幕間 プファルツの回顧録
カレナの輿入れが決まったあとのお話。
プファルツは夕刻前に食事の確認をするため青年の部屋を訪れた。
宮殿に来ているのは確認しているが、何度叩こうとも麗容な彫刻の施された扉の内側からは人の気配が感じられない。
こちらを発たれたのかとも思ったが、幼少期から十余年、陽が昇っている時間帯に彼の方が無言でこの宮を立ち去ることは今までに無かった筈。やましいことがあって抜け出す時は別として。
訝しく思い取手に手を掛けると、主が不在の時は固く閉ざされているその扉は面白いほど簡単に口を開いた。
薄く開いた扉から中を覗いて部屋の主を探したが、奥にある机上には普段通りに書類が乱雑に積み上げられてはいるものの、目当ての人物の姿は無い。ゆっくりと部屋の中を見回すと、一箇所だけ普段と異なる光景が目に入った。
プファルツはその姿に眦を下げ、部屋の外側から扉に鍵を掛けたのち、宮殿の裏口から外に出た。
青年は宮殿の横にある大樹の影から、眼下に並ぶ小さくも美しい果実畑を眺めていた。
「お部屋に鍵も掛けずに外に出るのは危険ですぞ」
老人の突然の登場に、青年は驚いたふうもなく振り返りながら笑う。
「ああ、もうひと月半ほどで収穫の時期だと思って見に来たんだ。すぐに戻るつもりだったからな。だが老が掛けてきてくれたのだろう?」
片眉を上げておどけたように笑う青年に、プファルツは相好を崩す。
「はい。わたくしはそれくらいしかルードヴィヒさまのお役に立てませぬから」
限られた人間にしか見せない笑みに、プファルツは初めて出逢った頃を思い出す。
物心ついた頃にはもう既に刻み込まれていた心の傷で、最初の頃はまったく笑顔を拝顔することは出来なかった。この笑顔を引き出すのに随分苦労した記憶がある。
しかし、その痛み故に前国王の悔恨の念を断ち切ることを成し、そしていま狂瀾のこの局面を終局へと導こうとしているのもまた事実。
「何を言う。俺が子を成したときには老に教育をしてもらうと決めている。もちろんゾフィもだ」
「それまでこの身体が持つと良いのですがな」
「大丈夫、もうすぐだ。その頃には……」
果実畑の向こう側に広がる王都の町並みを見据えるルードヴィヒの、瞳の奥に宿した決然たる炎を見て取り、プファルツは頷いた。
「ええ、信じておりますぞ。ルードヴィヒさまは、わたくしがお教えした中で最も優秀な生徒でしたから」
「おい、褒めても何も出ないぞ」
「もちろん、一番の問題児でもありましたが。三人揃ってね」
プファルツの言葉に美しい顔を顰める様が可笑しく、更に悪戯心が加速する。
「そうそう、わたくしの名を借りたいと申し出てこられてすぐ、王都の酒場界隈で“隻眼のヴィル”という大層男前なる人物が噂になりだした時には、さすがのわたくしも心臓が壊れたかと思うほどの動悸が止まりませんでしたねえ。とうとうフランツ1世さまの下に召される時が来たのかと、本気で思いましたよ」
「あれは、その、知られると咎められると思ったが、知らせないで発覚すればもっと酷いことになると思ってだな……」
いつもの飄々憮然とした態から一変して気まずそうに視線を逸らす姿に、プファルツは高らかに笑い声を上げた。
ルードヴィヒが私室として使っている部屋は、随分昔にフランツ1世が王宮を改装した際に第二の私室として作らせた部屋だった。王族の住まう区域の中でも、普段は使う用途の少ない部屋を配置した通路を通り抜け、その先にある細い階段をひたすら最上階まで上り詰める。辿り着いたそこには、周りから隠されるように部屋が二つ存在する。王族の主要な私室としては若干手狭な部屋とその部屋の主を世話する者が控える雑務室。
「ヴィルヘルムの名で論文でも起稿して頂けるものかと思っておりましたが。いやはや、女性たちとの際どいお噂を耳に入れた時にはこの身が凍る思いがしましたねえ」
当初は、表に一切顔を出さないルードヴィヒが自身の姿を隠すためなのかと思ったものだが。ルードヴィヒがフランツ1世から引き継ぐようにその部屋を私室に選んだのには、それなりに理由があったのだ。
「そのような行動も、後に意味を持つものだと一言仰って頂ければよかったものを」
ルードヴィヒが私室に選んだその部屋には、地上へと続く階段が密かに隠されていた。その階段を抜けた扉の先は、ここラウフェン宮殿へと繋がっている。ルードヴィヒはそこからラウフェン宮殿へ、そして王都レドラスの街へと通っていたのだ。
以前にあの名を借りたいという申し出が、いまこの時のための伏線だったと知った時は、ルードヴィヒの私室を選んだ所以にプファルツはようやく溜飲の下げたものだ。
「昔のことを懐かしげに語るとは、老も耄碌したものだな」
「まあ、その人物の姿もフランツ王子の婚姻の話が出る頃には跡形も無く霧散しておりました故、わたくしも胸を撫で下ろしました」
正確には、その人物が姿を現さなくなったのはラヴィーナのソルライトの鉱山が発見された直後だという話だ。
「フランツ1世前国王から少しお伺いしておりますが、カレナ王女が件の姫君でございますね」
「ああ、フランツ王子は彼女以外の女性と婚姻する気がないらしい。なんとも我侭なものだろう」
自嘲気味に笑うルードヴィヒに、プファルツは少し慌てた様子で問う。
「で、ではこの婚姻が成立していなければ、フランツ王子は政に参加するおつもりが無かったと?」
彼が発した言葉が真実ならば、ルードヴィヒは必然的に王位継承権も放棄するということを表している。
この国では古より、婚姻を済ませなければ政に参加する資格を与えられない、という決まりごとがある。よってブルグミュラーの王族の婚姻は政治的意味合いの強いものが大半で、今回のフランツ王子の婚姻も表向きはその一つだ。
「カレナ王女との婚姻が成立しなければ、…………相手がカレナ王女でなければ、俺がこうして動くこともなかったのだろうな」
それは腐敗してゆくこの国を横目で眺めながらも、見て見ぬ振りを続けていくということか。自身の能力を十分に理解していながらも、ブルグミュラーの崩壊、ひいては自身の亡失に繋がる事由を静観し続けようとしていたというのか。
そんなプファルツの思考を知ってか否か、ルードヴィヒは気にせず続けた。
「これは完全に王子側の勝手な言い分だが、王位継承者としての本気の我侭を一つくらい押し通しても許されるだろう」
驚愕の事実を目の当たりにして、まだ事を成し得てはいないながらも、プファルツはルードヴィヒが事を起しているという今のこの現状に心から感謝した。
「発見されたラヴィーナのソルライトの鉱山には感謝しないといけませんな」
このノイゼス大陸の最小にして最弱国家であるラヴィーナの王女を、王太子妃として受け入れるという建前ができたのだから。
それでもその経緯は順風満帆とは言い難いものであった。事実、ブルグミュラーよりも先手を取って、王女には大陸で五本の指に入る大国ソールフィアからの婚姻の申し出があったと聞く。正妃でなく側室だという点でその縁談は流れたらしいが。ルードヴィヒの身の内の焦燥は幾ばくだったかと慮られる。
恐らくこの目の前に立つ美貌の青年は私室の階段を上手く使い、かつてないほど精力的に動いたのであろう。フェリクスとヴァルターを道連れに。
「ふっ、そうだな。だが、俺はこれが宿命だと思っているよ。例の先見の話ではないが。なあ、老もそう思わないか」
何の気負いも見せずに晴れがましく振り返る顔を見やり、プファルツは不思議な感覚に捕らわれる。
先見師の古代ゾルク語で語られた先見事も、神の申し子としてこの世に生を受けたのも、そしてラヴィーナの鉱山でソルライト石が発見されたのもすべて宿命。フランツ1世前国王の人生で唯一つの過ちも、カロリーネ・アンとカレナ王女の存在も、それがなければ今のルードヴィヒはいなかったであろうし、延いてはカレナ王女と歩む未来も、この国の安寧も、当の昔に夢まぼろしと消えていた筈だ。
奇跡というに程近い、あらゆる偶然の重なり。いや、偶然などではないのだろう。運命は自らの手で変えることは出来るものの、それらは振り切ることの出来ない宿命。すべては神の手の上。
先見師はここまですべてを知った上で告げられたのだろうか。
「では、これで手筈はすべて整いましたぞ。わたくしは、そのお姿をそろそろ表舞台で拝見したいものですが」
「いや、まだだ。まだ足りないものがあるんだ。老もそう急くと事を仕損じるぞ」
「わたくしには仕損じて困るようなものなど一つも残っておりませぬ。ですが、まあそう仰るならば爺は草葉の陰から静かに見守っておりましょう」
「はっはっ、すぐにそんなことも言っておれんくらい慌ただしくなるだろう」
快活に笑いながら言い放つ彼の瞳の奥には、数年前まで見え隠れしていた自虐の念が一切消えている。もう既にその瞳に映るのはこの先の未来の姿形であろう。
プファルツはそんな教え子の姿を誇らしく思いながら言葉を返した。
「そうですね。それでは再度、ゾフィーと共に書物庫に足を運ぶといたしましょう。いずれ御生まれになるルードヴィヒさまのお子さまのためにも」
「ああ、そうしておけ」
「ときにルードヴィヒさま、わたくし一番大切なことを忘れておりました」
「なんだ?」
「夕餉はこちらで召し上がるのか伺うようにと、ゾフィーに使いに出されておりました」
「なんだ、一番恐ろしい人物の使いを忘れるとは。やはり老は耄碌したなあ」
「そうでございますねえ。さっそく明日から書物庫通いでございますな」
「では、共にゾフィーのもとに夕食前の機嫌伺いに行こうではないか」
「畏まりました」
恭しく腰を折ってから頭を上げたプファルツの視線の先には、ルードヴィヒが見下ろしていた果実畑が一面に広がっている。
もう、あと少し。
これが収穫の時期を迎える頃にはきっと。
まだ見ぬ未来に思いを馳せ、プファルツは彼のあとを追うために踵を返した。