猜疑の痼り 1
夜会を切り上げ倒れるように寝台に飛び込んだカレナは、次の日の朝クララの呼びかけで目覚めるまで死んだように眠り続けた。
目覚めてすぐ、背中に感じる微かに引き攣るような久々の感触に、ふと気が付いた。思った以上に昨日は緊張を強いられていたらしい。そう、正体は筋肉痛だった。その感触に昨日の出来事を回想する。
昨日の婚約の儀で読み上げたのは祝詞であり、その後成婚の儀までの一月に何事も起こらなければその婚姻は神の許しを受けた幸大きいものとなる、というのは数日前にカレナの元を訪れたテオドール国王の側近であるフックス宰相の話だ。
しかしたった一日、しかも数時間しか見えることしかなかった相手では、婚姻を結ぶことへの実感はかなり希薄だった。
相当疲れたのでしょうと笑いながら促され、いつもより若干遅い朝食を終えたカレナに、クララは笑顔で切り出した。
「カレナさま、昨日のお話の件なのですが」
「どうしたの?」
「実は昨夜、夜会の最中に侍女の方々にお聞きしてきたんです」
「もう?早いのね」
「お話してもいいですか?」
「ええ、お願い」
「まずラウフェン宮殿ですが、これはこの王宮から程近い小さな宮殿だそうです」
「この近く?」
カレナは王宮の周辺の景色を思い浮かべた。
しかし、どう思い返してもこの近辺に宮殿など目にした覚えはない。
カレナの記憶する限りでは、この王宮は小高い山の頂上にあり、裏手には更に高い山がそびえ、正面にはこの王宮に続く曲がりくねった道があるだけだ。
「はい。この山の中腹にあるらしく、王宮からは木立に遮られ、街までの道からでさえその姿を拝見することは出来ないそうです。見られるのは王都の街中から遥か遠くに小さくだけだそうです」
「そんな場所にあるのね。ここからどのくらいの距離なの?」
「それが直線距離にすれば恐らく歩いて十分ほどの距離ということですが、王宮からラウフェン宮殿までの道がないので正面の道を中腹まで降らなければならないそうですよ。そこからぐるりと回るように細い道が通っていて、通常三十分ほど掛かるそうです」
「そうなの?いまその宮殿は使われていないの?」
「はい、現在は使われていないそうです。なんでも、前国王が側室を囲う為に建てられた宮殿だそうでして。側室が亡くなってのちにテオドール国王が王位を継いでからは、前国王が余生をそこで過ごして、その後は学者として著名なご夫婦が宮殿の管理をしながら住んでいるそうです」
「側室の為?確かこの国は、正妃は王宮で暮らして側室は全員後宮に入るって決まりよね?」
賢帝として名高いフランツ1世が、側室一人の為に決まりごとを破ってまで宮殿を建設したとは若干信じ難い。
フランツ1世は、カレナの婚姻相手であるフランツの祖父に当たる人物で、現国王テオドールの父である。数年前に既に逝去しているが、ブルグミュラーの歴史書に度々登場する高名な人物である。
若い頃は美麗な風貌と相反して好戦的な性格で、その当時権力的に弱かった父王に代わり近隣諸国を次々と侵攻しその手中に治めていった。ありふれた中規模農業国であるブルグミュラーがここまでの軍事大国になったのも、フランツ1世による功績の賜物だと言われている。
しかしそんなフランツ1世の戦い方は手段を選ばず、女子供にも容赦ない残虐なものだったという。そして現国王テオドールがまだ若年の頃、ヘフレスという国の侵攻を最後にフランツ1世は二度と戦場に出ることはなかった。戦場から退いたのち、広大になった自国領土の統治に努め、軍事力のみならず国政でも大陸中にブルグミュラーの名を轟かすまでに成長させた。
カレナはここへ来るまでに学んだブルグミュラーの歴史を思い返していた。
なぜテオドールはフランツがカレナをラウフェン宮殿に連れて行ったと思い込んでいたのだろう。フランツ1世が側室の為に建てたと言われている宮殿にカレナとフランツに関しての何かがあるのだろうか。
もし関係がないとするならば、訪れていないと知った後のテオドールの態度は腑に落ちない。
「それと、ルードヴィヒなる人物についてですが……」
黙り込んでしまったカレナに、クララが話を進めようと声を掛ける。
「何かわかった?」
「それが全く。それほど珍しい名前ではないですし、侍従や騎士の中にその名前の者が数人いるようですが、国王や王子に直接関係のある人物の中には該当者はいないようです」
「そう、ありがとう。今日は部屋でゆっくりするから下がってていいわよ」
「あっ、カレナさま。さきほどフランツさまの侍女の方から言伝を預かりました。フランツさまより本日の午後にお茶を是非ご一緒に、とのことです」
「わかったわ」
クララが何か言いたげに部屋を出て行くのを目で追いながら、カレナはさきほどの話を思い出していた。
ルードヴィヒとはいったい誰なのだろう。
テオドールの口から出たのだからテオドールやフランツの周辺の人物には間違いないだろう。カレナがラウフェン宮殿を訪れていないことを知った後でルードヴィヒという名前が出たのだから、ラウフェン宮殿にも関係のある人物なのだろう。
ルードヴィヒなる人物の素性どころか手がかりさえも掴めないのだから、ラウフェン宮殿のことを調べるほうを優先させるべきだ。
しかし頭では理解しているのだが、カレナはどうしてもルードヴィヒという人物のことがしこりのように心に痞えて離れない。
ルードヴィヒという名を聞いて感じた不可解な感情は、インクの染みのようにじわりじわりと広がってゆく。
それを排除する術さえ見つからない。
テオドールのあの妙に焦った物言いも気に掛かる。
テオドールの中では、ルードヴィヒという人物と自分は既に出会っているべきなのだろう。自分はフランツの婚姻相手なのだから、ルードヴィヒはテオドールではなくフランツとの関係が深い人物の可能性が高い。
しかし何も掴めていない現段階では、ラウフェン宮殿から調べるしかルードヴィヒという人物を知ることは不可能なのだろう。
丁度タイミング良くフランツに会う機会も出来た。
今日のお茶の席でそれとなく切り出してみよう。
昨日は一日で色々な出来事があり過ぎた。
如何とも表現し難い婚姻相手フランツにテオドールの不可解な発言、見世物のような夜会に真紅を纏った女性の辛辣な言葉。
どれもこれも疲労の原因になるのに十分だった。
始めにどれを解決するべきなのかさえわからない。
しかし、いま一番気に掛かっている事をはっきりさせないと心の中のしこりは確実に肥大していくだろう。
カレナはバルコニーから眼下に広がる美しい景色を眺めながら、どんなふうにフランツに話を切り出すかを考え始めていた。