深き混沌への導き 1
カレナはその日、園丁に了承を得て朝から庭園の花を摘んでいた。
フランツが倒れて三日、それ以来毎日の日課になっていた。
あの日、フランツの状態を認識して取り乱してしまったカレナは、王宮医の処方した薬を飲まされ自室へと運ばれた。
だが、そのことはカレナの記憶には一切残っていなかった。
レドラスの街からどのように帰ってきたのかも、王宮に戻ってからフランツの部屋いたことも、カレナは全く憶えていなかった。すべてフェリクスとクララが話して聞かせたことだった。
フランツを襲ったあの刃は毒薬を塗布したもので、腕を掠めただけだったのが幸いしてすぐに命を落とす危険からは免れたという。
しかし、あれからフランツが意識を取り戻す気配は微塵もなく、それどころか体中から玉のような汗をかき呼吸は乱れ荒い息を吐き続けていた。そして、今も危険な状態は続いている。
カレナはあの日から毎日欠かすことなく、フランツの部屋へと通っていた。
荒い呼吸を繰り返すフランツの手を握り、汗を拭き、時には名を呼び、そうして一日を過ごしている。
カレナには自分のその行為が罪悪感からくるものなのか、それとも別の感情からなのか、自分でも量りかねていた。
もちろん、カレナを庇って倒れたフランツに対しての自責の念や、アルトゥールとの出来事からの罪の意識を感じているのは確かだ。それでも、カレナを毎日フランツの部屋へと足を運ばせるのは、別の感情からくるもののような気がしてならない。
しかし、それがいったい何なのかはカレナにはわからなかった。
彼の姿を目にした時の胸の高鳴りや、口付けられたり抱き締められたりした時のあの理解できない感情はどこからくるものなのか。アルトゥールと共有する時間では感じられなかったもの、その違いは何なのか。そしてその逆も。
しかし、その問いはどんなに考えても答えを導き出すことはできなかった。
アルトゥールとのことをフランツに知られているとわかったとき、カレナは心の底から恐怖を感じた。だが今思い返すと、それはフランツに糾弾されるかもしれないという恐怖ではなく、アルトゥールとの関係をどのように捉えられるのだろうという不安からくるものだった気がしてならない。
なぜ自分などを庇ったのだろう。
婚姻相手の目を欺き他の男と密会を重ねていた自分を。
なぜこんなにも苦しいのだろう。
フランツが倒れてから治まることのない胸の痛み。
フランツが永遠にこの世から消え去ってしまうかもしれないという不安と恐怖。
最後に抱き締められたその腕の感触が、まだ身体に残っている。
今はただ、目を覚まして欲しい、あの優しげな眼差しをもう一度自分に向けて欲しい、という想いだけだった。
カレナがフランツのことを考えながら、故郷に咲いていたヴィースヴァルドに似た白い小さな花を花鋏で切っている時だった。
「カレナさま」
汚れも厭わず地面に座り込んで一心に花を切っていたカレナは、聞き覚えのある声にびくりと身体を揺らした。
意を決してゆっくりと声のした方へと振り返ると、少し離れたところに佇むアルトゥールの姿があった。
数日前に顔を合わせた筈なのに、長いあいだ会っていなかったかのように遠く感じられるのは、フランツが倒れて以降アルトゥールのことを思い出す心の余裕がなかったからだろうか。
「戻って来たの?」
弱々しく発せられたカレナの言葉に、アルトゥールはカレナとの距離を縮めてすぐ傍まで来ると片足を地に付け腰を低く落とした。
「はい。フランツさまの件を聞き、祖父は昨日、わたくしはたった今戻って参りました」
「そう……」
カレナはそれ以上言葉を発することが出来ず、再びアルトゥールから視線を外し、花鋏を動かし始めた。
しかし、アルトゥールはその手を優しく抑え込むように上から握りしめた。
「カレナさま、こちらを発つ前に申し上げた件はお考え頂けましたでしょうか」
数日前と変わらない穏やかな声音が、カレナを陰鬱な気分へと落していく。手の甲に感じられる彼の熱が、伝染するかのように移ってくるその感覚が、カレナを落ち着かない気分にさせる。あれほど心地よく思えたアルトゥールとの空間を、今は違和感しか感じることができなかった。
「……今それを聞くの?」
「今だからこそ、あなたの本当の声が聞けるのでは」
掴まれた手が震えだす。
なぜ自分はここにいるのだろう。
幸せとは言えないまでも、どの国でも行われている王族同士の婚姻を結ぶためにこの国に来た筈なのに。
自分は何を間違えてしまったのだろうか。
何をしなければならなかったのだろうか。
そう考え始めると、思考は勝手に先へと歩みを進める。
僅かでも抱くことを許されない危険な疑問。
ずっと避けてきた最後の結論。
それは、そもそもこの婚姻はするべきではなかったのではないだろうか、というものだった。
目頭が発熱するように徐々に熱くなる。
「離して!」
重ねられる手を振りほどき、カレナは花鋏を手から離して勢い良く立ちあがると、目の前で恭しく膝を折る男に綺麗に切り揃えられた白い花の束を投げつけた。
小さな可憐な花が宙を舞う。
衝撃に耐えかねた花弁が辺り一面を覆っていく。
そして見降ろしながらカレナは震える口を開いた。
「あなたもフランツさまもわたしに何を求めているの!なぜ、あなたもフランツさまもわたしをそっとしておいてくれないの!お願いだから、わたしの心を乱さないで!」
一気に捲くし立てた後、溢れ出る涙を止めることが出来ずカレナは両手で顔を覆った。
アルトゥールとのことでのフランツへの罪悪感、愛のない執着からの不安と恐怖、怪我をさせてしまったことへの自己嫌悪、そしてアルトゥールの申し出に対する戸惑い、状況を選ばず決断を迫ることへの怒り。
それらの様々な負の感情がカレナを支配して心の均衡を奪っていく。
こんな筈ではなかった。
愛し合うことは出来なくても夫となる人に身を捧げ、祖国のため、国同士の繋がりのために、平穏とはいかないまでも、どの国でも普通に行われている王族同士の婚姻を結ぶ筈だったのに。
立っていることが出来ずに顔を覆ったまま崩れるカレナに、咄嗟にアルトゥールは手を伸ばしかけた。だが、カレナの激高した声を聞き庭園の中へと駆けて来たのであろう人物がそれを阻んだ。
「カレナさまっ!」
アルトゥールからカレナを守るために飛び込んできたクララは、崩れるカレナを隠すように自身の身体に抱き込んだ。
そして、顔を覆い小刻みに震えるカレナの頭を優しく撫でる。
第三者の介入にアルトゥールは伸ばしかけた手を戻し、そのまま目の前の二人を瞬きもせず見つめていた。
しばらくして若干落ち着きを取り戻したのか、クララの胸元に頭を預けてカレナはか細い声で独り言のように呟いた。
「なぜ、こんなことになってしまったのかしら。わたしはここに来るべきではなかったのかもしれないわ。わたし……こんなに弱くなかったのよ。強くて賢い王女だって評判だったのよ……」
遊び相手が兄と弟だったせいか昔からどちらかというと男勝りで、男性に惑わされることも振り回されることも皆無だった。王族として弱い姿を見せないようにと、心を強く保とうと努力し続けてきた。
今回の婚姻でも、大国の次期国王となるべき人の傍に立ち、何事にも動じず静かに穏やかに時を重ねていくつもりだった。ある意味、婚姻が自分にとっての終点とも思っていた。
たとえ真実の愛が得られなくても、夫となる人のために自身の責務を全うさせようと覚悟して来たのだ。それが出来る強さが自分にはあると信じてもいた。
何よりも、腹立たしいのは自分自身。
フランツとの婚姻とアルトゥールの好意を天秤に掛けるような行為をした自分自身が許せない。確固たる信念を持ってこの国の地に足を着けたつもりだった。それなのに、それぞれ何かを求める二人の男に心を乱され、何か大切なことを見誤っている気がする。
流れ続ける涙を拭うこともせず、どこか遠くを見つめる眼差しで弱々しく声を発するカレナはラヴィーナにいた頃の姿とは遠くかけ離れている。
そのあまりにも痛々しい姿にクララは抱き締める腕の力を少しだけ強めた。そして、散乱した白い花の中央に今なお跪く男に顔を向ける。
「クロスさま。フランツさまがあのようなことになり、カレナさまは大変お心を痛めておいでです。申し訳ございませんが、当分のあいだカレナさまにお会いになるのを控えて頂きます」
有無を言わさぬクララの言葉に、アルトゥールは黙ったまま静かに立ち上がり二人に背を向けた。