宵雨佳肴譚~早すぎた酒~
僕が手にしたタンブラーを拭き終えるころ、スピーカーから流れるジャズは、軽やかなピアノの音色に切り替わっていた。
ボリュームは控えめにしてあるから、窓のないこの店の中にも、アスファルトを叩く水音が聞こえてくる。季節の変わり目のせいか、容赦ない降りだ。
開店から今の時間まで、客はカウンターに一人だけ。ちょうど降り始めくらいに来ていたから、濡れずにすんでいたようだ。
こういうのを「やらずの雨」って言うんだっけ。
国語の授業では寝てばかりいた僕も、お客さんの"特別授業"おかげで、取りこぼしていた雑学を拾うことができた。バーテンダーという仕事の、副産物のようなものだ。
グラスを棚にしまいながら、僕はカウンターの隅に座る客を、さりげなく目の端で確認する。
恰幅のいい、四十代くらいの男性。
スツールの小さな座面から、はみ出すほどの大きなお尻と、スーツの縫い目がほつれそうに張り詰めた背中、カウンターと接するほどに膨れたお腹。
小さなチューリップのような形のテイスティンググラスを、太い指で唇に持っていき、うっとりした表情でスコッチを味わっている。
彼は、この店初めての常連さんだ。
今から三ヶ月くらい前、僕がここにバーを構えてから、一週間に一度か二度のペースで足を運んでくれていた。
開店当初は、以前勤めていたバーの顔なじみが来てくれたけど、一人減り、二人減りして、今はほとんど寄り付かなくなった。
愛想をつかしたわけじゃないのは、分かっている。
みんな、かなり遠い町から、無理を押して来てくれていた。新規開店のご祝儀みたいなものだ。
ここからは、この店の実力が試されることになる。
もちろん不安はある。むしろ不安しかない。
先輩の店の手伝いやホテルのバーカウンターに勤めていた頃は、ある意味気楽だった。
店の方向性にあわせて、自分の接客に気を使っていれば良かったんだから。
今やこの小さな店の浮沈は、僕の行動に掛かっている。売り上げが悪いのも、客の入りが悪いのも、ぜんぶ自分が責任を持たなきゃならない。
だからこそ、店の内装にはそれなりにこだわったつもりだ。
壁紙はつやを消した白で、腰壁の部分はマホガニー色に塗った板で装飾してある。床材も同じ色の木材を使ったから、施工費がだいぶ増えてしまった。
店の顔でもあるバーカウンターは、閉店する先輩の店から譲り受けた。
お下がりとはいえ、黒檀を使った高級品。無料でいいと言われたけど、さすがに悪いのでローンを組んで返済している。
座席はカウンターが六席、足の高い丸テーブルが三卓。店の空間を広めに取ったのは、立食パーティや、結婚式の二次会にも使えるようにという思いつきからだ。
その他にも照明や空調に冷蔵設備、グラスや皿、カトラリー一式、忘れちゃいけない各種酒類なども含め、目玉が飛び出そうなほどの資金が必要だった。
ささやかだけど、出来る限りの贅を尽くした僕の城。一日でも長く、叶うならカウンターに立てなくなる日まで、続けていきたい。
時刻は午後八時を少し回っていた。
お客さんのスコッチは後二口分くらいだろう、無くなったタイミングで、さりげなく注文を聞いて――。
空気が揺らめき、目が戸口のほうへと吸い寄せられる。
さわ、と鳴る雨音と一緒に、新たなお客さんが入り込んでいた。
「いらっしゃいませ」
僕はあらかじめ用意しておいたタオルを手に、カウンターの脇から歩み出る。
濃紺のスーツに身を包んだ青年。年のころは二十歳を少し超えたぐらいに見える。きれいなままのラペルの折り目や、ワイシャツの状態からすれば、勤め始めて一年弱ってところか。
「雨の中大変でしたね。こちらをお使いください」
「……す、すみません」
小さな折り畳みの傘では、とても守りきれなかったのだろう。肩口やズボンのすそが、濡れてくすんでいる。湿り気を取り終わったタオルを受け取って、僕はそのままカウンターの奥へと戻った。
身なりを整えた青年は、店の中を興味深そうに見回している。
おそらく会社帰り。側に立ったときに酒の匂いはしなかったから、素面のままここに来たのは明らかだ。
まず間違いなく、バーというものに生まれて初めて入った人間だ。
「お好きな席へどうぞ」
そんな言葉を掛けながら、僕は右半身をわずかに背後へと送る。青年は少し悩んだ後、常連さんから三脚空けた場所に腰を下ろした。
お客さんを席に誘導する方法はいくつもあるけど、店が混んでいないようなら、僕はこういうやり方を使う方が好きだった。
今みたいに別の客がいる場合は、大抵は距離を保つように動くのが人の常。
そして、自分の体を『壁』として使うことで、お客さんの視線を開けた体の側、見かけのスペースが広い場所へと向かわせることができる。
手で場所を示すのは動作がうるさいし、なにより『客自身が選んだように』見せられるのがいい。
バーテンダーは執事のように振舞え、というのが、師匠にあたる人の口癖だった。
『客には礼儀正しく。だが、こっちがもてなす側だってことは忘れるな。相手の望みを叶え、こちらが提供するサービスを気に入ってもらう。それが最上の店だ』
実際には、こんなテクニックを使うことはほとんどない。大抵のお客さんは、店に入ったときから自分の座りたい位置を決めているものだ。
気づかれなくても良いから、初めてのお客さんにカッコつけてみたかった、っていうのが本音だったりする。
おしぼりとコースターを客の前に置き、灰皿を添える。吸う人かどうかはともかく、バーでは細かいゴミが出ることも多いから、念のために。
「ご注文はお決まりですか?」
「その……メニューとかは、置いてないんですか?」
「失礼しました。こちらをどうぞ」
以前のバーには、メニューを置かない店が多かったと聞いている。こういう店に来る人間は、何を飲むか"心得ている"から、ということだったそうだ。
だが、時代は流れ、お酒は娯楽の一角から転落した。
酒造メーカーは、軽くて甘いお酒で人の心をつなぎとめようと躍起になり、バーも明朗会計と、分かりやすさを押し出すようになった。
僕もそれでいいと思っている。無駄に敷居を高くするより、お客さんに楽しくお酒を飲んでもらうほうが大事だ。
お客さんはメニュー表を何度かめくり返したあと、カクテルのページで手を止めた。
そして、おずおずと注文を告げた。
「すみません、このマティーニ、っていうのをお願いできますか」
「――かしこまりました」
本当に大丈夫ですか?
そう聞き返したい気持ちをぐっとこらえて、僕は黙って準備を開始する。
マティーニ。
カクテルの定番にして、最もメジャーな一品。
ベースとなる酒はジンで、ベルモットを適量混ぜて作る。レモンピールで香り付けする以外は、かなりシンプルな部類に入るカクテルだ。
海外の映画によく登場するから、名前だけは知っている、という人も結構いるだろう。というか、僕の友人にも結構な割合でいた。
そして、バー初心者が『事故』を起こしやすいのも、このマティーニだ。
大き目のビーカーのような形をしたミキシンググラスに、氷を半分ぐらい入れて、水を同じぐらい入れる。
カクテルグラスにも目一杯、氷を詰める。
冷凍庫から霜のびっしりついたジンのボトルを取り出し、ベルモットを隣に置く。
マティーニは、きりりと冷えた口当たりが特徴とされる。
材料もグラスも、出来る限り冷やすのが作法だ。人によってはベルモットも冷凍庫に入れるらしいけど、僕は師匠に教えられれたやり方を踏襲していた。
細長いバースプーンをミキシンググラスに差し込み、くるりとひとまわし。
それから再び、くるり、くるりと中身を撹拌していく。
氷がささやく様な音で鳴り、温度差によって靄のような対流が浮かび上がる。
スプーンを抜き、ステンレス製のふたをすると、端の注ぎ口から水だけを捨てた。カクテルグラスの氷もシンクに捨て、軽く振って水を切る。
ここまでが下準備。
バーで使う専用の軽量カップは、大きさの違うカラーコーンを、頂点のところで接合したような形をしている。
大きなほうにジンを目一杯入れ、ミキシンググラスへ注ぐ。それから、反対側の小さいほうにベルモットを入れて、同じくグラスの中へ。
目分量で注ぐ方が、細かい味の調整ができていいという意見と、味がぶれるからやらないほうがいいという意見がある。僕は基本的に後者だ。
そして、もう一度バースプーンを差し込んで、かき混ぜる。
スプーンの指揮に従って二つの酒が踊る。ジンの透明が姿を隠し、ベルモットの黄色が全体に染み渡ったところで、手を止めた。
再びふたをして、中身をカクテルグラスの中に注ぐ。
レモンピールを軽くひとしぼりして、香りを付ける。
最後に、用意しておいた種抜きのオリーブをピックに刺し、グラスに沈める。
お客さんのコースターをこちらに引き、カクテルを載せると、静かに押し返した。
「お待たせしました、マティーニです」
青年はちょっと意外そうな顔で、できあがった一杯を見、それから疑問を口にした。
「これって、振ったりしないんですか?」
「はい。マティーニは"ビルド"といって、ミキシンググラスの中で混ぜて作るんですよ。例外的にシェイカーで振って作るタイプもありますが」
そっちはベースをジンではなく、ウォッカにする。某スパイ映画の主人公が注文して有名になったやつだ。
なみなみと注がれたカクテルを眺め、少しためらった後、お客さんはグラスに顔を寄せるようにして、一口、すすった。
「――っ!?」
眉を寄せ、目を細めて、どうしようといった表情で、顔を引く青年。
僕は心の中で、申し訳ないと、そっと呟いた。
マティーニはその知名度に反して、人を選ぶカクテルだ。
ベースになるジンのアルコール度数は平均四十パーセント、あわせるベルモットも十四から二十度くらいはある。
その上、ジンには独特の香りがあり、口に含んだときに強烈に主張してくる。アルコールの香りを増強するような形でだ。
お酒をたしなんでいるタイプでも、臭くて飲んでいられないという人もいるほど。バーの初心者が手を出すのはお勧めしない。
僕は小皿にナッツを盛り、もう一枚コースターを出して、お冷と一緒に提供する。
軽く会釈すると青年はナッツを口に入れ、目の前の液体をどうするか、悩み始めた。
バー初心者に対してどう振舞うか。
それはバーテンダーにとって、永遠の課題だ。
無茶な注文をする相手をたしなめ、別のお酒を勧めるか?
お客の要望を受け入れ、注文どおりにお出しするのか?
答えはどちらもイエスであり、ノーでもある。
お客さんには、自分が飲みたいものを飲む権利がある。
親切心からでも、それをさえぎるわけには行かない。最初の一口でマティーニを気に入る人だっているからだ。
そして、お客さんがバーに来るのは、快い体験をするためだ。
最初の一口で嫌な思いをすれば、それが最後の一口になることだって、少なくない。
この問題には、僕なりの解答がある。幸い、今日はお客さんも少ないし、このまま席を立たれなければ実行する機会もあるだろう。
「すまんが、注文良いかな」
それまで黙々とグラスを傾けていた男性が、軽く片手を挙げていた。すでにグラスの中は空になってる。
「はい、何にいたしましょうか」
バックバーには彼好みのウィスキーが幾本も並んでいる。最初にジントニック、それからスコッチを数杯、それがお決まりのコースだ。
「儂にも一杯、作ってもらおうか。マティーニを、古いスタイルで」
僕は思わずお客さんを見た。酔いで頬を赤く染めた丸顔。気負いもなく、ただ飲みたかったからという風情だ。
「かなり甘めになりますが、よろしいですか?」
「ああ」
僕は言われた通り、マティーニを作り始める。
ただし、先ほどとレシピは変わる。
今度はベルモットを二、ジンを一。ミキシンググラスで静かにかき混ぜ(ステア)し、
グラスをオリーブで飾り、レモンピールで香りを付ける。
「お待たせしました、オールド・マティーニです」
正確に言えば、オールド・マティーニというのは俗称のようなものだ。本来のマティーニはベルモットを多めに、ジンをその半分か、それよりも少なめにする。
さっき作ったのはドライ・マティーニと呼ばれるもので、本来はあっちが亜流だ。
太い指がカクテルグラスを引き寄せ、ついっと中の液体を干していく。青年の方は一連のやり取りに、興味を引かれた様子で見つめていた。
「そちらのマティーニ、オールドでお作り直ししましょうか?」
「……いいんですか?」
「お代は一杯分でかまいませんので、よろしければ」
お客さんが頷き、僕はもう一度、同じ工程を繰り返す。計量カップを使うのは、こういうことに対応するのが楽だからという理由もある。
もう一枚コースターを置き、仕上がった一杯を差し出す。
そして、こう付け加えた。
「良かったら、味を比べてみてください。あとは、適当なころで脇に除けくだされば」
「すみません……なんか迷惑かけちゃって……」
「いいえ。お客さんに喜んでいただければ、それに越したことはないですから」
本来なら二杯分のお代を貰うところだけど、こういう場合は特別。お客さんの要求を受け入れて、ダメそうなら助け舟を出す。
この対応が、バー初心者に対する僕なりの答えだ。
最初の一杯は無料、なんて気前のいい事を言えたら良いんだけど、そこまで余裕があるわけでもない。
新しいグラスを受け取り、彼は用心しながらマティーニに口を付ける。
納得したようにもう一口すすり、それからドライの方を確かめた。
「やっぱり、こっちの方が良いみたいです。済みませんけど、これは下げてください」
「はい。ありがとうございます」
グラスを受け取り、音を立てないように中身を始末する。
それにしても、本当に助かった。
オールド・マティーニは自分からも提案するつもりだったけど、同じマティーニで失敗している手前、相手も身構えてしまったはずだ。
おそらく、あのお客さんはそれを承知で、注文を入れてくれたんだろう。
「なんか、想像してたのと違いますね、カクテルって」
「そうですね。マティーニは食前酒として飲まれていたんで、本来甘口だったんですよ」
ドライ指向はビールに限ったことじゃない。飲兵衛は強い酒が好きだから、カクテルのレシピも自然と度数が高い辛口になるんだよな。
「甘いのかぁ……俺、大学の頃は居酒屋のモスコとか、カラオケ屋のカルアしか飲んだことがなくて」
「それだと、確かに他のカクテルも甘いのを期待しちゃいますよね。うちでも作れますけど、いかがですか?」
「そうだなぁ」
すでにお客さんはグラスを空にしている。顔色もそれほど変わっていないし、お勧めしても大丈夫だろう。
「思い浮かばなかったら、イメージだけでも言ってもらえれば。甘いのとか、辛口のとか……クリームや果物を使ったのもありますよ」
青年はカウンターの端に視線を送り、太っちょのお客さんが対面しているボトルを見て言った。
「スコッチって、置いてありますか」
「うちのバックバーは半分くらいがスコッチとバーボンです。あとはラムとテキーラ、シェリーも何本か」
「じゃあ……マスターのお勧めで、スコッチお願いします」
なかなかチャレンジャーなお客さんだ。
頼んでくるお酒からすると、普通の居酒屋では飲めないものを攻めるつもりらしい。
とは言え、スコッチもあまり初心者向けのお酒じゃない。
度数は平均三十五から四十度、中には五十度越えのキツイものさえある。
このお客さんは最初から強いカクテルを飲んでいたから――。
「それじゃ、ハイボールはいかがですか?」
「ハイボールって……居酒屋さんとかにある、あれですか?」
「ええ。もちろん、使うのはスコッチですけど」
青年は黙って頷き、僕はバックバーから一本の酒を取り出した。
「スコッチといっても、大まかに言って"シングルモルト"と"ブレンデッド"の二種類があります」
手にしたのはライチョウの絵のラベルが貼られた、ブレンデッドウィスキー。
その銘の通り、とても"有名"な一本だ。
「これは、スコットランドでメジャーな銘柄で、いくつかのウィスキーを混ぜて造られています」
「なんで混ぜたりするんですか?」
「理由はいろいろですけど、味のバランスを取るのが大きいですね」
単一のスコッチのみをボトリングする"シングルモルト"は、個性的な味や香りを持っているが、それだけでは弱い部分もある。
そこで、職人たちは理想の一本を作るべく、スコッチをブレンドしてきたわけだ。
ハイボールは、おそらく日本で一番有名なカクテルだろう。
居酒屋で、適当に安いウィスキーとソーダを混ぜて、チューハイの一種のように提供されているのも知っている。
そのことに思うところはあるけど、バーテンダーとしては『そんなもどきで満足してもらっちゃ困る』の一言に尽きる。
作り方はこれまたシンプルだ。
氷を入れたロンググラスの底にウィスキーを満たし、氷に当てないよう、静かに、静かに炭酸水を注ぐ。
後は、バースプーンを使い、厳かにかき混ぜるだけ。
それでも、粗雑に混ぜた物とは、まったく違う仕上がりになるんだ。
「どうぞ、ハイボールです」
お客さんは、さっきよりも無造作にグラスに口を付ける。だいぶこの場の雰囲気にも慣れてくれたようだ。
一口飲み、そして二口、何かを考えるようにしながら、するすると飲んでいく。
「なんていうか……思ったより普通に飲めるな……」
「癖のない味に仕上げたお酒ですからね。シングルモルトの場合は、強烈な味や香りがするのも多いですよ」
世界にはたくさんの蒸留酒があるが、ウィスキー類はさまざまな理由で、複雑な香りや味が付く。熟成に使う樽の移り香や、仕込み水、製造工程など、要因はさまざまだ。
「……なんか、ちょっと焦げたような匂いが、する……かも」
「泥炭香、ですね。スコッチの原料になる麦芽をいぶした時につく香りですよ」
「ピートかぁ……ふーん」
そのまま、お客さんはごくごくとハイボールを飲み進めていく。
炭酸水を使ったロングドリンクは、マティーニのようなショートカクテルと違い、さらっと飲み干せるのが理想だ。
それでいて水っぽくならず、酒自体の持つ風味はしっかりと残すのには、それなりの腕がいる。ジントニックやハイボールを飲めば、バーテンダーの腕が分かる、なんてことを言われるぐらいに。
「すまんが、灰皿をいいかね」
こちらの接客が一段落ついたところで、新たな注文が入る。太目のお客さんは、カウンターの上に、黒革の細長いケースを取り出していた。
「それと、こいつをもう一杯」
「かしこまりました」
出しておいた丸い灰皿を下げ、代わりに縦長のものと取り替える。
示されたスコッチを新たなグラスに注ぐ間、お客さんは儀式めいた仕草を始めていた。
ケースから取り出したのは、つやりと光る茶色の葉巻。
吸い口をシガーカッターで切り落とし、ストローぐらいはある長いマッチを、慣れた手つきで点す。
控えめな照明の下、太い葉巻がくるくると、同じぐらい太い指で器用に回され、オレンジ色の炎にあぶられていく。
手にしたマッチを一振りして火を消し、おもむろに葉巻をくわえた。
「失礼します」
深い琥珀色の液体を目の前に滑らすと、彼は目で会釈してから、満足そうに白煙を吐き出した。
こう言っては何だけど、このお客さんの時代錯誤ぶりは、感心するほどだ。
ダイエットなんて関係ないと言わんばかりの肥えた体。聞けば、この辺りのレストランや食事処は、すでに評価を済ませているらしい。
飲む酒も蒸留酒が中心で、ワインやビールは水代わりと言ってはばからない。その上、洋の東西を問わず、甘いものも大好物だそうだ。
そして、年々肩身が狭くなっていく喫煙という趣味を、こうして慈しんでいる。
美食、美酒、喫煙。
人の身に許された合法の悪徳を、存分に楽しむ、現代の風狂人だ。
「葉巻は、珍しいかね?」
気がつけば、彼は青年のほうに顔を向けていた。いきなり話しかけられて驚いたのか、彼は黙って頷いていた。
「近頃は、紙巻から香料ふんぷんの電子タバコに鞍替えする者も多いと聞く。こういう古いスタイルも、いずれは駆逐されていくのだろうな」
「電子タバコは、吸わないんですか?」
「儂が葉巻を吸うのは余暇を楽しむためで、ニコチンを摂取するためではない。香り付きが吸いたいなら、水タバコでもやるさ」
肉厚の頬をすぼめ、先端の赤を強く輝かせると、区切りのように白煙を吐き出す。
煙の帯が、細くたなびいて、店の空気をかすませた。
葉巻の煙は、紙巻のそれとは趣が違う。
甘く、重く、鼻の奥にしっとりと染み入る香気がある。
僕はタバコが好きではないけど、葉巻の香りは前から気に入っていた。
弱い照明が紫煙に陰り、スピーカーから流れる低音のサックスが、穏やかで、どこか眠たげな空気を醸し出していた。
風狂人は、それ以上話しかけることもなく、ただ静かに紫煙をくゆらせ、とろりとした琥珀の一杯を口にする。
青年も腰を落ち着けて、何も語らずに酒を干していく。
僕は控えめに、カウンターの影に控えて、静かに待ち続ける。
誰に気兼ねをすることも、邪魔されることもなく、ただ憩うことを楽しめる場所。
それが、僕にとっての『バー』だった。
「さて、最後にもう一杯もらおうか」
「何にいたしますか」
葉巻の先に着いた円筒形の灰を、折るようにして取り除けると、彼は珍しい注文を口にした。
「ギムレットを。味は任せるよ」
僕は了解し、準備を始める。
ギムレット――最後に持ってくるには、意味深な一杯。
ライムジュースとジン、材料はそれだけだ。
本来のレシピではライムジュースはかなり甘めのものを使う。日本では、搾ったライムにシロップを入れて調整することが多い。
今回はライムとジンだけで、辛口に仕上げることにした。
ジューサーでライムを搾ると、さわやかな香りが辺りに立ち上る。用意したシェイカーに、ジンとライムの果汁を入れて、氷を適量投入する。
シェイカーのふたを閉じ、両手で包み込むようにして持つと、僕は振るい始めた。
『音を立てようとするな。音は自然に出るもんだ』
シェイカーは、ただ振ればいいというものじゃない。
中の液体が絶妙に混じりあい、氷からどれだけの水分を得るのかをイメージする。
そして、どれだけ空気を含ませるかも、重要なポイントだ。甘みを入れない分、シェイクで調整をしなくてはならない。
振るごとに味は刻々と変わっていく。
最良の一杯を求めて、丁寧に、慎重に、休みなく――。
しゃっ、と手の動きを収め、すばやくふたを取ると、カクテルグラスへと注ぐ。
飾りも何もない、薄く白濁した一杯を差し出した。
「お待たせしました、ギムレットです」
彼は黙ってそれを受け取り、グラスを顔に寄せる。
香りを確かめ、唇を付けて一口吸い、頬をわずかに動かした後、納得したように、中身を一息に空けた。
太い喉をぐびりと鳴し、杯を干すと、彼は満足げに笑った。
「美味しかったよ、ご馳走様」
「……ありがとうございます」
「それでは、勘定を頼む」
レジ代わりのタブレットを打ちながら、僕は彼の締めの一杯を気にしていた。
カクテルを最後に持ってくるのは、それほど珍しいことじゃない。
それでも、こういう人の場合、飲む一杯に何かの意味を持たせてくることも、十分にありえた。
「お待たせしました」
示された代金を確認し、お釣りの必要もなく支払いが済まされる。
ふらりと歩き出した彼に、僕は思わず声をかけていた。
「また、よろしくお願いしますね」
彼は振り返り、太い顔にいたずらな笑みを浮かべて頷いた。
「なるべく早めに顔を出すよ。長くは待たせんさ」
内心の動揺を押し隠して、僕は軽く会釈を返した。
「ありがとうございます。お気をつけてお帰りください」
叫びだしたい気持ちを必死に抑えて、僕は音を立てて閉まったドアから目をそらした。
完全に、僕の弱気を見透かされてしまった形だ。
とはいえあんな注文をされて、未だ先行き不安な新米のマスターに、動揺するなというのが酷な話だ。
穴があったら入りたいってのは、こういう時に使うんだろう。
「あの、すみません」
「は、はい。ご注文でしょうか?」
青年は少し考えて、それから意外なことを口にした。
「さっきのお客さんって、常連さんですか?」
「はい。開店してからよく来ていただいていますけど……」
「もしかして、どっかに転勤とかするんですか?」
どうやら、さっきのやり取りに疑問をもたれてしまったらしい。会話の流れからしたらそういう受け取りかたもあるだろう。
「そういう話は聞いていないですけどね。ところでお客さん、どうしてうちに来てくださったんですか?」
「えっと……自分のやってるスマホゲーに、お酒とかカクテルの名前の付いたキャラが、結構いるんです。それで、どんなのかなって」
なるほど、そういうことか。
動機はどうあれ、間口が少しでも広がるのはありがたい。
「そうですか。自分なんかは映画とか小説で出てくるカクテルがきっかけでしたね」
「へー。たとえばどんなの?」
僕はお客さんの残していったグラスを片付けながら、その逸話を口にした。
「さっきの方が最後に飲んでいかれたのも、有名な一杯ですよ。古い探偵小説に出てくる……別れのカクテルです」
お客さんは興味を引かれたようで、こちらに先を促す。
自分の恥をさらす様で、あんまりいい気はしない。それでも、もう一杯ぐらい飲んでもらえるなら、それでもいいか。
「"長いお別れ"、それが小説のタイトルなんですが――」
その後、その青年はちょくちょく顔を出してくれるようになった。
太目の風狂人も、約束通りに姿を見せてくれた。
僕の店が、いつまで生き延びれるかは分からない。
それでもまだ少しの間は、薄暗く煙る心地のいい場所を、守っていけるだろう。
■作者からお知らせ
作中のバーテンダーが行っているサービスは、あくまで彼の独断です。どこのバーでも行っているものではないので、サービスの強要などはなさらないようにお願いします。
なお、未成年の飲酒、喫煙は法令で禁止されておりますのでご注意を。また、飲める方も適量を心がけてください。