト侯爵令嬢を追い払ってくれたのも、きみだろう?」
柔らかな髪を撫でる手をそのままに、フランツは優しい声で問い掛けた。
エルフリーダはその言葉に、拗ねたようにフランツの胸に縋りつき顔を埋めた。
「ええ。わたくしとフランツさまの仲を壊す者は許せませんわ。だから、二度とフランツさまに近付けないように、顔に痕が残るような傷を付けてやりましたの。ふふっ。案の定、病気だと言って領地から出て来れなくなったみたいですわ」
エルフリーダは陶酔したような笑みを浮かべ、淀みなく言葉を紡ぐ。
二人の会話が当初とはまったく別の方向へと歩み始めたことに、スッペ公爵は身体の芯がすうっと冷えていく。先ほどまでの吹き出すほどの汗が、まるで幻だったかのように。
公爵にとっては、まさに寝耳に水な話だった。
確かにエルフリーダの社交界デビューの寸前にもう一人の妃候補が立ち、すぐにその話が立ち消えになったことがあった。噂で聞いたのは、令嬢が病に侵され静養のため社交の場から退くためだという話だ。
さきほどのエルフリーダが口にした内容と、ぴたりと符合する。
公爵は自分の思い違いに愕然となった。
これが初めてではなかったのだ。
エルフリーダが自分の想いのままに、一人で行動を起こしたのは。
もう既にあの時、自分の娘はこの手の中から離れていった後だったのだ。
そう、あの自分に剣先を向けたあの時既に。
「その後に貴族令嬢を三人ほど僕から遠ざけてくれたのも、きみでしょう?感謝してもしきれないよ」
「当然のことをしたまでですわ。フランツさまとわたくしのあいだを邪魔する者は、排除されるべきなのです」
蕩けるような甘い笑みを浮かべる王子。
それを恍惚とした表情で見上げるエルフリーダ。
視線が暫し絡み合った後、王子は自分の胸にエルフリーダの頭をそっと抱き込んだ。まるで慈しむかのように。
事情を知らない者が見れば、まさしく恋人同士の甘い語らいに聞こえたのだろう。
しかしスッペ公爵は、これがそうではないことに気付き始めていた。
なぜ王宮に引きこもっている王子が、父親である自分さえも知らない情報を持っているのか。
王子が知っているのはどこまでなのか。
そこまで考えたところで、公爵の思考は固まった。
まさか――――。
陽の当らない影に隠れてすべてを動かしているのは――――。
スッペ公爵は、自分の娘を抱き締めている男を血の気が引いた顔で見つめた。
歓喜に満ちた笑みを浮かべながら、フランツの胸に擦り寄るエルフリーダは気が付いてはいないだろう。
優しく微笑んでいた王子の表情が変化したことに。
身体の震えが止まらない。
目にしたものに、呼吸が止まりそうなほどの恐怖が湧き上がる。
それでも目を逸らすことが出来なかった。
スッペ公爵の視線の先には、死さえも覚悟したくなるほどの冷気を纏った艶然たる微笑みが浮かんでいた。