雲間に瞬く星の囁き 2
ブルグミュラーの国政は論ずるべき議題が多く重なり、連日長時間の議会が開かれていた。フランツはその議会に怠慢な態度を隠しもせずに臨んでいると言っていたのは、たまたま書庫へと向かう通路の途中で井戸端会議を開いていた侍女たちだった。
カレナは議会が開かれているその時間を、書庫で過ごすことが日課となって既に三日が過ぎていた。
もちろん婚姻相手であるフランツが確実に留守にするその時間に、他の男性と時間を共有することに後ろめたさを感じないわけではない。
しかし、この国にやってきて初めて心穏やかに過ごせる時間は、一滴の清涼剤のように確実にカレナの沈んだ心を浮上させた。
アルトゥールは初対面の時と同様に常に紳士的で、あれ以来カレナの私事に関する話題を口にすることはなかった。大抵が話題の中心はこの国に纏わることで、とても元騎士だと思えないほどの博学さでカレナにブルグミュラーの歴史や習慣等を話して聞かせた。
書庫での時間が当初の目的と入れ替わり、アルトゥールとの語らいを楽しみに足を運んでいるということに、カレナは自分自身で気がついていた。それでも、アルトゥールが一定の距離感を保って接してくれているという安心感が、カレナの足を書庫へと向かわせる原因の一つとなっていた。
「カレナさま、明日からの四日間は議会が開催されません。わたくしも祖父の側役として領地へ赴かなければなりません。カレナさまのお顔を拝見できなくて残念ですが」
議会が終了する少し前になり、アルトゥールは普段と同様の微笑みを浮かべながら切り出した。
「……そうなの。寂しくなるわ。どうやって昼の時間を過ごそうかしら」
「ええ、わたくしもです。しかし、カレナさまはフランツさまとお会いになるのでは」
「どうかしら……。来ない可能性の方が高いような気もするけれど」
今までの経験からして、議会が開かれない程度のことでフランツがカレナのもとを訪れることは決してないだろう。
卑屈にならないように、カレナは笑みを浮かべてアルトゥールの質問に答えた。
そんなカレナを見て、アルトゥールは笑みを消し去り真剣な眼差しでカレナを見つめた。
「カレナさま。わたくしは最初この書庫でお目にかかった時、さも偶然にお会いしたような発言を致しました。ですが、申し訳ございません。わたくしはあなたがこちらにいらっしゃることを知っておりました」
「……どういうこと?」
「フランツさまとカレナさまの話は小耳に挟んで存じておりました。そして、お会いする二日前に書庫に入っていくカレナさまをお見かけしたのです。その翌日もその次の日も、書庫に入っていかれるカレナさまを拝見しておりました」
「話って……」
「はい。フランツさまとカレナさまの仲が上手くいっていないのではないかと」
「そんな噂が王宮中に広まっているのかしら。でも真実とは言い難いわ。だって上手くいく以前に、お会いしたことが数えるくらいしかないのだから」
カレナは自分とフランツの関係を思い、自嘲気味に笑った。
「カレナさま、なぜわたくしが偶然に出会ったかのような発言をしたかおわかりですか?」
「……………」
それは、考えることを避けてきた核心をついた問いかけだった。アルトゥールの目をまっすぐ見返すことが出来ずに、カレナは下を向いた。
カレナの沈黙にアルトゥールは席を立ち、カレナの真横まで移動した後片膝を床に付き、背筋を伸ばしてまっすぐに見つめてくる。
「婚約の儀が終わり誰もが幸せだと実感できるであろう時期だというのに、カレナさまは連日書庫に通っておいででした。そしてそのお顔は憂いを含んでいた。婚約の儀でカレナさまのお姿に感動したということはお伝えしてありましたね。書庫に出入りするカレナさまのお顔を拝見した時から、わたくしの心の中にはあなたのその憂いを拭い去って差し上げたいという欲望が生まれたのです。その想いは徐々に量を増し、ついには三日後に器から溢れかえるほどになってしまいました」
「アルトゥール、わたしは……」
「十分わかっているつもりでございます。あなたの全てが欲しいとは申しません。ですが、今のような議会のある時間だけで構いません。こうして二人だけでお会いできる時間をこれから先もずっと、わたくしが望んでいると言ったらあなたはどうしますか?」
「それは……」
「すぐに結論を出して頂かなくても結構です。ですが、これだけはお伝えしておきたいのです。わたくしはこの三日間カレナさまと語り、共に時間を過ごして確信致しました。カレナさまは愛されるべき存在なのだと。フランツさまがそれを放棄なさるのならば、わたくしにその役目を譲って頂きたいと思っております」
「あなたはいずれ再び家のために婚姻を結ぶのでしょう?その時が来たら、またわたしは独りになってしまう。それだったら最初から何もいらないわ」
「わたくしには既に跡を継ぐ資格のある弟も息子もおります。この先一生を添い遂げる相手を無理に作る必要はもはやございません。そして付け加えるべきは、先代王妃にもその二代前の王妃にも情夫と呼ばれる者が存在したということです。この国では側室を大勢娶る国王と同様に、子さえ生さなければ王妃の情夫も暗黙の了解で黙認されております」
「情夫……。あなたは、わたしの情夫になると言うの?そのようなこと軽々しく口にするものではないわ」
「出会ってたかだか三日でとお思いになられますか?それでも、婚約の儀でカレナさまをひと目見た瞬間から、わたくしの心はカレナさま以外には向けられなくなってしまった。あなたのその姿、言葉のひとつひとつがわたくしを狂わせるのです。この三日間わたくしがどのような思いでここに通ったか、あなたには届いていないのでしょうか」
あのように秘めたる何かを滲ませた視線で見つめられれば、気がつかないわけはない。
それでも、それを見えない振りをし続け自分の都合の良いように捉えていたのはカレナ自身だった。
ただ単に、時間を潰すという共通の目的を持っているだけだと。共に時間を過ごすことに何ら意味など存在しないのだと。アルトゥール瞳の奥に映る炎は、自分の勝手な思い込みなのだと。
そうであって欲しいと心のどこかで願っていた。それが間違っていることなど、出会った時から気が付いていたというのに。
アルトゥールは書物の縁を握り締めているカレナの手を、まるで壊れ物に触れるかのよう優しく引き寄せると、その細い指先に羽のような口付けを落とした。
「カレナさま。あなたの心が欲しいのです。わたくしの身も心も捧げます。どうかわたくしを受け入れて下さい」
普段は王宮に響き渡る美しい鐘の音が、今は遥か遠くに聞こえる。
カレナは議会の終了を告げる鐘の音をおぼろげに聞きながら、呆然とアルトゥールを見下ろした。