深き混沌への導き 4
どれくらい時が経ったのだろう。
カレナは自身の手に何かが触れるくすぐったい感触で目を覚ました。
部屋の中は夕日に照らされ美しい茜色に染まっていて、カレナは自分がまどろんでしまっていたことに気がついた。
そして手の感触を思い出し、その原因に視線を向けた。
カレナの手に触れているのは、寝台から伸びた形の良い指先だった。
それが目に入った瞬間、カレナは急いで椅子から立ち上がり枕元を覗き込んだ。
「フランツさま!」
「カレナ、宮殿に帰ってからずっと付いていてくれたんだって?」
どこかいつもより弱々しく感じるフランツの声。表情も少し虚ろで気だるげだ。だが、十日近くも意識を失っていたのだからそれも当たり前だろう。
カレナはフランツを、飄々としているように見えて激しい感情を隠し、脆弱な印象は欠片も見受けられないのにどこか儚げな、捉えどころのない人物だと思っていた。なので、彼がこんなにも頼りなさげに見えるのは、カレナにとってはとても驚きだった。
「いえ、そんな…………でも、わたくしのせいでフランツさまは――――」
「昨夜体調を崩したと聞いたが、大丈夫なのかい?」
カレナの言葉を遮るようにカレナの頬に手を当ててフランツは尋ねた。
「それは…………わたくしは大丈夫です。フランツさまが守って下さったので。ですが、そのせいで……」
エルフリーダの側室の話を聞いて倒れたのだとは、やはりどうしても口にすることはできなかった。
そしてこんな姿にしてしまったのは自分のせいだと、改めて後悔と自虐の念が押し寄せる。
カレナはそれきり言葉を発することができずに、瞳に涙を溜めたまま押し黙った。
すると、フランツは寝具をめくり上体を起こすとカレナの腰に両腕を巻きつけ寝台に引き摺りこんだ。
「きゃっ、フ、フランツさま?!」
突然のことに驚いて身体を動かすカレナを自らの傍らに並んで寝かせ、フランツは胸元に強く抱き込んだ。
「カレナ、あんな状況で俺の身を案じてくれてありがとう。てっきり、俺のことなど嫌っているのだろうと思っていた」
「フランツさま……」
「カレナが無事で本当に良かった。今は…………こんなことしか言えないが、もう一度誓って言うよ。信じてほしい。俺はカレナを傷つけない。俺の大切な可愛いカレナ。君は俺が守るから……だから……もう少し待って…………」
最後は呟くような小さな声で、フランツの言葉はそこで途切れてしまった。
カレナが暴れたため無理をしたせいでまた気を失ってしまったのかと慌てて顔を覗き込んだが、カレナの心配を余所にフランツは静かな寝息を立てていた。
薬が効いているのだろう。フェリクスが、起きていられる時間が少ないと言っていたから。
カレナはホッと胸を撫で下ろし、再びフランツの胸元に自身の顔を押し当てた。
聞こえるのは規則正しい心音。
感じるのは温かな体温。
フランツはもう大丈夫なのだ。
しかし、いつまでもこうしている訳にはいかないだろう。いくら病に伏せているとはいえ、正式に婚姻を結ぶま
えの男女が同じ寝台で横になっているのを誰かに見られるのは避けた方が良い。
カレナはフランツの様子に心から安堵して、腕の中から抜け出そうと身体を起こした。
しかし、背中と腰に回っているフランツの腕の力は意外にも頑強で、ここから抜け出すことはどんなに努力してもできそうもなかった。
カレナは諦めて、そのままの体勢でフェリクスかヴァルターが来てくれるのを待つことにした。
薄い布一枚隔てた向こう側から聞こえてくる力強い鼓動は、カレナの波立った心を落ち着かせてくれる。
力強い腕の中に温かな安心感を覚える。
カレナはそのまま、先ほどのフランツとのやり取りを思い起こした。
カレナを大切だと言ったのは聞き間違いではないだろうか。
傷つけないと、守ると再び誓ってくれたのは夢ではないか。
だが、この耳で確かに聞いたのだ。
フランツの体温に包まれながら。
先ほどは自分のことを“僕”ではなく“俺”と言っていたフランツ。
あれがいつものフランツなのだろうか。
ようやく本当のフランツを少し垣間見ることができたのだろうか。
だとしたら、あの言葉も本物であってほしい。
今ならなんとなく理解できる。
なぜ、自分のせいでフランツが傷を負ってあんなに苦しかったのか。
なぜ、エルフリーダが側室に上がるという話を聞いてあれほど衝撃を受けたのか。
なぜ、フランツ自身の口からそれを聞くのが怖かったのか。
自分の心がどこに傾きかけているのかを。
カレナは温かい腕に包まれながら叶う筈もない願いを心の中で祈った。
どうか少しだけ―――――。
時間を止めて―――――。
もう少しだけこの温もりを感じていたいの――――――と。