海に放る
梅が終わった。肌寒い日の続く三月は、別れの季節とも呼ばれる。
僕はマフラーを緩めて、彼女との待ち合わせ場所である海に歩いていた。彼女が待っているはずなど、ないというのに。
彼女は僕の後輩だった。小説家になりたいと言う彼女を、僕は少なからず妬んでいた。純粋な目で小説と向かい合えるなんて、そんなに幸せなことはないだろう。
彼女の小説は稚拙だった。ファンタジーと呼ぶにはいまいちファンタジーになりきれていない世界で、必ず誰かが死ぬ。彼女にとって愛というのは、死の瞬間に見えるそれなのだろう。
車の音を遠くに聞きながら、堤防に上る。やっと広がった海は冷たい色をしていた。
「先輩、こんにちは」
だから、その笑みがどうしようもなく痛々しかった。
「どうして、君は……」
「…………?」
僕が抱いたのは、怒りだった。彼女がここに来たことを、怒っていた。僕は言外に、しかし確かに、来るなと言っていたはずだった。
「僕と会うなんて正気か」
「え、はい、そりゃあ」
「僕が何をしたのか、分かっているのか」
「…………」
彼女は口を固めに結んで、海を見ていた。海鳥がにゃぁと鳴くと、彼女はうっとりと目を細める。
それなら、と思って彼女が揺らすイヤリングに手を伸ばした。びくりと体を強張らせたのが分かって、僕は安堵した。僕が犯してしまった彼女は、確かにこの子だった。
「見ない振りはやめてくれ。どうして僕に会いに来たんだ。あんなことをした僕に」
「それは……その、ボクが先輩に会いたかったからです」
眩暈がした。
***
彼女は部の中でも、小説の話ができる貴重な人間だった。読者ではなく作者として。それもあって、僕らは二人で出掛けることがあった。
喫茶店で原稿を見せ合っては、お互い割と好き勝手に批判し合っていた気がする。気の置けない仲、というわけではない。彼女は常に敬語だったし、僕も僕で、異性を意識しなかった日はない。
だからこそ、素直に好意を向けてくる彼女には、呑み込みきれない想いを抱かされていた。
彼女には彼氏がいた。
ああ、分からない。何とも分からないのは、彼女のするそれは、世に言う浮気なのではないかということだ。
浮気の定義というものは恋人間で定義されるものであり、当然、僕がそこに口を挟む権利などない。だが、この仲を浮気でないと、一切の恋愛心が関わっていないのだと言われるのは僕には心外で、むしろ、これが浮気であれと常に願っていた。
僕は彼女に恋をしていたのだ。
だから、壊れた。
彼女が甘える犬のような目でこう言ったのだ。
「先輩、今度海に行きませんか。夕焼けが綺麗に見える場所があるんです。良かったら先輩にも見てほしいんです」
僕は思った。ああ、君はこんなにも僕を見ていないのだな、と。二つ返事で了解した僕は、どんなに醜い顔をしていたのだろうか、と。
僕だってそう、自分の利益のためなら道徳心など投げ捨てる人間なのだ。皆そうだろう。彼女からの誘いを断れる人間がいるなら、それは聖人か何かだ。
***
その海は茜色に染まっていた。だというのに、僕が彼女の横顔ばかり見つめていたのは、もはや言うまでもないだろう。彼女を差し置いて、どんな海ならば僕の目を奪えるのだろうか。彼女が好きだと言うその海を、僕はついに覚えていない。
ただ、彼女がトートから取り出した原稿、二十三枚に渡るそれは、僕の目を引いた。
「この海を見て書いたんです。ボクの好きな世界って、きっと現実なんです」
それは、ここで読むにはあまりに似合いすぎていた。
放課後を毎日海に費やす少女。少女は現実が嫌いだった。アスファルトのように平坦で、全てがそれに埋め尽くされるような日々。そんな中で海というものは、風一つにも波を立てる。時に来る大波も、ただ凪いだ水平線も、全てが少女のファンタジーだった。
『君はいつもここにいるね』
そう言った『彼』が誰なのか、僕にはすぐに分かった。少女は『彼』の顔さえ見ず、茜色の海を眺めていた。そして話すのだ、少女にとって現実とは何なのかと。
そこで『彼』が言うのだ。
『後ろを見てごらん。君の言う現実に波はないかもしれない。それでも、時にはこんなにも美しい景色を見せるんだよ』
少女の目にいっぱいの、茜色。街が、民家が、信号が、道路が、どれも美しい光の中で輝いていた。
少女は初めて、現実に向かって歩き出した。
読み終えた僕を、彼女は凛とした目で見ていた。
聞きたいことはいくらでもあった。君はもうファンタジーを書かないのか、これは実話なのではないか、『彼』は彼なのだろうか、と。
だが、僕の中で蠢いたのは、どす黒い感情だった。無数の蛇が絡み合うような嫉妬心。お前はどこに行くつもりだと、僕に何を見せたかったのかと、お前は僕のものなんだぞと。
気が付けば僕は彼女の首を絞めていた。きらりとイヤリングが揺れて、彼女の身体は堤防の影に溶けた。先の原稿はばさりと地面に散らばっていた。彼女は声も出せず、微笑んでいたままの表情を変えられずにいる。
首を絞めていた手を放すと、彼女は首を押さえ、肺の奥から咳き込んでいた。だが、僕の感情は止まらなかった。彼女の両手首を掴み、欲望のままに彼女を犯した。全てが終わった後で、彼女は泣きながら、虚ろな目で僕を見ていた。星明りさえ見えようかという夜の中で、服さえ着ようとしない。ただ、先輩、と呼ばれたのが恐ろしくて、僕はその場から逃げた。
あの後、僕は部活を辞め、彼女と会うことはなかった。風の噂で、彼女が退学したとも聞いた。
あれから二年が過ぎた。僕は彼女に一通のメールを出した。
『君に話したいことがある。海に来てほしい』
ただその一行。来るはずもないそのメールを、彼女は受け取った。そして、彼女は再びここに来てしまった。波の少ない海を、僕はまっすぐ見ていた。
「君を呼んだのは他でもない、あの日のことを謝りたかったからだ」
「そうですか」
彼女は淡白な返事をする。
「誤ってどうにかなるわけでもない、それは分かっている。ただ……」
彼女は僕の視線の先、灰色の海に向かって語り出す。
「実は、学校やめちゃいました。あはは、本当ならこの間卒業式だったらしいです。バカみたいですよね、彼氏とも別れちゃいました。……あれからずっと、ボクは退屈な現実を生きていました。きっとボクは、先輩と小説の話をするのが好きだったんです。先輩からメールを貰ったとき、気づいたんです。ボクが向き合いたかった現実は、先輩のいたあの日々だったんだなって、今更。だから会いに来ました」
先輩、と呼んで、彼女は僕に原稿を手渡した。その手は震えていた、が、その目は僕を見ていた。僕は彼女の目に向き合うことができなかった。原稿を受け取ると、僕はそれを読まないままに堤防に飛び乗った。
「先輩、何を――」
「これが、僕の贖罪だ」
だってそうだ、謝って許されるものではないのだから。だから僕は、堤防から身を投げた。原稿を大切に抱えたまま、彼女に向かって、ごめん、と呟いて。
「――先輩!!!!」
海に呑まれる前、彼女がやけに近かった。僕に手を伸ばして、彼女が飛んだ。その手が繋がることはなく、全てが消え去った。
***
僕らは死ななかった。近くを歩いていた住民の通報で、どうにか救助が成功したらしい。しかし、彼女は無事ではなかった。頭を打ったのか、それとも溺れた影響か、彼女は記憶を失っていた。神様がいるなら、贖罪の機会でも与えたつもりだろう。自分の行いを全て打ち明け、彼女のために生き直すのだ、と。
だが、彼女と再会した僕はこう告げた。
「君は僕の後輩で……僕の恋人だよ」
僕は今度こそ、彼女をファンタジーに放り込んだ。