闇の片鱗 4
「リック、僕の妻となるべき相手とこんなところで密会かい~?」
フェリクスの真摯な眼差しと言葉に何も返せず、重い沈黙が辺りを包んでいた丁度その時、思わぬ声が耳を掠める。
「フランツさま、誤解でございますよ。カレナさまが、あのようなことがあった部屋にいることが出来ないとこちらにいらっしゃいましたので、少しばかりお話し相手を務めさせて頂きました」
「ああ、そうだったねえ。忘れていたよ~。部屋を替えてあげないといけなかったんだった~」
にこやかに笑うその顔は以前と同じもので、フランツの部屋での出来事など夢だったのではないかと思わせる。
「はい。わたくしが今から指示を出してきますので、フランツさまはカレナさまのお話し相手を替わって頂けますか?」
「あ、あの、お忙しいのではないですか?」
いつでも逃げることの出来る外の開放的な空間だとはいえ、フランツと二人きりになることは極力避けたかったカレナは戸惑い気味に口を挟んだ。
「ううん、暇だからいいよ~。カレナ、話をしようか~?」
フェリクスと入れ違いに東屋に入りカレナの横に腰を下ろしたフランツは、カレナの戸惑いなど察する様子もなく、笑みを深くしこちらを見つめる。
何か話せということなのだろうか。
カレナは戸惑いながらも頭の中で話題を探して口を開いた。
「あの、昨日のドレスの送り主は見つかったのですか?」
「ん~、リックたちが一生懸命探してくれているみたいだけどねえ。まだみたいだよ~」
「そうですか」
「僕もよくわからないんだけど、届けに来た商人は依頼主が偽名だったって言ってたんだって」
「偽名……」
「怖いよねえ、あんな物を送り付けてくるのも、部屋に入ってきた賊も。犯人早く捕まるといいねえ」
フランツの言葉に相槌を打ってみたものの、カレナにしてみればあのズタズタに切り裂かれたドレスや自分の部屋にドレスを盗みに入った賊よりも、今はフランツの得体の知れない気味悪さのほうが正直怖かった。
二人きりになるとあの時のようにフランツの態度が豹変するのではないかと思うと恐ろしく、どう言い訳をして部屋に戻ろうかと思案する。
「ねえ、カレナ」
フランツがカレナの名を呼び、唐突に立ち上がる。
「は、はい」
「元気がないみたいだからいい物を見せてあげるよ~」
「いい物?…………きゃっ」
戸惑うカレナをよそに、フランツはカレナの手を引いて立ち上がらせるとそのまま歩みを進める。
向かう方向はカレナの部屋がある王宮の東側とは逆、フランツの部屋のある西側の方向。庭園を抜け、その奥にある木々のあいだ、人が一人通れる程しかない隙間を器用に進んでいく。恐らくカレナの歩幅に合わせてくれているのだろう、時折振り返りながらカレナの様子を確認し、ゆっくり歩く。手を繋がれているので歩き辛いことこの上なかったが、カレナは何も言わずについていった。
どれくらい歩いただろうか、木々を抜けた先にぽっかりと空間が現れた。丁度、最上階にフランツの部屋がある王宮の北西の端だった。
それほど広くはないその空間には、芝が植えられ僅かではあるが黄色や白色の可愛らしい花も咲いている。そしてその中央には、木で作られた子供二人が座れるくらいの幅の座席が付いたブランコがあった。それは、カレナが幼い頃にラヴィーナの後宮で遊んだものと驚くほどよく似ている。
「はい、カレナ。そこに座って~」
「えっ」
意外な空間の出現にその光景を呆然と眺めていたカレナは、フランツに手を引かれ小さなブランコに腰掛けさせられる。
フランツはにこにこと楽しそうな笑みを浮かべながら、優しくブランコを揺り動かした。フランツの笑みがいつもの感情の籠らないものではなくて、若干歓喜の色が混じって見えるのは気のせいだろうか。
その笑顔は凝り固まっていたカレナの心をほんの少しだけ軽くした。
「懐かしいです。昔は兄や弟と一緒によくブランコで遊びました」
年の離れた姉は加わらなかったが、三歳年上の兄と一歳下の弟と後宮の庭園にあったブランコでよく三人一緒に遊んでいた。あの頃はまだ鉱山も発見されておらず、王族にしてみれば慎ましい生活だったのかもしれないが、それでも穏やかで満ち足りた日常を送っていた。
「そうなんだ~。兄妹の仲は良かったんだねえ」
「そうですね。家族全員驚くほど仲が良かったです」
ラヴィーナの国王である父は前妻が亡くなったその後、長いあいだ想い合っていた母と結ばれた。父親は、側室を娶るほどの余裕が国にないことを主張し、母親はその父親の言葉を後押しするように次期国王となる兄を含め三人の子供を出産した。
十歳以上年の離れた母親違いの姉ともわだかまりは一切なく、兄や弟との四人の関係も良好で、他国でよくある血生臭い王位継承に絡んだ諍いなどは全く存在しない。もちろん貴族の勢力には多少の格差は存在するが、それでも大陸にあるどの国と比較しても平穏だと胸を張って言える。
「カレナは幸せな環境で育ったんだねえ。そうだ、カレナにひとつ物語を聞かせてあげようか~?」
回想からの懐かしさで感傷に浸っていたカレナに、フランツが問い掛ける。
「物語ですか?」
笑顔を張り付かせたままフランツはコクリと頷いた。
「昔ある国に将来を嘱望された王位継承者である第一王子がいた。その王子は見目麗しく賢い王子で、若さ故の気性の荒さや傲慢なところがありはしたが、王子が前線に立った戦は負け知らずで、家臣はもちろんのこと国民からも非常に愛されていた。ある年その王子が隣国を侵攻し勝利をおさめた。そしてその際に、その敗戦国から一人の側室を自らの側室とすべく自国に連れ帰った」
フランツはブランコを揺らす手を止め、ブルーグレイの瞳を閉じて呟くように口調を変えて語り掛ける。
「王子はその連れ帰った側室を溺愛し、大勢いた側室はもとより正妃にさえ見向きもしなくなってしまった。当初は周りも流行り病のようなものだろうと高をくくっていたが、約一年後に国王が逝去し戴冠した後もそれは続いた。そして、それがもとで他国の王家出身で気位の高かった王妃は、嫉妬から精神を患い夜な夜な奇行を繰り返し、とうとう王宮の一室に幽閉されしばらく後に亡くなった」
カレナはフランツの意図が掴めず、彼から語られる物語に耳を傾けながら様子を窺う。しかし、瞳を閉じたままの表情からでは、何が目的でこのような話を聞かせるのか読み取ることは不可能だった。
「何年か後、その国王の息子である第一王子が息子を授かった。国王の孫であるその王子は不思議なことに初めて瞳を開けた時の記憶を鮮明に憶えていた。……おかしいでしょ~?生まれて間もないし、普通は自我だって目覚めてないんだから。ねえ、カレナ。どんな記憶だったと思う~?」
途中で口調をいつもの間延びしたものに戻し、フランツは目を開けて普段どおりの笑顔を見せる。しかし、やはりその表情からも彼の意図は窺い知ることは出来ない。
カレナは質問の答えに想像がつかず、静かに首を横に振った。
するとフランツは何かに思いを馳せるかのように再び瞳を閉じた。
「彼が初めて見た世界に映っていたのは、恐ろしく歪んだ顔で彼を凝視する母親の姿だった。そのすぐあとに視界に入ってきた父と祖父も驚愕に顔を歪ませて彼を見つめていた。そこで彼は生まれて初めて思念というものを持った。自分は生まれてくるべきではなかったのではないか、それならばこのまま消えてしまえばいいと」
カレナは言うべき言葉が見つからず、口を開くことができない。
もしやこの“彼”という人物は……。
そう考えていたとき不意にフランツが目を開けた。そこには先日垣間見せた歪んだ笑みと激情が宿っているようなブルーグレイの瞳が現れた。
「母親はその後彼の前に二度と姿を見せることはなかった。祖母と同じく徐々に精神を蝕まれ、彼が十一の時に亡くなるまでのあいだ一度もね」
口調は物語を読み聞かせるような柔らかなものではなく、感情を押さえ込んでいるような苦渋を含んだものに変化している。カレナに視線を向けてはいるものの、実際にはカレナを通り越して他の何かを凝視しているかのようだった。
先代王妃が数年ほど前に病死していることは、カレナもブルグミュラーの歴史を学んだ際に知識として得ていた。しかし、その原因が精神的なものによるとは恐らく公には知られていない話だろう。
「ねえ、カレナ」
「………………」
今度は確実にカレナとフランツの視線が交差する。
「ブルグミュラーの王妃は呪われているんだよ。それでも………」
そこでフランツは言葉を切って歪んだ笑みを消し去り、真摯な顔つきへと変化させた。
「それでも、呪われた僕の后になるかい?」
何度も変わるフランツの表情。初めて現れた、笑みを浮かべていない整ったその顔を見つめ、カレナは息を飲む。けれども不思議と恐怖は湧かなかった。カレナはなぜか、フランツのその表情に僅かな憂愁の色を感じ取っていたからだ。しかし顔の表情にはそれを感じさせる要素は微塵もない。そう、綺麗な輝きを放つ青銀色の瞳がフランツの心を表しているように感じるのだ。
声を発しようとはしないカレナに人生で二度目の口づけが落ちてくる。カレナの瞳が、まるで自分のものではないかのように自然に閉じられてゆく。先日の掠めるようなものとは違う、カレナを味わうようなゆったりとした口付けを与え、最後にカレナの下唇を舌先でなぞりフランツの身体は離れていった。
「でもね……」
ゆっくりと目を開けると、フランツは少し離れたところでカレナに背を向けて立っていた。
「でも、僕は決めたんだ。カレナを僕の正妃にすると。君は僕が選んだ唯一の人。それは、たとえ神の怒りに触れることになろうとも、覆されることは決してない」
そこまで言ってフランツは振り返る。そこには先日見せた優しく慈愛に満ちた微笑があった。
「もう既に始まってしまっているんだよ」