第七章 あんごの一跳ね
いよいよ『震電』に翔子が乗り込む。
まずは先人にならい、簡単な操縦から始めたが──
翔子の事だからそれだけでは終わらない。
岩和田の部下である准尉達を巻き込んで、また無茶な行動をとろうとする。的な話です。
第七章 あんごの一跳ね
「翔子さん、もう乗り込んでも大丈夫ッスよ。コイツ何だかいつもより調子いいみたいッスから、ガンガン動かして大丈夫ッス」
馴染みの整備士が翔子に気安く、だが叫ぶように声をかけた。叫ぶくらいの大声でなければ数m先の相手にも声が届かないのだ。2000hp級エンジンが動いている側では。それだってアイドリングの状態だからこそ聞こえるのであって、エンジンを全開にしていたら、耳元でないと言葉は通じないかも知れない。
それよりこの整備士は翔子の事を「翔子さん」と呼んでいる。
茂原基地では翔子を名前で呼ぶものは701のメンバー以外ではごく少数だったが、ここ成田基地では当たり前のように、結構多くの者が名前で呼んでくる。もちろん呼び捨ての奴なんかはいない。この基地で彼女が呼び捨てにされる場合は、上官が名字で呼ぶ時に限られていた。まあさくらを除けば。
「むぅ~~、最初っから私がやりたかったのに~」
脚立を降りてくる整備士に向かって、翔子が非難の声を上げる。エンジンの始動を整備士に取られてしまった事が悔しかったのだ。これからいくらでも自分でやれるんだから、とさくらが宥めるも、翔子は頬を膨らませたままだ。
「すいませんッスね。でも暖機の時は整備士が責任持って始動させろと厳命されてるもので、岩和田少佐から」
「またあいつぅ~。今いないんだから、誰かが言わなきゃ分からないじゃない」
脚立から降りきり、頭を下げた整備士に口をとがらせ、子供のような文句を言う翔子。またも岩和田少佐に邪魔されたのかと、誰かにその不満をぶつけずにはいられなかった。しかしそんな様子が可愛かったものだから、その若い整備士(と言っても翔子達より少し年上)は、笑顔を浮かべながらもしきりに頭を下げ謝った。それで翔子の気が済むのならと。がそれを見かねたさくらが、さっさと試験を始めるよう促す。
「2人とももうそれくらいにして、そろそろテスト始めよぉ。一回暖機してあったから、もういい感じで暖まってきたみたいだし。何よりこの整備士さんのせいじゃないでしょ。だったらいつまでも怒ってないで……」
「分かってるわよ。さくらまで私を子供扱いして…でもそろそろ良いみたいね。エンジン音で『震電』が教えてくれてる」
エンジン音でお互いの声は聞き取りにくくなっているが、『震電』の声は鮮明に聞こえた。翔子の心に直接響いてくる。「早く飛ぼう」って。
「それじゃっ、早速飛んでみましょうかねぇ」
翔子は誰にも聞こえるよう(ただし基本は『震電』に向けて)元気よく言い放つと、背の高い脚立を登りだした。そして改めて思い知らされる。『震電』のコクピットが異様に高い所にある事を。
登り切りコクピットに片足を突っ込んだ所で周囲を見渡す。すると本当に2階からの眺めのように遠くまで見え、地上にいるさくらたちが予想以上に小さく映った。
風はほとんどない。それを滑走路脇の吹き流しが教えてくれた。しかし翔子の長い黒髪は後ろになびいている。回転数は抑えていても、それだけプロペラが起こす強い風に引き寄せられているのだ。もしエンジンを全開にしたら髪がバタつくどころか、体ごと持っていかれるかも知れないとある種の恐怖を覚える。それくらい『狼星』エンジンと、そのパワーを吸収できる6翔のプロペラは強力だった。
「あなた本当は爆撃機じゃないの?」
シートに座りながら翔子は『震電』相手に冗談を言う。すると『震電』は機嫌を損ねたかのように、瞬間エンジンを荒々しく吹かした。
私は爆撃機を墜とすために生まれた。その私が爆撃機な訳あるか、と言いたげに。
「ゴメンゴメン、言い過ぎた。でも私もあなたも規格外だから、なんか親近感湧いちゃうのよねぇ。だからちょっと冗談言いたくなっちゃった」
翔子は謝りながらシートベルトでしっかり体を固定する。もちろん安全のためではあるが、コクピットの座席は基本男性サイズで作られている。のでいくら長身の部類に入る翔子とはいえ、がっちり固めておかないと、飛行中体がずれて危ないのだ。第一体の線は男性程太くないし。
701等に供給される機体は幾分調整されているからあまり問題にならないが、それでももっとも小柄なメンバーはいつも苦労すると言っている。
まあ今は関係ない話だが。
『震電』は、分かればいい、といった感じに先程よりは小さくエンジンを吹かす。翔子にはそれが何か分かっていたが、地上にいる者達はその瞬間的なエンジンの挙動に、翔子がわざとやっているのか、それとも今になってエンジンの調子が悪くなったのかと、あれこれ考えていた。がそんな声は翔子には聞こえない。自分と『震電』、2人だけの共通認識があれば良かったのだ。
計器や動翼などのチェックはすっかり済ませ、暖機も充分。しかし肝心の滑走路の使用許可が下りない。ガソリンがもったいないから一旦エンジンを切ろうかと思った矢先、ようやく本庄准尉が走って戻ってきた。
「使用許可、下りちゃいましたよー。思う存分やれって言ってましたから。テスト始めちゃって下さーい」
息を切らせて准尉が走って戻ってきたのは、許可自体はあっさり下りたものの、書面にするのが手間取り、遅くなってしまったと感じていたからだ。その書面を高く掲げ、許可が下りた事を少しでも早く知らせようとしながら。
「はぁっ、はぁっっ。最後の階段さえなければ、こんなに疲れるはずないのに……」
皆の側までやって来た本庄准尉が燃料切れとばかりに、手足を投げ出して座り込んだ。体力には自信がある方だったが、流石に5階分の階段を駆け上がるのはしんどかったのだろう。
「お疲れ様、礼子ちゃん」
西准尉が労いの言葉をかける、下の名前で。それに対し息を切らせながらも本庄准尉は文句を返した。
「他所では名前で呼ばないでって、いつも言っているでしょう。それなのにあなたはいつも一回は忘れるんだから……」
「ゴメンね。どうしても気が弛むとダメなんだよね」
屈託のない笑顔で舌を出しながら謝る西准尉。反省はしているが、本庄准尉が何故そこまでこだわるかは今一理解していないようだ。そんな西准尉に呆れながらも付き合いをやめたり嫌いにはなれない本庄准尉。何だかんだ言っても気の合う2人であったのだ。
「しょおこ~、いけるみたい~」
本庄准尉が帰ってきた事に気付いていなかった翔子に、許可が下りた事を知らせるさくら。その声が聞こえた翔子は了解のサインを返し、気合いを入れ直して再び計器のチェックを始めた。
その一連の様子に連動するかのように西准尉も、
「礼こ…もとい、本庄があんな様子ですから、私が管制に入ります。不慣れではありますが、一所懸命努めさせてもらいます」
と言って敬礼し、試験隊詰所最上階にある専用の管制室に向かって駆け出す。まだ息が整っていない同僚の事を心配しながらも、その同僚の分まで自分達航技研試験飛行部としての仕事に取りかかった。
整備士達も輪止めを外す用意をしたり、誘導するために『震電』の前方で構えていたりする。残りの者は安全範囲まで待避した。
これで少なくとも地上の足並みは揃ったようだ。
それらを確認した翔子はブレーキを思いっきり踏み込み、「チョーク払えっ!」と輪止めを外すよう指示を出す。その声に整備士達が一斉に輪止めを外し、さっと『震電』から離れる。そして誘導役の整備士が指示棒を振り、進路がクリアである事を示した。
「よーし、それじゃ行こう、『震電』っ!」
万事準備が整ったと翔子はさくら達、周囲で見守ってくれている皆に笑顔で手を振り、テストの開始を宣言する。
「がんばれ~」
さくらが全身でそれに応え、整備士達もそれぞれのやり方で応援している。ようやく立ち上がる元気の出てきた本庄准尉も深々と頭を下げ、『震電』をよろしくと言っているようだ。
しかし──とりあえずジャンプ飛行を行うだけなのに、何か大記録にでも挑戦する者にかけるレベルの声援を受け、翔子は何だか急に気恥ずかしくなり、顔を真っ赤に染めていた。意気込みが強かっただけに、その恥ずかしさも半端ではない。『震電』まで笑っているかの様に機体を振るわせた(ように翔子には感じた)。
のでそそくさとブレーキを緩めて、一刻も早くこの場から離れてしまおうと『震電』を前進させた。
長い誘導路を抜け、31番こと乙3号滑走路の端まで来ると、この滑走路がいかに長いかが分かる。反対側の端が陽炎の向こうでぼやけていた。
管制室からの指示を待っていると、隣の甲1号滑走路に「2式戦闘機『飛燕』」が次々と降りてきた。尾翼の番号から512飛行隊のものだと分かる。
『飛燕』は基本制空戦闘機なのだが、その高い高々度性能から防空用に配備している部隊も多い。512飛行隊でもそうだった。その『飛燕』は各小隊ごとに12~14番滑走路に分かれて降りてきたため、ものの数分とかからず1個中隊全12機が無事着陸し、その練度の高さを見せつけている。
流石空軍総本山を根拠地としている部隊だと翔子が見とれていたら、無線から翔子を呼び出す声が聞こえてきた。
「立花少佐、聞こえてますか? 今日甲1号滑走路を使う部隊はもうないそうです、何か起こらない限りは。ですから存分にテストしちゃって大丈夫ですよ」
管制室の西准尉から滑走路を安全に使える事が伝えられる。無線が新型なのか、その声は鮮明に聞こえた。
これでしばらくの間は思う存分あそべ……いや試験に没頭できるという事だ。
そうと決まれば1分1秒も無駄にしていられない。既に15:00を回っていて、岩和田少佐の言葉を借りれば、安全に今日のテストを行えるのはあと2時間程。
翔子は気合いを入れ直して、
「了解。今からジャンプ飛行の試験を始めるから、何かあったら教えてね」
と返答する。
そしてブレーキを目一杯踏み込んで、エンジンと排気管のススを吹き飛ばすため、一時的にスロットルを全開にして、エンジンの回転数を最大まで高めた。すると『狼星』が今までに聞いた事がない声で吼える。まるで本物の狼が自分の側で咆吼するように、機体と魂を震わせて。
また『震電』の新たな一面を知れて翔子は嬉しくなった。まだ自分の知らない『震電』は沢山あるに違いない。そのためには一緒に飛んでみなくてはと、これからの試験に心が躍らずにはいられなかった。
翔子は一旦スロットルを絞り、これから行うジャンプ飛行に備える。そして管制室に最終確認をした。
「それではジャンプ飛行の試験を行いたいと思います。よろしいですか?」
「了解です。主管制からも着陸予定機の情報は来てませんので、頑張って下さい」
「了解。では立花少佐、『試製震電』、いきますっ!」
そう言うとブレーキを放し、ジャンプ飛行に充分な速度が得られるだけスロットルを開いた。すると次第に速度が増してくると同時に、ノロノロ誘導路を走っていた時とは比べものにならない程のトルクが翔子を襲った。
「うおっと。聞いてはいたけど、トルクきつっ!」
排気量41.6L、回転数最大3000rpm、最大ブースト+500㎜Hgに達する『狼星』2X型2200hpの出力を吸収する、直径3.4m6翔プロペラが生み出すプロペラトルクは、予想以上に大きかった。
翔子は『狼星』より大排気量高出力のエンジンを積んだ機体に乗った事がない。
いや厳密には『試製雷電』が積んでいた『火星』は『狼星』より、わずかながら排気量は大きい。だが最大ブースト圧の関係で、実際に送り込まれる空気量は『狼星』の方が上回っている。そのためエンジントルクも『狼星』の方が大きくなる。その上回転数の関係から出力だって『狼星』が勝っているし、プロペラ形状から見てもより高馬力に対応しているのが分かる。
以上の事から『試製雷電』より『震電』の方がプロペラトルクが大きくなるのは当然の事だった。
そのため何もしなければ、機体が横に持っていかれる。まっすぐ進むよう当て舵をしてやっても機体が大きくブレて、中々言う事を聞いてくれない。
「あなた、ホントにじゃじゃ馬ね」
機体を安定させるべく、必死に当て舵の最適位置を探っていると、とっくに離陸滑走距離の目安を過ぎ、更には乙3号滑走路の1/3に達しようとしていた。
それを管制室で見ていた西准尉が心配して状況を聞いてくる。
離 着陸に難アリの『震電』だが、翔子の技量で飛ばせられないはずはない。と言う事は機体か、もしかしたら本人にトラブルでもあったのかと考えたのだ。同様の思いはさくら達も抱いていて、不安感からザワつきだす。
そんな皆の心配を払拭すべく、翔子は西准尉に返答した。
「大丈夫、心配しないでっ、これも予定通りだから。じゃあそろそろご期待に応えて飛んでみましょうかねぇ」
滑走速度は既に200㎞/hを超え、離陸に充分な域に達している。翔子は操縦桿を軽く引きつけ上げ舵を取り──『震電』初号機は初飛行の際、上げ舵を取りすぎてプロペラを地面に接触させている。そんなヘマはしたくないし、ジャンプ飛行なのだから軽くで充分なのだ──飛びたくて仕方なさそうだった『震電』をふわりと持ち上げた。
『震電』は確かに空へ舞い上がった。が乗っている者からすれば「舞い上がる」なんて優雅な感覚は全くない。強力なトルクが空に上がっても襲ってきて、機体の姿勢維持が一瞬出来なくなってしまった。端から見ているとフラフラヨタヨタとしていて、とても危なっかしい。本当に翔子が操縦しているのか疑問に思う者もいた程だ。
「おいおい、ほいほいっと」
しかし翔子も手慣れたもので、3舵を駆使して姿勢を立て直すと着陸を試みる。するとギャギャッと嫌な音を立てて着地すると、2・3度バウンドして滑走に戻った。
「危ない危ない。ホントあなたと付き合うには骨が折れるわ……でも、キライじゃないけどね」
翔子は再びジャンプ飛行を試みる。既にコツを掴んだのか、今度は滑走中機体が大きくブレる事も飛行中フラつく事もなく、静かに着陸も決まった。それをもう一度繰り返したところで滑走路の端に来てしまい、やむなくエンジンを切りブレーキを踏んで、端ギリギリの所で機体を止める。どうやら翔子の『震電』デビューはあんまり芳しくないものに終わってしまったようだ。
思い切り深呼吸してその息を全て吐ききると、翔子は何か考えているような、それとも何も考えていないような、どちらとも取れる表情で、操縦桿を指で弾き玩んでいた。
そうしていると管制室から無線が入る。
「立花少佐。1本目のテスト、お疲れ様でした。どうでしたか『震電』は? 失礼ですが1回目のジャンプまでは、『震電』に対応できないのではと心配しておりました」
「ん、大丈夫。上手く折り合いつけるポイント掴んだから、次からはも少し上手くできると思うよ。それよりみっともない姿、見せちゃったみたいだね。やっぱりこの子は難しいわ。根本的な改善点でも見つけない限りは、量産化は難しいかも」
上官に対して侮辱とも取られかねない言葉を言ってしまった西准尉に、翔子は別段気にする様子もなく、期待されていたのに上手くできなかった事をむしろ反省している旨を返した。それも競馬の騎手が使うような言葉で。そしてテストパイロットとしてはできる事なら言いたくない、その機体の運命を左右するような事まで言った。
「それじゃあ、もう1回やってみるねぇ。誘導路使って戻るのメンドくさいから、今度はこっちからやってみるよ」
「ええっと、風向きとか大丈夫ですか? 1本目とは真逆になるんですよ」
「吹き流しを見てみてよ。今はほとんど無風。だったらどっちに飛んでも、そんなに影響はないよ」
そう言うと機体を旋回させ、先程とは反対に機首を向ける。それもキチンと滑走路の中心線上に。
「今度はジャンプに専念するからね。4・5回はできるかも」
鼻息荒くそうは言ったものの、別の考えが頭をよぎる。ジャンプ飛行ばかりでなく、もっと長い間飛んでいたいなあ、と。
ジャンプ飛行はいわば千葉で言うところの「あんごの一跳ね」である。
「あんご」とはウシガエルのような大型のカエルの事。ちなみにアマガエルのような小型のカエルは「けぇる」と呼べばより千葉風になる。ま、本筋にはあまり関係ない事だが。
つまりカエルが跳ねていけるくらいの短い距離を指し、飛行ではなく文字通り跳躍なのだ。
そんなのばかりじゃ翔子だけではなく『震電』だって物足りない。
まあ岩和田少佐の手前、全力の試験は明日以降にしておこうと思う…別に岩和田を立てるつもりはないが、准尉達や成田基地全体の事を考えると、少しは引ける所は引いておこうと考えたからだ。
が少しくらい散歩したって問題はなかろうとも思う。本格的なテストに備え、慣れておくのは大切だし、何よりこの『震電』の事をもっと知っておきたかったから。
しかし今度もジャンプ飛行と宣言してしまった以上、それを反故にすれば西准尉も立つ瀬がない。そう思うともう一度はジャンプ飛行をしておかなければならないだろう。思わず浮かんだ欲望を振り切り、ジャンプ飛行に専念すべく翔子は頭を切り換えて、スロットルを少し大きく開いた。
2回目ともなればある程度のコツは掴めており、少し脚回りに負荷をかけてみようと、1回目よりスピードを出してテストを行ってみる。
着陸速度を大きく上回る速度まで加速してからすぐに着地、再び浮き上がるという、あたかも逆タッチアンドゴーと言えるようなジャンプ飛行を行ってみた翔子。そのため4・5回と言っておきながらも、結果2回しか浮き上がる事ができなかった。無理をすれば3回目浮き上がる事は可能だったが、滑走路端までで止まりきれないと判断し、2回で止めておいたのだ。何せ200㎞/h弱が離着陸速度の所、150kt≒270㎞/h以上出してテストを行っていたのだから。
「う~ん、中々思い通りにはいかないもんだな~」
翔子は悔しいと言うよりも、納得がいかないと言ったニュアンス強めのグチを言う。そして何かに思い至ったかのように、西准尉に尋ねた。
「ねぇ、西さん。ちょっとエプロンに帰るから、連絡しといてくれる?」
「えっ!? 何か機体に不具合でも出ましたか?」
西准尉は当然の反応を返してくる。試験中、整備士のいる所に戻ると言ったら、機体に何らかの問題が起こったと考えるのが普通だろう。
そんな西准尉の心配を払拭すべく、努めて明るい声で翔子は言った。
「ん~ん、今飛んでみた2回の感じをさくら達、端で見ていた人にも聞きたいから一旦戻るだけ。別にいいよね?」
「あっ、はい、それなら問題ないです。でも良かった。少佐や『震電』に何かあった訳じゃなくて」
「ゴメンね、心配させたみたいで。まあ2回目の様子見てたら故障かな?って思うよね。でなければ私が壊れて暴走したとか」
「アハハ、冗談でもそんな事言わないでくださいよぅ。立花少佐は茂原空、そして元茂原空の者からしたら憧れなんですからぁ」
西准尉は笑っていたが、その声には涙の成分もあったような気がする。それだけ翔子の事を本気で心配していたのだろう。
それ程後輩を心配させるなんて先輩失格だな、と思いながら、また後でよろしくと伝えて無線を切り、エプロンに向かい誘導路を進んだ。
それにしても──誘導路をゆっくり進む間、翔子はさっき西准尉に言われた事を思いだしていた。
私が憧れの対象? そんな事一度も意識した事なかったため、全くもって実感がない。
佐倉中佐みたいな才色兼備の頼れる飛行隊長だったり、楊中尉みたいな中性的魅力を持つクールビューティーに対してなら、憧れる気持ちも分かる。
しかし翔子は自分の事を飛行機バカが過ぎるあまり、女性的な魅力に磨きをかける努力はしてこなかったし、その手の話自体苦手だ。また訓練中だって適確な指示は出せても、優しく指導するという配慮は欠いていたと思う。訓練時以外に接する時も、がさつでいい加減な所しか見せてなかった気もするし……。強いて上げれば飛行技術だけは誇れるかも知れない。もっとも誰も真似できないような危なっかしい操縦ばかりではあるが。
と、憧れられる要素がどこにも見あたらない……考えていたら情けなくなってきた。
だからさっきの言葉は西准尉の思い違いか、でなければ個人的な想いから出たものなのだろうと結論できた。まあ後者だったら少し怖い気もするけど……
が実際には翔子が気付いてないだけで、彼女の人気は結構高かったのだ。
翔子は自分の事を「がさつでいい加減」と評していたが、周囲の目には「気さくで誰にでも分け隔てなく接してくれる」と映っていた。また訓練中の指導に関しても、一瞬の気の迷いや判断ミスが命取りとなる戦闘機パイロットとしては、全体を見渡し瞬時に短い言葉で指摘してくれる彼女の言葉はありがたいと感じていた。それに真似できない飛行技術だって、それだけで充分尊敬に値する──と、立場が違えばこうも見方が変わってくるという事がよく表れている事象だった。
翔子が不思議がっている内に『震電』はさくら達が待つエプロンまで着いてしまう。
さくらが自分に向かって何事か声をかけている事に気付いた翔子は、キャノピーを全開にしエンジンを止めて、それを聞き取ろうとした。
「翔子ーっ、どうしたのー、何かあったー?」
一応事情は管制室の西准尉から聞いてはいたが、思わず何も知らないかのような尋ね方をしてしまうさくら。まあ情報としては持っていても、自分で確認したくなるのはよくある事だ。だから翔子も「西准尉から何も聞いてないの?」などと野暮な事は言わず、
「べっつにー。みんなの感想が聞きたくって、一旦戻ってきただけー」
と返した。
エンジンを止めても惰性で数m進み、ほぼ格納庫の真ん前で『震電』は動きを止める。しかしすぐ戻れるよう向きまでは変えてない。
「翔子~。一旦降りて休憩する? それならはしご持ってくるけど」
さくらは親友を気遣ってそう尋ねた。
『震電』のコクピットは幅が狭い。翔子の愛機である『飛燕』に比べればかなり広いが、それでも他の戦闘機に比べれば狭い方で、『雷電』などとは間違っても比較してはならない。だから短い時間であってもそこから解放してあげようと考えたのだ。しかし翔子はそれを拒む。
「別にいいよ。またすぐテストに戻るつもりだし、わざわざ降りる方がメンドくさいよ。それよりさくらに本庄さん。テストの様子見ててどうだったかな? 全然上手くいかなかったから、他人目線の酷評よろしく!」
早くテストに戻りたいのか、それとも本当に降りるのが面倒くさいだけなのか、翔子の事だからどちらがメインであっても不思議ではない。いずれにせよ『震電』から降りて2人の話を聞くつもりはないらしい。おかげでさくらの言葉に反応して脚立を取りに行こうとした整備士達は、その必要がなくなり急停止を余儀なくされた。内1人はつんのめってコケそうになっていたし。
「全く~。話くらいは降りてきてしようよ~」
親友のものぐさぶりに呆れるさくら。気遣いを無下にされた事はさほど気にならない。が話くらいはたとえ短いものであっても、同じ所で立ってしたい。心からそう思うさくらであった。
とは言え翔子が降りてくるのを待っていても時間の無駄である。それが分かっているからこそ、翔子が『震電』の機上、さくらと本庄准尉が地上という形のまま、ジャンプ飛行について感じた事気付いた事を話し合った。
もっともテスト中翔子が感じていた事以上の意見は出てこず、翔子はとにかく大変だった、さくら達はとても心配していた事を言い合ったにすぎない。
まあ少しは本庄准尉が『震電』の特性などについて、航技研のテストパイロットらがまとめ上げた内容を説明したが、それだって翔子の予想を大きく超えるものではなかった。
ので話し合いは10分足らずで終わり、翔子はテストに戻る事を伝える。
「それじゃあそろそろテストに戻りますかね~」
翔子は大きく伸びをして体をほぐすと、シートベルトを締め直す。そしてエンジンを再始動させる前にもう1つだけ質問をした。
「そう言えば試験隊や航技研のみんなって、どれくらいで本格的なテストに入っているの?」
「? 本格的って言うのがどこまでを意味しているかは分かりませんが、1日目は地上滑走とジャンプ飛行。2日目は低空を低速で周回飛行。この2日間で機体のクセとか特徴を掴んでから、3日目以降に全力飛行や空戦機動を試みるって流れが普通ですかね」
「そうだね。さっきも言ったけど、『震電』って滑走すら難しいから、どんなベテランの人だって、2・3日は基礎的な操縦に徹するよねー。で、それから高速飛行に入ったりするんだけど……すると高速になる程飛び方が素直になったりするんだから不思議だよね~」
2人の言葉を受けて、翔子は2回目のジャンプ飛行の前によぎった思いが、より強くなって戻ってきた事を実感した。しかも今なら誰に気兼ねをする事もない。
ならば──感情を抑えきれなくなった翔子は、テストのレベルを1段階上げる腹を決め「2人とも色々と意見ありがと。じゃあちょっとその辺ぐるっと一周してくるね」
と言って、始動車を使わず機載バッテリだけでエンジンを始動させた。
「ええっ!? その辺ぐるっとって、もう通常飛行を始めるんですか!?」
とてもいい笑顔でとんでもない事を言い出した翔子について行けず、エンジン音に負けない大声で聞き返す本庄准尉。今までのやりとりは何だったのよ、と思いながら。
それに対する翔子の答えは明るくあっさりしたものだった。
「うん♪ ある程度『震電』のクセは掴んだからね。これ以上この子の事を知りたかったら、もっと色々試してみるしかないじゃない」
「ですが……」
何とか翔子を思いとどまらせようとした本庄准尉だったが、その前に『震電』は動き出してしまう。
「あっ、そうだ、本庄さん。できたら管制室に行って西さんを手伝ってあげてくれないかな。なんか慣れない事に疲れてるみたいだから」
「えっ!? あっ、はい!」
去り際に翔子が残した言葉に思わず反射的に了解してしまう本庄准尉。翔子を止める事よりも、同僚を心配する気持ちの方が上回っていたからだろう。
西准尉の航技研での仕事は、実際に飛行機に乗って試験する方がメインで、誰かのバックアップとして、管制に入る事は苦手だった。反面本庄准尉はそういう仕事の方が得意だったりする。
なのに自分が疲れていたせいで代わりに管制を買って出て、そのために疲れてしまったのだろう。それが分かっているから余計に心配になり、早く私が替わってやらねばと、本庄准尉は考えたのだ。
それを確認した翔子は准尉に向かいウインクをし、少し速度を上げ、誘導路を進んでいった。
「西さん、聞こえるー」
再び無線のスイッチを入れ、管制室の西准尉を呼び出す翔子。『震電』は既に滑走路の側まで来ていた。西准尉はお茶を飲み一服していたが、管制の席から離れていなかったので、すぐに対応できたのだ。
「はいっ、少佐。話し合いは終わりましたか?」
「うん、いい話し合いだったよー。これからの試験方針も決まったし」
「そうなんですか。でもさっきみたいな荒っぽい事はしちゃダメですよ。機体が壊れたら責任取るの私達になるんですから」
あたかも自分の保身を図るような言い方だったが、実際は翔子にケガをして欲しくなくて発した言葉だった。
が次の翔子の言葉に西准尉は泡食う事になるのだが。
「大丈夫だよ。今度はジャンプ飛行じゃなくて、あたりをちょっと散歩するのに飛ぶんだから」
「はいいぃっ!?」
西准尉達が茂原基地702飛行隊にいた頃から、翔子が突拍子もない事を言い出す事はあった。もちろん訓練時に戦術に関する事だが、翔子でもなければできない機動をからめた内容だったので、操縦を覚えたての頃の西准尉には異世界の話を聞いているような感じだった事を覚えている。あの頃の話も今なら少しはついて行ける気もするが、いきなり常識の外の事を言われれば、やはりついて行けない。
あの『震電』を初日から通常飛行──もしかしたらそれ以上の事も──させるなんて、彼女にとっては常識外れもいいところだった。
「ダメですよ、少佐。『震電』はもう少し慣れてからでないと通常飛行は…」
「平気だよ。これ以上ジャンプ飛行やってても、この子から何も得られない。だったら一歩進んだ事をやってみなきゃ。それにこの子も飛びたがってるから、ちゃんと飛ばしてあげなきゃかわいそうじゃない」
西准尉の言葉を遮るように、翔子は持論を言い張った。確かに翔子にしか分からない理論だが、誰かに何か言われたってそれを止めるつもりはない。ので本当に邪魔される前に飛び立ってしまおうと、スロットルを全開にして、溜まったススを吹き飛ばした。
「ちょっ、ホントに待ってください!」
慌てて止めようと無線に叫んでみても、翔子と『震電』の動きは止まらない。それどころか一旦スロットルが戻ったのが、スピーカから聞こえるエンジン音の大きさで伝わってくる。
もう自分では止められない、どうしよう、と西准尉が焦っていると、突然管制室内の電話が鳴り、西准尉をびっくりさせる。
「西准尉、沢渡大尉から内線です」
電話を取った隊員が、代わるように促した。
「こんな時に何よ~」翔子を止められない苛立ちから、八つ当たり気味の愚痴を漏らす西准尉。もちろん独り言ではあるけど。管制官の席から離れたくはなかったが、上官からの電話に出ない訳にも行かない。渋々席を立ち、受話器を受け取った。
「何ですか? 今立花少佐が『震電』を普通に飛ばすって言って、もう飛んじゃいそうなんですよ~」
訂正。さくらに対して直接キレていた。しかしさくらはそれを冷静に受け流し言った。
「その事なんだけどね准尉。翔子をそのまま飛ばせてあげてくれないかな」
「どうしてです? 『震電』は非常に難しい機体なんですよ? もう少し訓練してからでないと…」
「分かってるよぉ。私も試験隊の所属だからね。まだ乗った事はないけれど、機体の特徴は分かっているつもり。でもこうなったら翔子は絶対に止まらない。それに翔子ならちゃんとできると思うの。あの子は規格外と言うか特別だから……」
西准尉を受け入れながらも、親友のやりたい事をさせてあげたいと思い、准尉を説得するさくら。親友の技量の高さは彼女にとって誇りであったが、同時に自分はそのレベルに達する事はない=隣に並ぶ事はできないと言う淋しさも言葉に織り込んで。
その気持ちが伝わったのか、西准尉は何も言えなくなってしまう。まだ止めなくてはと言う気持ちは強かったが、さくらの心の内が少しは分かってしまった後では。
そこにさくらが追い打ちとなる言葉を放つ。
「ああ、今から本庄准尉がそっちに行くから、一緒に翔子を見守ってあげてて、お願い」
その言葉が終わるかおわらないかの内に、本庄准尉が管制室に飛び込んできた。
「一穂、遅くなってゴメン!」
本庄准尉の声を聞いたら、西准尉の目から涙が思わず流れてきた。翔子を止められなかった悔しさもあったが、それよりも今しばらく相棒が側にいなかった事を思い出して。それに翔子とさくらの絆の強さを見せつけられ、それを羨ましく思ったと言うのもあるかも知れない。
「それじゃ、行ってくるね~」
無線から明るい翔子の声が聞こえてきた。外を見ると翔子を乗せた『震電』が滑走を始めている。もう止める事はできないし、この場に止めようとする者もいなかった。
そして充分な速度に達すると『震電』は空へ舞い上がり、先程までとは比べものにならない程の高度を取って、東の空へ飛んでいった。
次話へ続く──
ようやく飛んでくれました(歓喜)。でも本格的に飛ぶのは最後の最後で、次章に持ち越しという感じですが。
もっとも『震電』は戦闘機。戦闘機としての機動はまだまだ先になるでしょう。
そこまで書けるかは話の転び方次第ですかねぇ。