零れ落ちる欠片 4
どのくらいそうしていただろう。
ほんの僅かに小さくなった周りの音に、カレナは視界を隠していた手を下ろしゆっくりと目を開けた。
と同時に、酷い痛みを伴うほどの強い力で腕を掴まれ引っ張られる。
目の前に飛び込んできたのは、先ほどフランツとやり取りしていた体格の良い男の、背筋も凍るような笑みだった。
声を上げようにも、喉の奥が張り付いたように動かない。
手を振り払おうにも、恐怖に竦んで力が入らない。
そんなカレナを、男は嫌らしい目つきで上から下まで眺めると、次にカレナの身体を抱き込もうともう片方の腕を伸ばしてきた。
あと僅かで男の腕がカレナのドレスに触れようとするその手前で、男は急に身体を強張らせ崩れ落ちた。
「カレナ、こっちにいてくれる?」
男が倒れたその向こう側には、フランツが先刻と変わりのない優しい笑みで手を差し出していた。
その姿を目にした途端、カレナの瞳が潤みだす。
フランツはそんなカレナの手を優しく引き寄せて、突き当たりの角へと連れて行った。
「もう少しだから、いい子で待ってるんだよ」
そう言って、フランツはカレナの頭の天辺に唇を落としてから目の前に背を向けて立った。
フランツの笑みがまるで精神安定剤のように心の中に染み渡る。
混乱していた頭が徐々に平静を取り戻していく。
自分がこの状況で役に立つことは一切ないだろう。
ならばせめて足手まといにならないようにしなければ。
カレナは心を落ち着けようと深呼吸を数回した後、現状を把握しようと辺りを見回した。
フランツの簡素な服は若干汚れてはいたもののそれ以外は見当たらず、傷を負ってはいないことが確認できる。
カレナは小さく安堵の溜息を漏らした。
フランツの少し向こうには地に伏した数人の男たち、フェリクスとゲルトが剣で応戦する姿、そしてナイフを投げながら剣に対抗している小柄な男が見える。
カレナが冷静さを取り戻しているあいだにも、男たちはフランツに剣を向けて襲い掛かっている。
驚くことに、フランツはそれをまるで重さを感じさせないしなやかな動きで避け、次の瞬間には素早い動きで自身の剣を繰り出している。
剣術は学んでいないと聞いていたのに。
そんな噂は滑稽であると言わんばかりの鮮やかな剣捌きに、カレナは状況も忘れしばし呆然とその姿を目で追いかけた。
向かってきた一人を地に這わせたところで、後ろにいた男三人が同時にフランツに襲い掛かる。
その時だった。
後方を庇いながら応戦するフランツを見つめ続けていたカレナの視界に、頭上から一筋の光が飛び込んできた。
前方で剣を振るうフランツではなく、方向からして明らかにカレナに向けて飛んできているのは瞬時に理解できた。しかし、頭では理解できても光の速度が速すぎて身体を動かすことができない。
「カレナ!」
徐々に迫ってくる鋭い輝きを目で追うカレナに、前方から切迫した声が響く。
その瞬間、カレナは手を引かれてフランツの胸の中に庇われる。
飛び込んできた光は、何かに弾かれフランツの簡素な服を少しだけ切り裂き、カレナの斜め後ろに着地した。見ると、それは鋭く綺麗に磨かれた小さなナイフだった。
「フランツさま!」
ナイフが掠めたフランツの腕から血が滲み出し、瞬く間に布地に小さな染みが広がっていく。
「大丈夫だよ。掠り傷だから」
カレナを離し再び前方の男たちに向き合いながら答えるフランツの声が、少し強張って聞こえるのは気のせいなのだろうか。
そう思っているうちに、フランツは最後まで残っていた男の腹部を切りつけて崩れるのを見届けると、剣の血を拭い後ろを振り返った。
こちらを見つめるその顔は血の気を失くし青白かった。
普段、病弱だと主張する顔色は血の通っている白さだったはず。
しかし今はどうだろう。この状態で病弱だと言われれば瞬時に納得してしまいそうなほどに、振り返ったその顔からは血の気が失せている。
「フランツさま?」
呼びかけるカレナに、フランツは先ほどと同じ笑みを見せるとカレナの身体を抱き締めた。
「怪我はしてない?」
「はい。フランツさまが守って下さいましたから。……フランツさま?」
カレナの身体を抱き締めるフランツの身体が徐々に重くなっていく。
訝しく思い名を呼ぶカレナの声にも反応する気配はない。
そしてぐらりと身体が揺れる。
崩れるフランツの身体を咄嗟に抱え込み、カレナの身体はフランツと共に地面へと倒れ込んだ。
「フランツさま?」
座り込むカレナの太腿の上に覆い被さるようにしてフランツが倒れている。
カレナの頭は混乱を極めていて、名を呼ぶことしかできない。
それでも、震える手でフランツの頬を包み、その後肩を軽く揺する。
「フランツさま?」
何度呼びかけてもフランツは答えない。
それどころか、その美しい横顔はぴくりとも動かない。
ブルーグレイの瞳は色を見せずに閉じられたままだった。
それでもカレナはフランツの肩を揺すり続けた。
「フランツさま」
フランツからの返事は期待できないと頭の中では理解できたが、それでも諦めきれず名を呼び続ける。
名前を呼んで欲しい。
先ほどの優しい微笑みをもう一度見たい。
輝くブルーグレイの瞳を見たい。
そんな思いで、カレナはフランツの身体を揺すりながら声を掛け続けた。
すべてを終えたフェリクスとゲルトが駆け寄ってくる。
ゲルトがフランツの首筋に触れ、何かを確認している。
フェリクスが労わるようにカレナの肩に触れる。
一切反応を示さないフランツに、カレナの頭はようやく正常に動き出した。
身体が震える。
鳥肌が立つ。
何かが胸の奥から込み上げる。
青白いフランツの顔がカレナの脳裏に刻み込まれた、その時。
「い、いやああああああ!」
人が何人も倒れ血の臭いが充満している異様な空間に、カレナの声が響き渡った。