幕間 ヴァルターの回顧録 1
カレナの輿入れが決まる前のお話です。
国政議会に出席した父親である宰相の補佐として、そこで課せられた案件を含む膨大な書類の束を携えてラウフェン宮殿の部屋を訪れた時、居るべきはずの部屋の主の姿はそこになかった。
部屋の奥に備えられている主の机上には、今日の午前までに片付いていなければならない書類が、昨夜と同じ状態のままに放置されている。
その手前の主の机より若干簡素な机の上には赤茶の髪が、同じく山になっている書類の中に埋もれていた。耳を澄ますと健やかな規則正しい寝息が微かに聞こえてくる。
ヴァルターはその中性的で美しい顔を鬼のように歪めその机に近寄ると、おもむろに手にしていた大量の書類の束をその赤茶の頭目掛けて落下させた。それもかなり高い位置から。
「わああ!」
赤茶の髪の男は叫び声を上げながら飛び上がり、ヴァルターはそれを見て満面の笑みを張り付かせた。
「おや、リック。居たのかい?気が付かなかったよ。ところで、本日午前までに仕上げるようにと渡しておいた書類をくれるかい?」
寝起きのわりには瞬時に状況を悟ったのだろう、フェリクスはヴァルターの姿を視界に入れるなり顔を引き攣らせた。
「えっと、あの、あれは……」
「リック、俺は言わなかったかい?今日の午後一番には渡してくれと」
「ごめんなさい……」
「大至急取り掛かってくれ」
「はい」
ヴァルターの睨みに身体を萎縮させながらも、フェリクスは慌てた様子で昨日渡してある書類を紙の束の中から探し始めた。ヴァルターはそれを横目で見ながら、詰めなければならないもう一つの問題点を指摘した。
「ところで、もう一人の問題児はどこにいるんだい?」
この部屋の所有者である肝心の人物の所在をはっきりさせなければ、フェリクスの書類が出来上がったとしても決裁してもらうことができない。しかしその前に、フェリクスに宛がわれたものの軽く二倍以上はある、その人物が片付けなければならない書類がいまだ手付かずのまま残されている。
「え~と、たぶん寝室だと思うんだけどね……」
「たぶん?思う?」
曖昧な返答をするフェリクスに、綺麗な弧を描く眉のあいだに縦皺を刻みながら地を這うような低い声で問う。
「うぅ、だって昨日大量に飲まされて記憶がないんだもん。気がついたらこの部屋のソファで寝てたんだよ~」
「リックは二十歳にもなって自分の酒の限度もわからないのか?」
「だって、ルディが無理矢理飲ませるから……」
お目付け役として張り付かせたフェリクスの目を自分から逸らせるための工作だ。あらかじめ計算した上で、コプフスに時間を指定してフェリクスを迎えにでも来させたのだろう。しかもこれが過去に何度も似たような手口でまかり通っているのだから、フェリクスに学習能力がないのか、はたまたルードヴィヒが狡猾すぎるのか。
ヴァルターは眉根を寄せたまま盛大に嘆息した。
「それで、お前はどこまで記憶があるんだい?」
「う~ん、眠っちゃう直前くらいに綺麗なお姉さんがルディに熱い視線を送っていたから、たぶんそのお姉さんと……」
「またか……」
いつからだろうか。二つ年下の幼馴染であるルードヴィヒが身分を偽り、師と仰ぐ人物の名前を使い遊び歩くようになったのは。一応許可は取ってあると当の本人は主張しているが、それも怪しいものだ。使い方の説明など一切していないであろうことは、誰の目から見ても明らかだった。
酒場界隈に頻繁に顔を出し、大酒を飲み、賭場に出入りし、声をかけてくる女性の誘惑を受け入れる。まるで王宮での鬱憤を晴らすかのような遊び方である。王都レドラスの夜の街では、その容姿端麗な姿も相まってすっかり有名人になっている。
しかし、止めようにも四六時中張り付いているわけにもいかず、頻繁に執務を放棄して姿を消す主にヴァルターとフェリクスはほとほと困り果てていた。
何よりルードヴィヒの女遊びも賭け事も飲酒も、ルードヴィヒ自身の事や彼の周囲に対する屈折した思いからの発散であることは、ヴァルターも十分に理解している。王宮内での人間関係にも国政を左右する執務に関しても、大抵の事に無関心を決め込むルードヴィヒ。その彼が唯一、十九歳という年相応の顔ができるのがかなり限られた人物と状況であることも、痛いほどよくわかっているつもりだ。
それでも、彼はこの国の未来を担う尊き存在であるのだから。彼のさじ加減一つでこのブルグミュラーの将来が輝かしい光に包まれるか、それともこのまま暗闇の中に紛れてしまうのかが決まってくるのだ。
彼が事を起すために重い腰を上げるのを、ヴァルターとフェリクスは期待の念を込めて待ち構えている。恐らくプファルツも同じ思いだろう。そうでなければ、自身の名前を名乗らせることに理由を問わず快諾することなどあり得ない。
ヴァルターは室内にある扉の向こう側を見透かすように目を細め、そこへ向かって足を踏み出した。
と、その時、ヴァルターが見つめていたその扉が音を立てて開いた。
フェリクスの言うとおり、顔を出したのはこの部屋の主であり、ブルグミュラー唯一の王子であるフランツ・ルードヴィヒ・ブルグミュラーだった。
「ん~、いたのか?」
ルードヴィヒは部屋に広がる剣呑な雰囲気をものともせず、呑気に欠伸をしながら歩いてくる。
見ると、帰り着いてそのままの格好で眠りについたのか、簡素な衣服の首元はだらしなく開けられていて、そこから見える白い首元には赤い痕がちらほら見え隠れしている。それは、昨夜の出来事を推測させるには十分なものだった。
「いたのか、じゃない。昨日渡しておいた書類は今日の午前までだと言っておいた筈だが、どうなっているんだ。もういい加減リックを撒くのは止めてくれないかい」
「リックが勝手に酔いつぶれるのが悪い。それに、書類を今日の午前までに仕上げなくても国は潰れないさ。まあ、今から取り掛かるから待ってろ」
全く悪びれもせずに返してくるルードヴィヒに、ヴァルターは溜息を零すことしかできない。
「あたりまえだ。そんなことで国が潰れてたまるものか。あまり遊びが過ぎて子など生してくれないでくれよ」
「そんな失態、この俺がすると思うか?」
「では、下手な病気など貰ってこないでくれよ。ああ、そんなことより。大至急書類を仕上げてくれるかい。大至急だ」
「はいはい」
相変わらず国政などどうでもよいといわんばかりの態度には、さすがに温厚なヴァルターも怒鳴りつけたくなるのを我慢するのにかなりの努力を要する。
首をすくめ緩慢な動作で書類を探し出すルードヴィヒを見つめ、ヴァルターは再び大きく溜息を吐いた。
ルードヴィヒが父王に成り代わり国政を動かすようになってから数年が経つ。
先見師のお告げで神の申し子ともてはやされたテオドール国王に政治の才が皆無であることに気がついたのは、賢王として名高い前国王フランツ1世だった。その時はじめて、フランツ1世は先見師が告げたその言葉の解釈が大きく間違っていること知ったのだ。
“我の子”というのは国民を示す言葉ではなく、ルードヴィヒのことだったのだと。“我の子の父”即ち神の申し子ルードヴィヒの父という意味だったのだと。しかし時既に遅く、ルードヴィヒは全てにおいて心を閉ざした後だった。
そのころからフランツ1世はルードヴィヒに政の在り方を説き、国に関するあらゆることを学ばせた。
フランツ1世が崩御し、現在ではこうしてルードヴィヒが影でテオドールに成り代わり国政を動かしはしているが、決して表舞台に立とうという意思も、国をより良い道へと導く努力をしようという決意も垣間見ることができない。
フランツ1世の崩御後、貴族の一部が私腹を肥やす行為をしようが、領民を苦しめようが、最低限の規制しかしないルードヴィヒ。まるでこの国を手の上で転がしているかのように、良くも悪くも均衡を保ったままの状態で国政を動かしている。
ヴァルターもフェリクスも、ルードヴィヒが何かのきっかけで動きだすのではないかと、その何かを長いあいだ探し求めていた。しかし、それは暗闇の中で自身の影を見つけ出そうとするくらい難しく、いまだに見つけ出すことは出来ていない。
現状に甘んじることしか出来ないヴァルターは、歯痒い思いを押し殺して断固として公の場に姿を現そうとはしないルードヴィヒの代わりを務めてきた。しかし、蝕む傷が大きくなりすぎて、それもそろそろ限界が近い。
いままでの国の姿、そしてこれからの国の行く末を思い、ヴァルターが思考を巡らせたその時だった。
コツコツと、合図として示し合わせた規則正しい扉を叩く音が部屋に響き渡った。