雲間に瞬く星の囁き 4
どうしても書庫へと足を運ぶことに気が進まず、カレナは一日を自室で過ごそうと朝起きたときから決めていた。
カレナはバルコニーに椅子を移動させ、そこから眼下に広がる庭園とその先に連なる山々の景色を見るともなしに眺めていた。しかし普段ならばカレナの疲れた心を多少なりとも癒してくれるその美しい景色も、今は何の感慨も浮かんではこない。
原因はわかっていた。
昨日のアルトゥールとの会話だ。
出会った時から見え隠れしていたアルトゥールの瞳の奥に潜む炎を、カレナは気が付いていながらも見て見ぬ振りをしてきたのだ。アルトゥールの態度は慇懃で、カレナの立場を理解した上で一線を画してくれているのだと思い込んでいた。
しかし、それは間違いだったのだ。
婚姻相手のフランツと心を通わせることが出来ず、自国から連れてきたクララしか心を開くことができる相手がいないのだということに、カレナは抱えきれない寂寥感を抱いていた。その心の隙間を埋めるために、アルトゥールを利用してしまったのだ。
カレナは自分の狡さに嫌悪感が込み上げる。
カレナの情夫になりたいと申し出たアルトゥールの表情が脳裏を過ぎる。成婚の儀が終わって正式にカレナとフランツの婚姻が認められても、それでもカレナとの時間を持ちたいと言った。
そんなことが、本当にこの国ではまかり通るものなのだろうか。ラヴィーナの常識で育ってきたカレナには到底理解できることではない。それでもアルトゥールの鮮やかなブルーの瞳が、彼の言葉に嘘偽りのないことを真摯に物語っていた。
正妃の情夫になるということがどんなに道理や常識から逸脱したことなのか、アルトゥールは全てを理解した上で申し出たのだろう。アルトゥールの言う“黙認”というものがどの程度のものなのかは予想もつかないが、もしかしたらこの国でのクロス家という公爵家自体の存在が危うくなるかもしれないのだ。
カレナの何が彼をそうさせたのかは、カレナ自身でも全くわからない。自分自身にそこまで魅力があるとは思えないだ。実際に夜会で目にしたこの国の女性たちは、透き通るように白い肌を持ち細く可憐で、カレナよりも遥かに美しいと思える女性が大勢いた筈だ。そういった女性を差し置いて背負うものの多いカレナを選ぶなど、酔狂としか思えない。
カレナは眼前に広がる緑豊かな景色を眺めながら大きな溜息をこぼした。
もう何も考えたくはなかった。
フランツとの婚姻も、アルトゥールとの関係の行方も、今だけは忘れてしまいたい。
カレナはそう思いながら、椅子に深く腰掛けた体勢のまま静かに目を閉じた。
「……カレナさま……カレナさま、お目覚めください。このようなところでお眠りになっては、お身体を壊してしまいますよ」
「……ん」
緩く身体を揺すられる感覚にゆっくりと目を開けたカレナの視界に、眉尻を下げ情けない顔をしたクララの姿が飛び込んできた。
「ん……わたし、寝てしまったのね」
「はい。いくら日差しが暖かだとはいえ、風はかなり冷たくなってきております。大切なお身体なのですから、風邪などひいてしまっては大変ですよ」
「……そうね」
クララの言葉に、いっそこのままずっと臥せってしまえたらいいのにと思いながら、椅子から立ち上がりカレナは自嘲気味に返す。
「カレナさま」
先ほどとは異なった真剣味を帯びた力強い呼びかけに、カレナは我に返って目の前に立つ侍女に目を向ける。そこにはいつになく険しい顔をしたクララがこちらを見据えていた。
「わたくしでは不満ですか?」
「え……」
「わたくしではカレナさまのお力になれることはないとお思いですか?」
「クララ?」
「何年の付き合いになるとお思いですか。カレナさまが思い悩んでらっしゃることくらい見ればわかっておりました。それでもいずれお話し下さると思っておりましたから、今日まで何も言わずにおりました。ですが、それも限界のようですわ」
「クララ、わたしは―――――」
「内に秘めてらっしゃることを吐き出せば、少しは気分も変わります。カレナさまはお強いようでいて、実はちょっとしたことで一人思い悩むという悪い癖がおありでしょう?王族なのだからもう少し高慢でもよろしいのにと、以前からそう思っておりました。まあ、それがカレナさまの良いところでもあるのですが」
もはやクララの表情にさきほどの険しさは消え、晴れやかな笑顔がカレナを包み込む。そんなクララの笑顔をカレナは呆然と眺めた。
「わかってらっしゃるとは思いますが、再度申し上げておきます。おこがましいこと極まりないですが、わたくしはカレナさまの侍女であり、友人であり、そして姉でありたいと思っております。わたくしは何があっても、カレナさまの味方です」
心配させたくないと、良かれと思って黙っていたのに、逆にそれが裏目に出てしまったようだ。なぜクララに隠し事などしようと思ったのだろう。なぜ自分は心を開ける相手がクララだけでは不満だと思ったのだろう。こんなにも自分を理解してくれている人物などいないだろうに。
カレナの目尻にじわりと涙が浮かぶ。
「ごめんなさい。決してクララのことを信頼していないからとかじゃないのよ」
「わかっておりますわ。でも、わたくしの仕事の中にはカレナさまの心のお世話も含まれておりますよ。カレナさまが悩んでいらっしゃるならわたくしも一緒に悩んで、そのお心を少しでも軽くして差し上げられたらと、常日頃から思っているということを憶えておいて下さいませね」
「ありがとう……」
涙ぐむカレナの手を包み込み、クララは部屋の中心に備え付けられている長椅子へと導いた。
「さあ、カレナさま。まずはお茶でも召し上がってお身体を温めて下さいな」
クララはそう言って、茶の仕度をするために晴れやかな笑顔で部屋の外へと出て行った。
カレナはその姿を見送りながら、クララが自分付きの侍女であることを心の底から感謝した。