猜疑の痼り 5
フランツの部屋から飛び出したカレナは、微かに震える力の入らない身体に鞭打って階段を駆け下りた。
勢いよく飛び出してきたカレナに、向かいの小部屋に控えていたジルケが驚いた顔をしていたのが見えたが、それを見て見ぬ振りをして少しでもフランツの部屋から遠ざかろうと必死で走った。
自分でもどこをどう走ってきたのかは憶えていなかったが、気付けば王宮の裏手にある色とりどりの美しい花が咲き乱れる庭園に来ていた。
王宮の庭園には憩いの場として人々の出入りの激しい本庭園と第二庭園があり、王族が自由に出入り出来るのは第二庭園だけだった。規模の小さい第二庭園はラヴィーナの王城の庭園と造りなどがよく似ていて、心を落ち着かせるには最適な場所だった。
カレナは、放射状に渡らせてある通路に点在するベンチに腰を下ろした。
まだ身体の震えは治まらない。
カレナは気を落ち着けようと、大きく深呼吸を繰り返した。
そう、フランツが言うように、確かにカレナは恐ろしいと感じている。
しかし、それだけではないのだ。
フランツの本心が見えない。
いつもにこやかに微笑んでいるが、あの綺麗なブルーグレイの瞳は少しも笑っているようには見えないのだ。しかし、カレナに酷薄な笑みを浮かべた時に見せた彼の瞳には、それまでは見せたことがない激しい感情が映し出されていた気がする。
あの時見せたあの姿こそが彼の本当の姿なのだろうか。
カレナは少し震える指先で自分の唇にそっと触れてみる。
他人の唇に触れることはカレナにとって初めての経験だった。
それまでもラヴィーナ国内の貴族にどさくさに紛れて迫られたことは多々あったが、彼らには挨拶と夜会でのダンス以外では、唇は愚か身体にさえ指一本触れさせたことはなかった。
フランツの口付けは、言葉の残酷さと相反しとても優しいものだった。
どれが本当のフランツなのだろう。
いつものあの胡散臭い笑みを浮かべている姿だろうか。
それともあの酷薄そうな笑みを浮かべた姿か。
最後に見せた穏やかに優しく微笑むあの姿は、カレナの見た都合の良い幻だったのだろうか。
輝く光に包まれ慈悲深く微笑みを浮かべたフランツは、まるでこの世のものとは思えないほど神々しく美しい姿だった。
自分が恐ろしいかといつもの笑みを浮かべながら楽しそうに尋ねたフランツ。
逃がさないと残酷に言い放ったフランツ。
そのあとで、誰にも触れさせないと、自身でさえも傷つけないと優しく告げたフランツ。
どれが本当のフランツの言葉なのか。
カレナには本当のフランツの姿が見えていないということはわかっている。
だからこそ気味が悪いのだ。
フランツの真意が掴めないから。
それにしても、なぜあんなにカレナに執着するような言葉を並べたのだろう。婚約の儀の当日まで姿も見せることがないほど関心が無かっただろう相手に対して。その後もフランツがそこまで気に入るような言動をした憶えもない。
恐らく、あの言葉は偽りのものだろう。
では、なぜそんなことをカレナに言うのか。
カレナをこの国に留めるためだとしても、そのままの態度でいたほうがよほど効果がある筈だ。あそこまで執着めいた態度を見せられると、逆に恐怖心が芽生えることなど予想できるだろうに。
「カレナさま!」
呆然と庭園の芝生の上にドレス姿で無造作に座り込むカレナを、馴染みのある声が現実世界へと引き戻す。
「カレナさま、どうしたんですか?こんなところにお一人で」
「少し外の空気を吸いたくなって」
心配そうに慌てた様子で駆け寄ってきたのはクララだった。
以前に滞在していた離宮の庭園で倒れて以来、カレナが一人になることにクララは少し過敏になっていた。
「ジルケさんからカレナさまがお一人でお部屋に戻られたと聞いて少しのあいだお待ちしておりましたが、一向に戻ってくる気配がないので心配になって来てみれば。以前倒れられたのをお忘れですか!お一人で外に出ては危険だと何度も申し上げたはずですが!」
怒りに任せて捲くし立てるクララに、言い返す気力もなく黙ったままで聞いていると、今度は急に態度を変えた。
「カレナさま、どこか体調のおかしいところがございますか?顔色が悪いようですが」
見てわかるほどの顔色の悪さなのだろうか。
カレナはクララに心配を掛けたくなくてわざと気丈に振舞った。
「ううん、どこもおかしいところなんてないわ。クララの気のせいよ」
「……もしかしてフランツさまと何かありましたか?」
クララの言葉に内心鼓動が早くなるが、それでも平静を装い笑顔を作る。
「いいえ、何もないわよ。ラヴィーナのことを色々聞いて下さって。それから、今度ラウフェン宮殿を案内して下さるそうよ」
フランツが本当にその気があってあの言葉を発したかは甚だ疑わしいが、とりあえず誤魔化せる要素があることは全て使うことにした。
「まあ、そうなんですか。よかったですわね、カレナさま。これで国王の口にされた謎が一つ解けますね」
素直に喜ぶクララに僅かばかり良心が痛む。
だが心配性の彼女に、フランツから脅されたなどとは、口が裂けても言うことは出来ない。
「さあ、そろそろ気温も下がってきますからお部屋に戻りましょう」
クララに促されながら、カレナはこの先フランツにどう対応していけばよいのかということに頭を悩ませた。
きちんと平静を装うことが出来るだろうか。
再び、あの酷薄な笑みを浮かべられたら、自分は怯えずにいられるだろうか。
カレナは自室に足を向けながら、頭の中はフランツのことで一杯だった。