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真紅の狂想 2

 この女さえいなければ、何もかも上手くいく筈だったのに――――――。


 この女さえいなくなれば、あの方はわたくしだけのものになる――――――。


 エルフリーダは毅然とした態度で自分を見返す目の前の王女を、今すぐこの場で消し去ってしまいたいと思うほどの激情に囚われていた。


 頭の中に響くのは、幼い頃から繰り返し言い聞かされてきた一つの言葉。


 その意味さえ理解できない幼少期から何度も耳にしてきた言葉は、エルフリーダにとっては最早当たり前のこと。疑問に思うことなど露ほども無く、そうなるのだとずっと信じていた。


『エルフリーダ、お前は王子の妃になるのだよ』


 何度も繰り返される言葉。


 何度も響く父の声。


 やがてそれが想いを捧げる人の声に変わる。


 瞳を閉じれば、脳裏に浮かぶのは微笑みをたたえた麗しい人。


 その姿を思い浮かべただけで、心は躍り、頬が上気する。


「ええ。フランツさまの妃はわたくしだけ。誰にも邪魔などさせませんわ」


 エルフリーダは瞳を閉じたまま呟いた。






 ブレッヘルト家では、当主である父親は絶対の存在だった。家族の誰もが父親の言葉には首を縦に振った。異を唱える者など誰一人いなかった。勿論エルフリーダもその中の一人である。ブレッヘルト家では父親の意見はある意味、神の言葉に近いもの。そういった家庭環境は、エルフリーダが生まれた頃には既に完璧に作り上げられていた不可侵のブレッヘルト家のルールだった。


 故に、父親の指示通りに自由を制限され、すべてと言っても過言ではないほどの時間を、目的を達成するために費やすことには何の疑問も抱くことは無かった。そして、父親が言い聞かせる言葉の真の意味を考えようとすることも無かった。只ひたすらに、大国の王太子妃に相応しいように大輪の花のようだと称される美貌を更に磨き、一国の王妃となるべく高い教養を身に付けることに夢中になった。


 こうして十を超える頃には、エルフリーダは貴族のあいだで噂が立つほどに自他共に認める正妃に相応しい、美しく聡明な少女へと成長していった。


 そんなある日のこと、彼女の中に突如湧きあがったのはある一つの疑問。


 なぜ自分は何も知らない人物に嫁がなければいけないのだろう――――――。


 今更ではあるが、当然といえば当然である。王子と呼ばれる人物がどのような地位なのか、婚姻を結ぶということがどういうことなのかも理解はしていた。けれども相手の姿を一度も目にしたことが無いどころか、その人物について自分は何も知識を持っていないことにふと気が付いたのだ。


 まるで呪文のように繰り返される父親の言葉には何の感慨も湧いてはこなかったが、その人物のためにほとんどの時間を費やしてきたことに、今更ながら強い戸惑いを覚え始めた。


 しかし、エルフリーダはそれまでの時間を無駄にするような愚かさは持ち合わせてはいなかった。すぐさま思考を切り替えたのだ。


 それならば知ればいいのだと。


 自分が婚姻相手を知るのは当然の権利だと。


 気になりだしたらその欲求は尽きることなく溢れ出る。


 しかし、母親や屋敷の者に尋ねて回っても、皆一様に困った顔をするばかり。父親に聞けば気まずい顔をして口籠ることしかしなかった。


 結果、誰からも情報の欠片さえも手に入れることが出来ず、エルフリーダは途方に暮れた。


 しかし、その問題は程なくして解決されることになる。


 それがエルフリーダにとっては人生を揺るがす運命の出会いになるということを、この時は誰もが予想出来なかった。


 勿論、王子もその側近たちでさえも。


 それは、エルフリーダが十四歳になる少し手前、筆頭貴族の一員であった父親に付いて王宮を訪れた時のことだった。






 当時のエルフリーダは、本人の努力の甲斐もあり学ぶべきことも以前に比べ格段に少なくなり、時間を持て余し始めていた。そんなエルフリーダに父親は、それならば王宮に連れて行こうではないかと思い立った。あわよくば王子と面通し出来るようにと。


 しかし、相手は病弱故にまったく姿を見せないと言われている幻の王子。表から正式に面会を申し込んでも容易に承諾が下りないのは目に見えていた。ましてや王族の居住エリアと貴族が出入り出来る議会場周辺はあまりにも離れすぎている。王族の出入りする庭園も立ち入ることは許されてはいるが、そんな人目のつく場所に王子が訪れる訳がない。偶然を装って会うことなど夢のまた夢。


 そこで、父親であるスッペ公爵は当初の思惑をすぐさま切り替えた。王子との対面が果たせないのならば、向こうから申し出るように仕向ければよいのだと。


 可愛い自慢の末娘であるエルフリーダ。他の兄や姉とは年の離れたその娘を、スッペ公爵はことのほか可愛がっていた。二人の息子たちは既に成人して嫁を貰い領主の仕事を手伝っている。上の娘はとうに国内の有力貴族家に嫁がせた。只一人の王家の嗣子に見合った年齢の娘はエルフリーダだけだった。


 欲目を抜きにしても、自分の娘が王族の婚姻相手として相応しい美貌と知性を兼ね備えていることは、スッペ公爵自身も十分理解していた。筆頭貴族という立場を利用して有力な貴族や宰相たちの目にエルフリーダを触れさせれば、噂は王子のもとに届くであろう。万が一王子が無理でも、多くの貴族と接する機会のある国王の耳には入る筈。既に婚姻を結んでもおかしくない年齢の王子の相手として、エルフリーダのことは必ず話題に上るだろう。そう考え、スッペ公爵はエルフリーダを頻繁に連れて歩いた。


 一方、そんな父親の企てなど知る由もないエルフリーダは、父親の執務室にある珍しい書物と王宮内にある美しい庭園に夢中になった。普段目にしている書物より遥かに詳細に記述された歴史や政治の書物たち。それらを、父親が議会のため不在にしていた執務室で一心不乱に読み耽った。そして一冊読み終える毎に庭園に出て休憩をとる。


 それが、エルフリーダの王宮での過ごし方だった。


 ある日のこと、エルフリーダはいつものように読書で凝り固まった身体を休めるように、王宮の庭園で寛いでいた。そこへ、目の前の花壇に見たこともない薄紅色の蝶が舞い降りた。


 もともと室内でばかり過ごしていたエルフリーダは、動物や昆虫に触れた経験が極端に少なかった。知識としてある程度身についてはいるものの、実際に目の前で直に目にするのとではまったく違う。エルフリーダが王宮の庭園に頻繁に足を踏み入れるのもそのせいだった。


 折しも季節は春。エルフリーダはその見慣れない美しい蝶に触れようと静かに手を差し出した。しかし、蝶はそれを避けるかのようにひらひらと舞い上がる。それを見て、エルフリーダはどうしても蝶に触れてみたくなった。逃げられると追いかけたくなるのは子供にも見事に当て嵌まったようだ。


 ひらひらと、まるでエルフリーダを翻弄するかのように、差し出される手を避けてゆっくりと飛んでいく一匹の蝶。エルフリーダは視線を蝶に集中させたまま追いかけ続けた。


 どのくらいそうしていただろう。夢中で追いかけていたエルフリーダの足が何かに躓いた。頭上に気を取られていたエルフリーダは、なす術無く足元にある背の低い草の中に倒れ込んだ。


 地面に強かに膝を擦り、泣きそうになりながら顔を上げたエルフリーダの視界に飛び込んできたのは、一匹の蝶ではなく一人の少年の後姿だった。


 エルフリーダが草と戯れているあいだに逃げてしまったのか、周りを見渡しても優雅に舞う蝶の姿は見つからない。それどころか、見慣れた風景さえ一つもない。自分が倒れ込んでいる場所がどこなのか、どうすれば先ほどの庭園に戻れるのかまったく分からなかった。


 エルフリーダはゆっくりと身体を起こした。周りには離れたところで佇んでいる少年以外に人影はない。明らかにエルフリーダが転んでしまったことが分かりそうな距離の筈なのに、少年はエルフリーダの方を振り返る素振りはまったくない。まるですべてのものを拒絶しているかのように見える少年の後姿。


 背の高さから、エルフリーダより少し年上なのだと分かる。金色に近い薄茶の髪は陽の光を浴びてキラキラと不思議な輝きを放っていた。身に付けているものは装飾が少ないながらも着心地が良さそうな生地で作られた高級品であることが窺えた。エルフリーダと同じく、どこかの筆頭貴族の嫡男か嫡孫が議会のあいだ時間を潰しているのだろう。


 エルフリーダはこちらを見る気配のない少年に憮然としながらも、目に映る人物以外に自分を助ける存在がいないのだと悟り、躊躇いながらもおずおずと口を開いた。


「あの…………」


 エルフリーダの声に、少年が応える気配はない。


「あの!」


 発した声が小さかったため聞こえていないのかと、エルフリーダは再び確実に聞こえるだろうと思われる声を放つ。


 しかし、やはり少年は振り返る様子を見せない。


 耳が不自由なのだろうか。明らかに先ほどの声は通常の人間であれば聞こえている筈の声量だった。


 エルフリーダはもう一度少年以外の人影を探すように周囲を見渡した。しかし、やはり先ほどと同じようにエルフリーダと少年以外に人の気配はない。


 仕方なく、少年の傍に行って話しかけようとエルフリーダは足を踏み出した。自分の姿を視界に入れれば存在を認識してくれるだろうと。


 不思議な雰囲気を纏う少年に、あと二、三歩という距離まで近づいたその時だった。






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