深き混沌への導き 2
その時だった。
辺りに濃厚な花の香りが漂った。
アルトゥールとクララは同時に、香りの源を確かめようと同じ方向に顔を向けた。
「ごきげんよう。……あら、なんだかとんでもない場面にお邪魔してしまったのかしら」
毒々しいまでに鮮やかな深紅の唇から発せられた声音は、言葉とは裏腹に酷く楽しげに弾んでいた。
発せられた声から芳香の正体を悟ったカレナの脳裏に、以前向けられた憎悪の籠った眼差しが甦ってくる。そしてなにより、こんな状況を見られてしまったことがカレナの混乱に拍車をかけた。
「あなたは……」
不味い場面を見られてしまったとでもいうように、アルトゥールの顔から血の気が引いて、彼が辛うじて返した言葉はその一言だった。
しかしそんなことは一切気にする素振りを見せずに、突然の闖入者は妖艶な笑みを浮かべた。
「エルフリーダ・ブレッヘルトですわ。夜会や国事で何度かお目にかかったことがありますが、お話するのは初めてですね」
姿は見えずとも楽しげに話すエルフリーダは随分と機嫌が良い様子で、カレナはそれが逆に気味悪く思え、背筋に悪寒が走る。
「ええ……」
「でも、アーヘン公爵家の方がなぜこのような場所で、王子の婚姻相手の方とその侍女とご一緒されてるのかしら」
彼女はこの場の誰もが恐れていた、至極当たり前の疑問を口にした。
「それは……」
アルトゥールが口籠る。
正義感が強く信義に厚い彼の性格上、嘘を吐くことは得手ではないだろう。そうでなくてもこんな状況を誤魔化せる言い訳など、ここにいる誰もが咄嗟に思いつく筈もなかった。
「成婚の儀がまだとはいえ仮にも大国の王子の正妃になる方が、こんな場所でその国の次期公爵と密会なんて……。辺境の国出身の何も知らない方だと思っておりましたが、そういうことには随分長けていらっしゃるのね」
「いえ、違うんです!わたしが勝手にカレナさまに声をお掛けしただけで――――」
「隠さなくてもいいんですよ。カレナさまがそのおつもりなら、わたくしもかえって心が軽く
なりましたわ。これで心置きなく嫁いで来られますわ」
誰が―――。
どこに―――。
誰がどこに嫁いでくると―――。
「カレナさま」
名を呼ばれクララの腕の中から抜け出し顔を上げる。
この異様な空間の中で涙はとうに止まっていた。
カレナは涙を流しすぎて霞む瞳で、クララの肩越しに声の主へと視線を向けた。言葉の意味が理解出来ずに只々茫然と。
しかし交わった視線の先には心底楽しげに笑む、髪と同じ栗色美しい瞳がカレナを貫いていた。
そして深紅の唇は再び開かれた。
「カレナさま、わたくしがフランツさまの側室として後宮に入ることが正式に決まりましたの」
エルフリーダは何と言ったのだろう。
側室と言ったのだろうか。
そんな筈はない。
まだ正妃である自分との成婚の儀でさえも済んでいないのだから。
カレナの身体が再び震えだす。
「倒れる直前にフランツさま自らのお言葉で側近に言い渡されたそうですわ。まあ、あのようなことになってしまってフランツさまの周囲も混乱していたのでしょう。昨日になって父のところに打診がありましたの」
「そ、それは本当ですか?」
茫然とした様子で目を見開くカレナを気にする態なく話を続けるエルフリーダに、アルトゥールは当然の疑問を口にする。
「ええ」
「ですが、まだカレナさまとの成婚の儀さえも終わっていないのですよ」
「ふふっ、それだけカレナさまとの婚姻後の生活を重要視していないのではないですか。カレナさまとわたくしの立場の違いをはっきりさせる良い機会になりましたもの。わたくしは今この時で良かったと思いますわ」
そこまで言うと、エルフリーダはアルトゥールへと移動させていた視線を再びカレナへと戻した。
「今はフランツさまの意識も戻っていないので、表だってフランツさまのお部屋に行くことは出来ませんが、意識が戻ってフランツさまからの口からこのお話を正式に発表された後はわたくしも遠慮などしませんから、どうぞそのおつもりで」
「………………」
何か言おうにも言葉が出てこない。
何を言えばいいのだろう。
あれだけ放置されていて、フランツさまの正妃は自分だと声を大にして言える訳がなかった。
黙ったままのカレナにエルフリーダは満足気に微笑んだ。
「ねえ、カレナさま。わたくしが後宮に入ってしまえば、国同士の結びつきで婚姻した正妃など見向きもされなくなるかもしれませんわね。ああ、それでフランツさまが後宮に長い時間いることになっても、カレナさまにはちゃんとお相手がいらっしゃるから構いませんわよね。だってお互い様ですもの」
そこまで言うと、エルフリーダは浮かべた笑みをそのままに背を向けてその場を去って行った。
カレナは彼女が去って行った方向を見つめたまま動くことが出来なかった。
これがフランツの答えなのだろうか。
やはり所詮は国に決められた結婚だということなのだろうか。
あれほど見せた執着も、逃げられないための偽りの言動だったのだろうか。
そうでなければ、このような酷い仕打ちを行うことは出来ないだろう。
成婚の儀の直前に違う女性の後宮入りを決めるなど、正妃はあくまで飾りだと、真に愛を捧げるのは側室のほうだと言われているようなものだ。
カレナは今更ながらに自身の感情の変化に気がついた。
レドラスの街のあの出来事の最中に、フランツが見せた優しい眼差し。
カレナを庇ったあの行動。
ほんの僅かでも、そこにカレナへの愛情があると期待していたことに。
それがカレナ自身の望みだということに。
しかし、それは抱くことさえ愚かな叶わぬ希望だった。
自覚した微かな想いは、覚醒と同時に粉々に打ち砕かれたのだ。
「カレナさま、お分かりでしょう。あの話が真実ならば、あなたがフランツさまに義理立てする必要はないのですよ。わたしはカレナさまだけです。わたしでしたらあなたの望む愛をいつまででも差し上げることが――――」
「お止め下さい!!」
鋭い諌めの声が飛び、膝をついたまま一点を見つめ微動だにしないカレナを暖かな腕が包み込んだ。
「一介の侍女ごときわたくしが意見することを、どうかお許し下さい。……クロスさま、なぜそうも答えをお急ぎになるのですか?これは、一方が駄目だからもう片方を、というような簡単な問題ではございません。ましてやカレナさまは今、正常な判断が出来かねる状態でございます。これ以上カレナさまの心労を増やすことは、どうかお止め下さい。そして今日のところはお引き取り下さいませ」
カレナの肩を抱いたまま頭を伏せるクララの言葉に、アルトゥールは苦しそうに顔を歪めた。
「……申し訳ありません。これでは彼女と同じですね。今日はこれで失礼致します。お部屋までお送り出来ないので侍従を呼んで来ます。お二人ともそこでお待ちになっていて下さい」
そう言うと、アルトゥールは顔を伏せて足早に去って行った。
その後姿を見送り、クララは未だに呆然とするカレナを抱き寄せたまま口を開いた。
「……カレナさま、申し訳ございません。自分の力のなさを今日ほど恨んだことはございません。あなたさまを守ることが出来なかったこのクララを、どうかお許し下さいませ」
「………………いいの」
クララの声に弱々しく反応を示したカレナは、その後腕の中を抜け出し力の入らない足でよろめきながら立ち上がった。
とにかく自室に戻りたかった。
誰の目も届かない場所で一人になりたかった。
そう、寝台に横になりそのままずっと目を覚まさないでいられたら。
そう出来たのなら、どんなにか楽だろう。
今はすべての煩わしいことから目を背けたい。
「わたしは…だ……じょ…ぶ…………」
「カレナさま!?」
震える足で一歩踏み出した筈だった。
視界が歪んで見えるのは気のせいだろうか。
地に足をつけている感覚が朧げになり、カレナの意識はそのまま混沌とした闇の中へと堕ちていった