猜疑の痼り 2
「ルードヴィヒさま、ご報告致します。カレナ王女の侍女が昨夜王宮の侍女にラウフェン宮殿とルードヴィヒさまについて聞きまわっておりました。ラウフェンについてはその造宮の理由と場所、現在の状況についての情報を手に入れておりました。ルードヴィヒさまについては何も情報は知り得ていないようです」
「そうか、動くのが早いな。あの美貌に反して中身は随分とお転婆なようだ。フース、引き続き護衛しながら危ないことをしないよう見張っておけ」
「はい」
ルードヴィヒが私的な目的で動かしている影とも言うべき七人のうちの一人であるフースが身を翻し木立の中に消えていくのを見届けて、ルードヴィヒは宮殿の中へ足を向けた。
カレナが情報を手に入れたがっているというこのラウフェン宮殿は、先代国王フランツ1世が、大勢いた側室たちから只一人の側室を守る為だけに建てた小さくも美しい宮殿だ。フランツ1世とその側室二人だけで快適に過ごせるようにと、部屋数は十二とかなり少ない。しかし、精密な彫刻と壁画が柱や天上など宮殿中に施された贅沢な造りになっており、芸術に関心の高かった側室の為にと大陸中の著名な芸術家の絵画などの芸術品が数多く飾られている。
ルードヴィヒは自室に戻る途中、二階の階段前の小さなホールに飾られている二枚の肖像画のうちの片方の人物の前で足を止めた。
描かれている女性はルードヴィヒの幼少の頃の記憶そのままに、輝く瞳と波打つ豊かな黒髪の美しい姿のままで微笑んでいる。
「カロリーネ・アン、見目はさて置き、カレナはあなたと違って大層活発なようですよ」
その女性はルードヴィヒの小さな呟きの言葉に応える筈もなく、慈悲深い微笑みを浮かべたままだった。
しばらくその場で肖像画を見つめていたルードヴィヒだったが、階下からの徐々に大きくなる足音で階段の方向に顔を向けた。
「ルディ、出たよ。やはり昨日の婚姻の儀の慌ただしさに乗じての混入だった。おまえの読み通りだったね。毒物反応は料理ではなく国王の食器の隅から極微量で即効性はないものだ」
ヴァルターがその小さなホールに姿を現した時、ルードヴィヒはいつものように精巧に描かれた肖像画の前に佇んでいた。
「その毒物は―――」
「そう。我が国のものではないよ。詳しく調べなければなんとも言えないが、恐らく北の方の植物から採れるものだと思う。これから父上に協力してもらって解析するよ」
「そうか。では、このままこちらが気付いたことを気取らせるな。フックス家から一人調理場に送り込めるか?確実にその証拠を押さえたい」
「わかった。父上に話して一人潜り込ませよう」
「とりあえずその調理人は放置して、フックス宰相に国王の代わりの食事を内密に毎食分手配するように伝えてくれ。オーアスを呼び戻しているから国王に付くようにさせる」
「ああ、食事の件は父上には依頼済みだよ。それから、ダークに話をしておいた。指示を出せばすぐに動けるようになっているから」
「わかった。ああ、そうそう。カレナ王女がこの宮殿と俺のことを調べているらしい。あのくそじじいが余計なことを言ったおかげでな」
「おいおい、行動が早いな。随分と好奇心旺盛な姫君だね。危険な目に遭わなきゃいいが」
「ああ、カロリーネ・アンと正反対だな」
ルードヴィヒの言葉に、二人して笑いながら壁に掛けてある女性の肖像画を見つめる。
「守るさ。何が何でもな」
髪を掻き上げながら発した、呟くようなその言葉に、ヴァルターは目を細めてルードヴィヒに視線を移す。
肖像画に描かれた美しい女性を金色の瞳で懐かしそうに見つめているルードヴィヒとは、まだ前国王フランツ1世が存命の頃からの所謂幼馴染という関係だ。フェリクスを含めた三人は何をするにも一緒で、学問も剣術も全てを共に学んだ間柄でそれこそ互いに知らないことはないと思っていた。
しかし、三年ほど前のラヴィーナでのソルライト鉱山発見で、ヴァルターとフェリクスはそれが間違いだったことを初めて知ったのだ。
ルードヴィヒは完璧な男だった。性格的には傲岸不遜で皮肉屋なところがあり問題ないとは言い難かったが、身体能力の高さも明晰な頭脳もさることながら、特に政に於いては驚くほどの能力を発揮した。
ブルグミュラーの国政は、大陸に名を馳せる軍事大国故に頭の固い古参の貴族議員が主張する古いしがらみに囚われることも少なくない。そんな私欲に忠実な名立たる名門貴族たちを、時にはそのもっともらしい意見を逆手に取り、時には国の為という偽善的な発言の僅かに開いた隙間を掻い潜り、この国の政治を影で動かしてきた。
しかし、剣術も学問も極みの一歩手前で放り出し、更に国政に関しては国の根幹を揺るがすような出来事には修正の手を入れるものの、汚濁に塗れた政治の基盤を拭い去ることはまったくしなかった。根の部分に虫が巣食う大樹を、倒れない程度に見張っているだけのような状態で、長いあいだ放置し続けていたのだ。まるでこの国の一切に興味などないかのように。
そう、確かに三年ほど前までは。
常に本心を隠し何事にも全力を注ぐという姿を見せたことがなかったルードヴィヒが、ラヴィーナにソルライトの鉱山が発見された頃を境にその姿を一変させた。
フランツ王子がラヴィーナの第二王女であるカレナ王女を娶ることが出来るよう、彼は使える力を最大限に使い反対派を退け今回の婚姻の話を押し通した。
それはルードヴィヒにとって、国政に携わる立場の人間としての行動ではなく、何事も望まず何も欲しなかった彼のただ一つの我侭だったのだ。
カロリーネ・アンの肖像画を黙って見つめるこの姿を、ラヴィーナにソルライト鉱山が発見された時から何度目にしたことだろう。
静かに佇む彼のその表情は、それまでの愁思や自虐に満ちたものではなく決然たる強い意志を秘めていた。初めてその瞳を見たとき、それまでの状況を静観するしかなかったヴァルターは、待ちに待ったこの時に密かに心が震えたのを憶えている。
「リックの姿が見えないが」
一緒にいる筈である赤茶髪の幼馴染の姿が見えないことを疑問に思い静寂を破ったヴァルターに、ルードヴィヒはすぐに反応を返してきた。
「ああ、書類の処理をするとか言って俺の部屋で机に向かったが、次の瞬間には夢の世界へ旅立ったぞ。だが、そろそろ起してやってもいい頃だな」
そんなことを言い、ルードヴィヒは意地の悪い笑みを浮かべながら胸元から短剣を取り出し自室に向かって歩き始める。
「おい、あまりいじめないでくれないかい。こっちにとばっちりがくるんだから。おまえたちのお守は体力がいるんだよ」
「それが長男の役目なんだろ」
常日頃から辛辣な言葉を吐くことが多いルードヴィヒは、こうして昔からフェリクスをからかうのを楽しみの一つとしている。
フェリクスの方が一歳年上の筈だが、二人の力関係は随分昔から逆転したままだ。驚くほど優秀な剣士で近衛騎士隊を纏め上げるほどの実力を持つフェリクスが、その実かなりのいじられ役なのを知っているのはごく一部の限られた人間だけだ。
ルードヴィヒにいじり倒され、最終的には年長者であるヴァルターに尻拭いが回ってくるのが幼い頃からのいつものパターンだった。
ヴァルター自身それを面倒だと言いつつ、内心嬉々として手を差し伸べてしまうのは、ルードヴィヒとフェリクスを弟のように思っているからだ。幼少の頃から、それぞれの家族よりも長い時間を共に過ごしてきたのだから。
「ほどほどにお願いしますよ、ルードヴィヒさま。私も睡眠不足で体力低下気味なんですから」
「ははっ、わかっているさ。少し遊ぶだけだ」
その少しの遊びの尻拭いが大変なんだとヴァルターは思いつつも、ルードヴィヒの楽しそうな笑顔を見られるのならそれでもいいかと納得してしまうのは、まさに末弟思いの長子の思考だ。
ヴァルターは苦笑いを浮かべながらルードヴィヒの後ろを追いかけた。