真紅の狂想 3
「フランツさま!」
自分と少年以外誰もいないと思っていた空間に、第三者の声が響く。
後方の木立の奥から掛けられたその声は、エルフリーダの目の前に立つ少年に掛けられたもののようだった。
エルフリーダが驚いたのは呼ばれたその名前故ではなかった。二度も声を掛けたのに見向きもしなかった少年が、新たな人物の声には反応したことに一瞬怒りが込み上げたが、振り向いた少年の容貌にエルフリーダのその感情は呆気なく霧散した。
視線をエルフリーダの後方に向けたその少年の容姿は、恐ろしいまでに整っていた。すべやかな白磁の肌に薄らと色のついた形の良い唇。繊細な鼻筋と、少年らしさの残る緩やかな顎の線。波打った柔らかそうな金茶の髪からは青銀色の切れ長の片目が顔を出していた。
まったく感情が読み取ることが出来ないほど無表情な顔は、逆に神の御使いかと思わせるほど神秘的な雰囲気を醸し出している。決して女性には見えないその美貌は、不思議と性別さえも超越した神々しい空気を漂わせる。
誰もがその瞳に自分の姿を映し出して欲しいと、跪き乞い願うことだろう。
誰もが彼の人のものになりたいと、その身を無条件で差し出すだろう。
エルフリーダはあまりの衝撃に身体を小刻みに震わせた。
美貌の少年に駆け寄ってきたのは、青年と呼ぶにほど近い二人の少年だった。
「フランツさま、お待ちになられていた書簡が届きました」
「フランツさま、ずいぶん探したんですよ」
一人は恭しく頭を下げ、一人は親しげに笑顔を向けながら、それぞれ少年に声を掛けた。
二人に呼ばれた名を反芻して、エルフリーダはようやく目の前の少年が何者であるかを理解し、またしても驚愕に目を見張る。
フランツに距離を置かずに立ち尽くすエルフリーダに、少年の一人が訝しげに視線を向けた。その不躾な視線を受けて、ようやくエルフリーダは我に返る。
「フランツさま、この方は?」
少年の問い掛けにさえ、フランツは表情をぴくりとも動かさずに口を閉ざしたままだった。エルフリーダはその視線を自分に向けたい一心で、ドレスの端を僅かに浮かせ淑女の礼をとった。
「お初にお目もじ仕ります。スッペ公爵領領主の娘、エルフリーダ・ブレッヘルトでございます。恐らく、フランツ王子の婚姻相手の候補として、いずれ正式にご挨拶に伺わせて頂くことと思います」
実際には決定事項ではない。けれども、自分がフランツの婚姻相手の候補として名が上がるのは既に周知に事実。これくらいの先手は問題ないだろう。
エルフリーダは、父親がそうなるように影で精力的に動いていることを知っていた。勿論、必ず目的を達成してくれると信じている。それならば、口に出しても問題はないだろう。自身に関連のある人物ならばフランツとてエルフリーダに少なからず興味を持つ筈。そんな思惑を抱いた上での自己紹介だった。
その口調に対してなのか、それとも言動の意味に対してなのか定かではなかったが、エルフリーダの存在に疑問の声を上げた少年は、若干驚きはしたものの、すぐさま微かに眉根を寄せて表情を厳しいものに変えた。もう一人の少年は口を開けたまま呆けている。しかし、ちらりと覗き見た肝心の人物は、目線さえ向けてくれないどころか相変わらず感情を読むことが出来なかった。
「こちらこそ、お初にお目に掛かります。ルーデンドルフ子爵子息のヴァルター・フックスと申します。こちらはヒラー公爵子息フェリクス・パウル・マイヤーです。どうぞお見知り置きを」
出てきたのは宰相と騎士団長の子息名だった。主要な貴族の家族構成はすべて頭に入っている。確か子爵家子息は六つ、公爵家子息は五つ年上でどちらも嫡男だ。エルフリーダは二人の少年の顔をまじまじと見つめた。
言葉を紡ぐヴァルターの眉間の皺は消え去っていたが、その表情は温もりのない冷めたものだった。エルフリーダはなぜそんな表情を向けられるのか理解出来ずに不快感が込み上げる。しかし、それ以上にもう一人の人物の確かな素性を求めて、傍らに立つフランツをじっと見つめた。
「こちらは…………ブルグミュラーの第一王子であらせられますフランツ・ブルグミュラーさまです」
躊躇いのあと淡々と語られた言葉にエルフリーダの鼓動が高鳴る。しかし、当の本人は自身の名が出たのにもかかわらず何の反応も見せず立っている。そんな態度を分かりきっているかのように意に介さず、ヴァルターは視線をエルフリーダへと戻した。
「ところで、あなたはここで何をなさっているのですか?」
言葉は慇懃なものの、明らかに咎を含んだ厳しい口調だった。鋭い視線に射抜かれて、エルフリーダは自分がこの場所にいる理由を思い出し顔が熱を帯びる。
「あ、あの、迷ってしまって…………」
「どこをどう迷えばここに辿り着くのか教えて頂きたいのですが」
「庭園にいたのですが…………」
「庭園ですか……。エルフリーダ嬢は随分器用な方なのですね」
このような言い方をするということは、ここは王族以外立ち入り禁止の区域なのだろう。どう見ても、ヴァルターはエルフリーダの言い分を信じていない様子だ。恥ずかしさのあまり出たたどたどしい答えが、ヴァルターの目には胡乱に映ってしまったのだろう。おおかた、フランツに会いたいあまりに、王族のみに許された場所へと後先顧みず足を踏み入れた愚かな娘とでも思っているのだろう。だとしたら、先ほどの自己紹介が裏目に出たのかもしれない。
エルフリーダは羞恥と後悔に唇を噛んだ。
しかし、自分は曲がりなりにも名門公爵家の子女。家柄で言えば目の前の宰相の子息という少年よりも格上の筈。真実を述べているのにもかかわらず、このような言い方で蔑まれるのは、どうしてもエルフリーダの自尊心が拒絶反応を起こした。
「何が仰りたいのでしょう?!わたくしが迷ってしまったのは真実ですわ!」
勝気な性格のエルフリーダは、眉を吊り上げて刺々しく言い返した。それでも、相手はあくまで淡々とした口調を崩さない。
「お分かりかと思いますが、この場所は庭園からは随分と距離がある場所です。そのあいだには小さな建物もあれば、密集していないものの木立もある。迷ったなどという言葉は到底納得できない」
そんなものがあったのかと、エルフリーダは改めて自分が蝶以外何も見ずに夢中で駆けてきたことを思い知らされた。集中してしまうと周りが見えなくなってしまうことが自分の短所であることはなんとなく分かっている。悔しいことに、ヴァルターの言うことは間違っていない。
厳しい視線を向けるヴァルターに、真実を話さない限り追及の手を逃れられそうにないと悟る。
「それは……蝶が…………」
「蝶?」
「珍しい蝶がいたので、それを追いかけてきたのですわ!」
半ば自棄になりながらも、エルフリーダは自白した。
案の定、ヴァルターは眉根を寄せて大仰に溜息を吐いた。フェリクスは口を手で隠しながら笑い声を零している。
「これはこれは、随分可愛らしい御趣味ですね。先ほどの婚姻の話は公爵令嬢の御冗談だったのですね。これほど幼いお嬢さんでは婚姻話などほど遠いでしょうに」
「じょ、冗談などでは―――――」
「わたくしどもは亡き前国王陛下から許可を頂いておりますが、言うまでもなく、この場所は貴族でさえも立ち入りを禁じられている場所です。お父上はご存知なのですか?たとえ貴族息女であろうとも巡回の騎士に剣を抜かれても文句を言えないこの場所に、今あなたは足を踏み入れているのです。しっかり前を向いて歩かれたほうが身のためですよ。今後このようなことの無きよう、お気をつけ下さい。リック、お送りして差し上げなさい。それではエルフリーダ嬢、失礼いたします」
一方的に言い放ち、ヴァルターは怒りで震えるエルフリーダから視線を外してフランツの方に身体を向けた。
「参りましょう」
一言発したヴァルターに、会話を聞いていたのかフランツが足を踏み出す。その足取りは軽く、エルフリーダはフランツが自分のことを歯牙にも掛けていないのだと、改めて思い知らされた。
「あの!」
去っていく後姿に強い焦燥感を感じ、エルフリーダは思わず声をかけた。
すると、発した声の大きさからか、幸運にもフランツの歩みが止まったことに歓喜が込み上げる。
「何ですか?」
低い声で振り向くヴァルターを極力視界に入れないようにして、エルフリーダはフランツを見つめたまま再び口を開いた。
この機会を逃したら、もしかしたら二度と会うことが出来ないかもしれない。
そんな強迫観念に追い立てられ、エルフリーダは必死だった。
「フランツさま!」
エルフリーダの切羽詰まった声が辺りに響く。
その声に反応するかのように、不思議な輝きを放つ髪が微かに揺れる。
青銀色の瞳がエルフリーダを映し出す。
視線が絡み合ったという事実に、滑稽にもそれだけで、えも言えぬほどの高揚感に全身が包まれる。
「わたくしエルフリーダは、再びお目にかかれる日を心よりお待ち申しあげております」
これまで学んできたものをすべて注ぎ込む。
慎ましく、可憐に。
女性らしく、淑かに。
エルフリーダは少し俯き加減に、ゆっくりと腰を折った。
静寂が辺りに立ち込める。
「ふっ…………」
沈黙を破ったのは、堪えるように漏れた笑い声。
エルフリーダは下げていた顔をゆっくりと上げる。
すると、目に飛び込んできたのは、とても楽しげな笑みを見せるフランツだった。
無表情な時の厳かな雰囲気とは一変して、芳しい芳香が噎せるような華々しく艶やかな微笑み。
その表情に魅入られて、エルフリーダは頬を赤く染めて固まった。
しかし、それも束の間のこと。次の瞬間にはヴァルターを伴い、フランツは颯爽とこの場を去って行った。
残されたのは放心状態のエルフリーダと、苦笑するフェリクスのみ。
「エルフリーダ嬢?大丈夫ですか?戻ってきてくださいよ」
動く気配のないエルフリーダに、フェリクスは目の前でひらひらと手を振って見せる。
「だ、大丈夫ですわ!」
ようやくフェリクスの存在を思い出し、エルフリーダは失態を誤魔化すように大きな声を出す。
その様子に呆れた顔も見せずに人懐っこい笑顔を見せると、フェリクスはフランツたちが去って行った方向とは逆を向いた。
「では、お送り致します。参りましょうか」
先ほどのヴァルターとは違い含みのないフェリクスの態度に気を良くし、仕方がないから送られて差し上げるわと高慢に返した後、もといた庭園を目指す。
困ったように苦笑を浮かべる少年が裏表のない性格であることを瞬時に見抜いたエルフリーダは、愛称であるエリーと呼ぶことを特別に、というより一方的に許可した。その上で、短い道中、自分がどんなに王子を慕っているか、王子の妃に自分がどれだけ相応しいかを懇々と聞かせ続けた。
王子の情報を聞き出そうかとも考えたが、それほど許された時間があるわけではない。情報を手に入れた上で自分の話をしようという選択肢もあったが、両方が中途半端に終わってしまっては意味がない。王子と多くの時間を共有するこの少年と会話をする時間が持てたことは奇跡に近いだろう。それならば、目的を達成するためにより有効な手段を選んだほうが懸命である。
どうか、あの麗しい王子の口から自分の名が上がりますようにと。
エルフリーダは、所謂一目惚れというやつです。