闇の片鱗 1
「カレナさま、そろそろお部屋にお戻り下さい」
庭園の東屋で見事に咲き誇る花々を眺めていたカレナは、侍女の呼び掛けに無言で頷いて立ち上がった。
あのフランツの部屋での一件から六日ほどが経過していたが、その間フランツの姿を見ることは一度としてなかった。
しかし、フランツの態度と言葉に若干の恐怖心を抱いていたカレナにとって、それは願ってもない好都合なことだった。あのような、とてもまともだとは言い難い言葉を吐いておいて、同じ口でカレナを傷つけないと告げたフランツは、まるでそれぞれの言葉を口にした人物が違う人間であるかのような錯覚さえ抱かせる。知能障害ではなく人格破綻者ではないかと思わせるくらいに。
幸いにもあの翌日からフランツは、参加する条件を満たしたということで国政議会への出席が義務付けられ、朝から夜まで会議と執務に追われているという。当分のあいだ会うことが出来ないという旨の言伝を、ジルケがわざわざカレナに伝えに来たのだ。
成婚前であるにも関わらず、この先何十年とフランツに添い遂げる自信が既にカレナにはなかった。それでも、フランツがカレナを不要だと判断しない限り、カレナにはこのまま大人しくこの状況を受け入れるしか歩む道はないのだ。あくまでフランツの立場のほうが遥かに上なのだから。カレナからはこの婚姻を無効にすることは出来ない。
侍女に促され自室に戻ったカレナは、精巧な彫刻の施された豪奢なテーブルの上に綺麗に包装された少し大きめの箱を見つけた。中身の想像が付かず、茶の用意をしてカレナの戻りを待っていたクララに尋ねる。
「クララ、これは?」
「それは先ほど商人より届きました、フランツさまからカレナさまへの贈り物のようでございますよ」
「そうなの……」
「開けられないのですか?」
「あっ、ううん。開けてみるわ」
先日のやり取りを思い出すと、フランツからの贈り物だと言われても素直に喜ぶことが出来ない。クララがこの場にいなければ確実にそのまま放置していただろう。しかしにこやかに嬉しそうな婚約者の姿を見せているフランツが、表立って怪しげな物を贈ってくる可能性は低いだろう。
そう判断し、カレナはぎこちない手つきでゆっくりと包装を解き始めた。
すると、中から出てきたのはドレスと見受けられる鮮やかな青い布だった。丁度カレナが婚約の儀の夜会で身に纏ったドレスの金糸を抜いた色と同色のものだ。
同じ色目のものをなぜ、とカレナは訝しく思いながら箱から取り出すと同時に目に入ってきたものは、袖の部分も腰から下の部分もズタズタに引き裂かれた無残なドレスだった。
「キャッ」
驚いて声を上げるクララに口に手を当てて閉口を促し、カレナはそのボロボロになっているドレスをテーブルの上に広げてみた。
ご丁寧にもあの日の夜会で着ていたものと色も形も寸分違わないデザインで、ここまで正確に模倣品を作らせた送り主に感嘆してしまう。違っているのは使われている生地そのものとその生地に金糸が織り込まれていないところだけだ。
「ねえ、クララ。あのドレスはわたしの衣装部屋にあるかしら?」
ふと疑問に思いカレナはクララに問いかけた。
「動かしてはいないのであるとは思いますが、ちょっと見て参ります」
カレナは、クララが寝室の隣にある広い衣装部屋へと小走りに向かう姿を目で追いながら考えた。
あのドレスはフランツがカレナの為にと用意させたドレスの中でも特別で、高名な職人が生地そのものから長い日数をかけて作りあげたものだと聞いていた。しかもあの夜会が初めての披露目だった。色やデザインがまったく同じものなど、あの夜会での数時間のあいだ目にしただけで作ることは可能なのだろうかと。
「カ、カレナさま、ございません。あのドレスが消えています」
「やっぱり……」
「わたくしが、確かにあの部屋へと仕舞った筈なんですが」
「誰かがわたしの部屋に忍び込んだということね」
「あ、あの、これは本当にフランツさまからの贈り物なのでしょうか?」
「……恐らく違うと思うわ」
フランツならば作らせた本人なのだから、わざわざ見本を入手しなくてもドレスの色やデザインの情報を得ることは可能だろう。夜会での数時間ではあのドレスの模倣品を作ることが不可能だったから、あのドレスを衣装部屋から持ち去ったのだろう。
そもそも、フランツの態度からしてこんなことをするとは思えない。フランツはカレナを逃がさないと言ったのだ。こんなことをして利があるとは思えない。逆にカレナが婚姻を思い留まる可能性だって出てくるのだ。それに彼はカレナを絶対に傷つけないと言ったのだ。あの言葉が嘘でなければ、こんな手の込んだことをしてくる理由はない。
しかし、なぜ送り主はあのドレスではなく、わざわざ似たものを作らせたのだろう。手っ取り早くあのドレスを切り刻んで送り付けてくれば早いものを。新しいドレスを作らせたことに何か意味があるのだろうか。
「カレナさま。では、犯人に心当たりはあるのですか?」
クララの問いかけにカレナの脳裏に真っ先に浮かんだのは、あの夜会で会った美しい真紅の女性の姿だった。
あの時は只単に、最弱国の出である自分が大国の第一王子に嫁ぐことが身分不相応だという批判と見ていたのだが。もし仮にそうではないのだとしたら。彼女が、あのどこかまともではないフランツを慕っているのだとしたら。
カレナは決め付けていたのだ。あのような王族らしくない王子に恋心を抱く者などいないのではないかと。しかし、あの性格を知らなければどうだろう。口を開かなければ恐ろしく整った容姿をしているフランツに憧れを抱く者も多いだろう。
では彼女がフランツの正妃の座を狙ってこんなことをしたのだろうか。
いずれにしても、彼女が何処の誰なのかという情報さえ掴んでいないカレナには、これ以上どうすることも出来ない。
「わからないわ」
カレナの考えはあくまで憶測だ。迂闊な発言は避けたほうが良いだろう。カレナは、送り主に心当たりはないと答えるのが無難であると判断した。
「では、このことは一応フランツさまのお耳に入るように手配しておきます」
「……ええ、そうね」
フランツは果たしてどんな反応を見せるのだろう。カレナに逢いにこの部屋を訪れるだろうか。
カレナには、フランツに逢いたいと思う気持ちと逢いたくないと思う気持ちの二つが相反して心の中を渦巻いている。
次の逢ったときには、あの以前のフランツに戻っているのだろうか。それとも酷薄に歪められた美しい顔で現れるのだろうか。
カレナは複雑な思いを抱えたまま、クララの言葉に静かに頷いた。