眠れる獅子目覚めるとき 1
ふと人の気配を感じて目を開けた先に映ったのは、美しい彫刻の施された天井だった。目を凝らしてみると、どうやら天蓋の内側のようだ。
現状が理解できない。
静かに身体を起こすと天蓋から垂らされた煌びやかな薄布の向こう側に、こちらに向かって歩み寄る女性と思われる柔らかな曲線を描いた人影が見えた。
「カレナさま、気が付かれましたか?」
いまだ頭の中に靄がかかった様な感覚がする。
視界が揺れる。
返事がないのを不思議に思ったのか、女性が薄布の端を引いて顔を出した。
「カレナさま?」
「……えっと?」
何も考えることが出来ずに思いつくままを小さい声で発すると、目を見開かれた後に肩を掴まれ、これでもかというほど近くで覗き込まれる。
「大丈夫ですか?!クララですよ!これ何本に見えますか?」
クララは言いながら指を二本立てた。
「クララ……クララかぁ……、あっ、二本」
「大丈夫ですか、カレナさま?」
「ええ、なんだか夢を見ていたみたいだわ。あぁ~、よく寝た」
どのような夢を見ていたのだろう。
楽しかった気がする。
でも悲しかった気もする。
まったく覚えていなかったが、目覚めが気持ち良いものではないのだから良い夢だとは言い難いだろう。
身体を起こしのんびりと背伸びをすると、横からクララのけたたましい声が耳に轟いた。
「よく寝たじゃありません!わたくしがどれだけ心配したことか!お庭に倒れていたのですから。だから言ったじゃありませんか。このような寒さで尚且つこんな強風のなかお庭に出てはいけませんと。大切なお身体なのにカレナさまときたら……」
「わたし、倒れていたの?」
カレナにしてみれば倒れていた事などまったく記憶に残っていなかった。なぜ憶えていないのかさえもわからない。
置かれている現状に対しての様々な葛藤が心の中に鬱積しているのは、カレナ自身もわかっていた。それを少しでも紛らわせるため庭園に足を運んだところまでは辛うじて記憶残っていた。
「ごめんなさい。なんだか一人で部屋に閉じ篭っていたら色々考えてしまって。気分転換にね」
クララが侍女になって六年。従事に長けた年配が多い侍女の中で唯一の同年代の侍女で、カレナにとっては気兼ねなく何でも話せる数少ない侍女だ。今回もカレナのために生まれ育った国を出る決意をし、こうして付き従ってくれているのだ。心から案じてくれているのは重々承知している。
『騎士の育成同様に侍女や侍従の教育には心血を注いでおりますゆえ、王女殿下におかれましては御身一つで………』
余計な者は連れて来るなとの遠まわしの警告。
あきらかに祖国とカレナ自身を蔑んだ使者の言葉を思い出す。それを耳にした時は怒りに身体の震えが治まらなかった。それでも、この先自身が身を投じる状況を冷静に考慮し、その怒りを心の奥底に閉じ込めたのだった。
「……そんなにお嫌なら断ることは出来なかったんでしょうか」
クララが暗い表情で小さく呟く。
父王が使者の言葉を聞きながらも陳情を願い出て、そして付き従うことが許された侍女の数は一人。それがこのクララだった。
「とうに覚悟していたわ。王族に生まれた以上こんな日が来ることは」
政略結婚など王族にとっては当たり前。ましてや相手はこの大陸一の軍事大国。片や、その国の国土の三分の一にも満たない程の小さな国の王女。断ることなど出来る筈もない。
もし仮にこの婚姻を断ったところで、国の状況を考えればどの道どこかの王族と婚姻を結ぶしかカレナに残された道は残っていないのだから。
これが自分の歩むべき道だったのだ。
運命に定められていたのだ。
そう自身に言い聞かせても、カレナの心は一向に晴れる気配を見せなかった。
ノイゼス大陸に数多ある国の中でも広大な国土と大陸一の軍事力を併せ持つ大国、ブルグミュラー。
古くは農業国として栄え、一日の日照時間も長く年間の雨量も豊富なこの土地は、今でも眩しいほどの緑豊かな大地が国中に広がっている。大陸一の強さを誇る現在の騎士団も農民の自警団が発祥だといわれており、カレナの祖国ラヴィーナ同様の専制君主制である国家が、自警団の管理から始まり騎士団へと変化していったという。
その国唯一の王子であるフランツとラヴィーナの第二王女カレナの婚姻が決まったのは二ヶ月ほど前。
大国ブルグミュラーの国王直々の申し入れに、後ろ盾の欲しかった父王は嬉々としてこの話に承諾に意を示した。
近年、ソルライトという高価で希少価値の高い宝石の大規模な原石鉱山が発見されたラヴィーナ。その国の王であるカレナの父は、莫大な国財を生む鉱山と国を守るために必要な軍事力が自国に乏しいことに頭を悩ませていた。
ラヴィーナはソルライトの鉱山の恩恵を受け、わずか数年間で急激な成長を遂げていた。しかし、その鉱山を狙っている他国からの侵略の危険性もそれに比例して高くなっていった。
ラヴィーナは争いを好まない穏やかな世界最小国家だ。対外的に宣言していなくても、世界認識は中立国である。大陸の南端にあり、年中暑い日差しが照りつけ荒野も多い。実際に人の住むことが可能な土地など国土の三分の二にも満たない。
それ故に、貧しい国土が広がる発展途上の国への侵攻を、体面上は中立国という立場からか、長い年月どの国も進んで行おうとはしなかった。国境に重なるようにして複雑に入り組む山脈の存在が国への出入りを制限することも原因の一つであろう。
かくしてどの国にも相手にされない小国が軍事力の強化を図ることは無く、ラヴィーナの軍隊など所詮自国の治安を維持する為のものにしか過ぎない。いや、軍隊というのもおこがましい、治安維持隊とでも言ったほうがいいだろう。
けれども、急激な国の成長で状況は一変した。
ラヴィーナは国の豊かさと引き換えに、常に侵略の危険に晒されることになったのだ。
そこへ、見計らったかのような軍事大国からの婚姻の申し入れ。
ラヴィーナは他国への牽制と実際に戦いが起きた時のための同盟を条件に。
ブルグミュラーは急成長を遂げた国財での支援とソルライト石の取引の優遇を条件に。
この話は瞬く間に進められていった。
カレナがその話を耳にしたのは、既に国王が承諾の意をブルグミュラー側に伝えた後だった。この世界の常識からいえばラヴィーナのような小国の王女が大国に嫁ぐとなると側室としての扱いが一般的だが、ラヴィーナの財政が正妃として相応しいと判断したのか、ブルグミュラーからの申し入れは正妃としてだった。
この婚姻受諾は、政略的なものとはいえ娘の幸せを考えてのラヴィーナ国王の親心だったのかもしれない。確かにこの婚姻を断っても、すぐさま次の候補者が立つのは目に見えて明らかだった。況してや、国の現状を顧みれば、年の離れた強欲な他国の王族に嫁ぐことになる可能性が無いとは言い切れない。
それまでも婚姻の申し入れがなかった訳ではなかった。実際にこの縁談の直前には大国ソールフィアからの側室での申し入れがあったばかりだ。しかしそれを国王は断ったという。
そしてカレナは、国王がブルグミュラーの王子との婚姻を受諾したその日から、二ヶ月かけてブルグミュラーの歴史と一般常識、礼儀作法などを学んできた。
世の大陸の王女は早くて十二かそこらで婚姻を結ぶ者もいる。今年で十八になるカレナは、良縁を結ぶのにも世間一般の王族では限界の年齢なのだ。相手も二十二歳とそれほど離れていない。実際この好条件での申し入れはカレナにとって最後の好機なのかもしれなかった。
しかし、頭では割り切れても心がそれに追いつかない。
大国の次期国王となる人物に嫁ぐ不安。
まったく情報が手に入らない相手との婚姻への戸惑い。
そればかりが心を駆け巡る。
もしこの婚姻を断っていたら。
もし自分が王族ではなく一般のラヴィーナ国民だったら。
もしソルライト石が発掘されず国が弱貧国のままだったら。
カレナは婚姻が決まってからの短い期間で、無駄というしかない愚問を頭の中で巡らせてきた。だがやはり不安は解消される筈もなく、どこまでいっても整理できない感情は出口の見えないままだった。