闇の片鱗 5
「おや、ヴァルター君じゃないか」
執務を終えフランツの居室へ向かう途中、意外な声に呼び止められヴァルターは振り返った。
「これは珍しいですね。このような時間にお会いするなど」
豊かな白髪を後ろに流し口髭を蓄えた初老の男性は歴史ある名家の当主らしく、身なりにおいても華美ではないが質の良い高級品を上品に身に付けている。あくまで穏やかな紳士然とした表情でにこやかに笑うその姿は、国王の命を狙い王政を転覆させ貴族政治を敷こうとしているような人物とは見えないだろう。
「いや、たまたま時間が空いたものでね。ところで一つ聞いておきたいんだが」
「はい、どのようなことでしょうか?」
「フランツさまはカレナ王女をお気に召したご様子かね?」
「……といいますと?」
「実は小耳に挟んでね。フランツさまが婚約の儀の前に、一度もカレナ王女にお会いになられなかったと。そして婚約の儀のあとも一度しか訪問していないそうだね。もう既に七日ほど経っているのではないかね」
「……ええ。残念ながら」
スッペ公爵の予想通りの問い掛けに、ヴァルターは躊躇いながらも溜息混じりに答える。
あくまで“振り”だったが。
とはいえ、どこから入手したのか、随分と情報の伝達が早いようだ。
「事実かね。それは困ったことだ」
「ここだけの話なのですが…………。実はカレナ王女の部屋に賊が侵入したようなのですが、フランツさまはその報告を耳にしてもカレナ王女のもとを訪ねることもせず、案ずる様子さえも見せませんでした」
ヴァルターは首を左右に小さく巡らし周囲の様子を確かめるようにした後、低い声で先日の事件のあらましを伝えた。
「そうなると不味い事態になるね。国王陛下の容態も思わしくないようだし、早めに子を成してもらわねば我が国は建国以来の危機に陥ってしまう」
さも本気で困ったふうにすらすらと言葉が淀みなく出てくる様が、腹立たしいのと同時に酷く滑稽に映る。自分たちが全て調べ尽くしていることなど、微塵も知られていないのだから仕方がないとはいえ。
「ええ。そうならないように我々もカレナ王女を訪ねるよう勧めてはいるのですが、なにぶんフランツさまにその気がないようでして」
「まあ、本人にその気がないものを無理に勧めるのも如何なものかね」
スッペ公爵はいかにも残念そうに眉根を寄せて肩を竦める。
「ですが――――」
「回避する方法は他にもあるんじゃないかね」
「ええ、承知しております」
「どうかね、我がブレッヘルト家の末娘はカレナ王女と年も同じで、フランツさまの側室としても申し分ないと思うがね」
一向に進む気配のない、自分の娘の後宮入り。そのことに焦れて、スッペ公爵が好機とばかりに話を持ち掛けることは分かっていた。そういう流れに持っていったのは他でもない、自分たちなのだから。
思っていた通りの話の展開に、ヴァルターは内心ほくそ笑む。
「そうですね。エルフリーダ嬢ならば家柄も容姿も教養も素晴らしく、わたくしもフランツさまに胸を張ってお薦め出来ます。しかし、あまりにも早過ぎるのでは。カレナ王女と成婚の儀さえ終えていないのですから。第一、フランツさまがなんとおっしゃるか……」
「きみの言うことならば、素直に首を縦に振るのではないのかね。一度話だけでもしてみてはくれないか?」
対外的には自分たちはこのように映っているのだろう。病弱で姿を滅多に見せることのないフランツ。その影でフランツの執務を淡々と消化するヴァルターとフェリクス。政治的な事柄に対する意見をほとんど口にすることのないフランツを、意のままに操っているように見えるのも無理はない。
「畏まりました。一度進言してみます」
「ああ、頼んだよ」
機嫌良く立ち去る後姿に一礼しながら見送ったヴァルターは、緩みそうになる頬を懸命に引き締めながらフランツの私室に向かうべく踵を返した。
王都レドラスにあるスッペ公爵ブレッヘルト家の屋敷に宵の口、姿を隠すように一つの影が現れた。その影は屋敷の中へと潜り込み、やがてこの屋敷の主であるスッペ公爵の部屋へと辿り着いた。
「誰かに見られてはいないだろうな?」
入り込んできた影に心得たように、椅子に座ったまま部屋の主が口を開く。
「はい。ご安心下さい。馬車は紋章の入っていない町馬車を使って参りました。誰もわたくしとは思わないでしょう」
影の正体であるフッガー子爵がスッペ公爵の向かいに腰を下ろし、貴族にあるまじき卑しい笑みを浮かべる。
「そうか。ところで例の話は真実のようだ。今日、王宮で宰相の息子に会って聞いてきた。フランツ王子はカレナ王女に会おうとはしないそうだ」
「そうですか。それではエルフリーダさまの後宮入りも意外と早くなるかもしれませんね。そうなれば、もはやこの国の実権はスッペ公爵の手に入ったも同然ではないですか」
「ああ、エリーの側室の話を進言するように言っておいたよ。国王もそろそろ尽きてくれるころだからな」
スッペ公爵の普段見せる品の良い微笑みは見事に消え去り、闇の支配者の如き悪辣な笑みが現れる。
「カベルから毒物を取り寄せたかいがありましたね」
この大陸の北方にある、薬学に精通した国カベル。そこのある権力者と手を組み、ブルグミュラーの王政転覆を画策していた。薬学に長けた間諜を送り込んでもらい、時間を掛けて怪しまれぬよう国王に遅効性の毒を盛り続けてきたのだ。カベルからの見返り要求は、カベルの隣国レックスロートとの戦いでの軍事協力だった。
長いあいだ領民に重税を課し、農作物の収穫量の申告を調整して国庫からの助成金等を過剰請求し、そうしてブレッヘルト家の私財を蓄えてきた。今更国王を一人殺害したところで良心など痛むはずもない。全ては見抜くことが出来ない王家が悪いのだ。
「ああ、国王さえいなくなれば、あの知能障害を持つ王子などどうとでもなる。長いこと三大公爵家だなんだと言われてきたが、ディーバッハ公爵のところは息子に代替わりしてから筆頭貴族入りを許されてはいない。残るはエルムロイス公爵だけだが、わたしが実権を握ればあんな若造など捻り潰してやるだけだ」
「そうなれば、この大国ブルグミュラーは全てスッペ公爵さまのものでございます。その暁には……」
「わかっているさ。新しい領土と筆頭貴族の席を一つ用意する」
「ありがとうございます。それであの王女はどうされますか?」
「王子はともかく、王女は生かしておかなければならんな。ラヴィーナからの支援が途絶えてしまう。ソルライトの恩恵はかなり大きいものだ。ラヴィーナ国王は大盤振る舞いしてくれるだろう」
どのような扱いをしようが、あの王女を生かしてさえおけばラヴィーナからは支援という名の大金が舞い込んでくる。いずれ政治の実権を握った際には、そのほうが遥かに都合が良いだろう。
「はい。ではそのように」
「しかし、王女には自分の立場を理解させる必要がある。賢い王女だと聞いているからな。後になってしゃしゃり出てこられてもかなわない。エリーが間者を王女の部屋へ侵入させたのは知っているが、王女の様子は逐一見張っておこう」
「畏まりました」
すでに国王テオドールは病の床に伏してかなり経っており、命の灯火は幾ばくもない筈だ。女性に興味を示さず、すべての婚姻話を拒んできたフランツが、国の財政危機のためにテオドールから出た婚姻話に首を縦に振ったのは予定外の出来事だった。
しかし、その相手である王女を気に入った様子は全くない。このままいけば、国王が国の行く末を思案して側室を娶らせようとするのも時間の問題だ。恐らく、その側室候補も手っ取り早く国内の貴族子女から選ばれるだろう。
そして最も適任だといえるのがスッペ公爵子女であるブレッヘルト・エルフリーダである。三大公爵家といわれる三家のうち、フランツと年齢的にも状況的にも見合う子女がエルフリーダしかいないのだ。
幼い頃からフランツの妃候補として育てられたエルフリーダが、フランツの正妃の座に異常なまでに執着しているのをスッペ公爵は知っていた。今回のフランツとカレナの婚姻を知った時には病気かと思われるほど取り乱し、父親である公爵自身も被害を受けた。最終的には今回の計画を打ち明け、エルフリーダを側室としてフランツのもとへ嫁がせるのだと話をするとようやく落ち着いたが、それでもいまだにその瞳には狂気に近い色を孕んでいる。
現段階でカレナ王女に何事か起こるのは得策ではないと判断し、スッペ公爵はエルフリーダに王女には手を出さぬよう言いくるめてきた。しかし、それでも感情の昂りには予期せぬ事態が付き纏うものだ。特にエルフリーダは感情の起伏が激しい。そのことも含めて、王女の様子を注意深く見ておかなければならない。
スッペ公爵は計画が最終段階に入ったことに満足気な笑みを浮かべ、近い未来の自分の姿を思い描いていた。