第五章 神経戦
航技研『試製震電』担当の審査官岩和田少佐が2人の部下を連れて成田基地にやってきた。
が評判はあまり良くなく、翔子との相性も…。
この章は翔子と岩和田の神経戦です。
第五章 神経戦
その声の方を皆一斉に振り返る。いや整備士の中にはその声の主を避けるかのように、そそくさと仕事に戻っていった者もいたから、皆一斉とは言い過ぎか。
少なくとも翔子は初めて聞く声の方へ目をやった。するとそこには格納庫の奥から出てきた、2人の部下を従えた細身の男が立っていた。
男はつかつかと翔子と『震電』に向かって歩み寄る。
身長は平均的な部類に入るのだろうが、彼女より少し高い程度と、彼女の身近にいる軍人達に比べれば低いとも言えた。妙な艶っぽさを持つ高めの声で、口調も丁寧。更に顔も細面、と言うより瓜実顔と言い切れる顔立ちをしており、これらを総合するとまるで歌舞伎の女形が、軍服を着て現れたような印象を翔子は持った。
その女形、もとい男は翔子の前まで来ると、思いもよらぬ大声で翔子を怒鳴りつける。
「一体あなたは誰なのです!? 国防の一端を担う事になる大切な試作機を傷付けようとするなんて、正気の沙汰とは思えません!」
「傷付けるなんてとんでもない! この子はこれから私がテストするんですから、その前に自分で傷付けるなんてあるもんですか。私はこの子がカワイかったから、ただ優しく抱きついていただけです」
流石にこれには翔子も怒鳴り返さずにはいられなかった。プロペラからそっと手を離し、男と正対して自分の意見を口に出す。ただ相手の階級が分からなかったから、一応丁寧な言葉遣いを心掛けた。がそれでも男の方が女性らしい口調だったけど。
「あら、あなたがあの立花少佐? 聞いていたのとは随分感じが違うようだけど、これから自分が審査する機体と分かっていながら、そんなに荒っぽく扱うなんて、とんだじゃじゃ馬だったのですねえ」
「荒っぽくなんて触ってません! 大体あなたは何者なんです。私の事は知ってるようですが、他人の事を一方的に悪く言うなんて、たとえ上官だとしても納得できません」
「私ですか?」
男は人差し指をあごに当て、首を傾げる。本当に女性のような仕草だ。しかし決してかわいいものではない。
誰の目から見ても顔立ち自体は決して悪いものではないのだが、何かが決定的に足りなくて、他人に悪印象しか与えてないのだ。ある意味不幸な事だと言える。
「私は空軍航空技術研究所『試製震電』専任審査班所属の、岩和田正美少佐です。この度571試験飛行隊で実戦的審査を行うにあたり、主任審査官として出向して参りました。立花少佐とは同じ階級となりますが、私の方が先任となりますので、そこの所はお忘れなきよう。しばらくこの2人と共にご厄介になりますので、どうぞよろしく」
そう言って岩和田少佐はわざとらしい程恭しく頭を下げると、後ろで控えていた2人にも挨拶するように促した。その2人は一歩前に出るとそれぞれ本庄礼子准尉、西一穂准尉と名乗り、こちらはきれいな敬礼をした。
本庄准尉は赤みがかった長髪をお下げにしており、西准尉はややクセのあるボブカットと、それだけでも見間違える事はないだろう。がそれ以上に翔子が2人の事を間違える事はなかった。何故なら見知った顔だったからだ。
「! 2人って先月まで702にいたよねぇ。やたら生真面目で筋が良かったからよく覚えてるよ。701にも来ないし、702にも残らなかったからもったいないなと思ってたんだけど、航技研に入ってたんだ~」
「はっ、先月までの1年間、立花少佐をはじめとする701の皆様には大変お世話になりました。そのおかげもあり航技研から試験飛行士として引き立てていただけたんです。今では先輩・同期合わせて10名が航技研試験飛行部に所属しているんですよ」
翔子の疑問に西准尉が代表して答えてくれた。そう2人は先月まで701飛行隊の姉妹分、茂原基地702飛行隊でパイロットとして育成されており、701のメンバーとはちょくちょく顔を合わせる間柄だったのだ。
翔子の言う通り2人の技量は優れており、てっきり即戦力として701に来るものと思っていたから、翔子はちょっと残念&不思議に思っていた。でもまあ2人はパイロットとしてはさくらに近いタイプだったので、航技研の方が個性派集団の701よりは合っているのかも知れない。あんな上官の下にさえいなければ。
本庄・西両准尉は以前と変わらぬ翔子の対応に、少しだけ顔をほころばせたように見えた。が岩和田少佐の一言が、またも和やかな空気をぶち壊す。
「いつまでお喋りしているのです。時間は有限なのですよ。試験飛行のための打ち合わせを始める時間はとおーっくに過ぎているのですから。早く準備なさい」
1人蚊帳の外に置かれていた岩和田少佐は苛立ちを隠そうともせず、2人の部下に命令した。それに素速く反応した両准尉は瞬時に真顔に戻り、てきぱきと机に書類を広げたり、移動できる黒板を机の側に寄せたりする。
その様子を見て翔子はますます岩和田少佐の事が嫌いになった。
翔子は上下関係とかしがらみにあまり囚われない。幸いにも彼女の周囲には同じような感覚の大人や上官が大勢いたため、彼女は伸び伸びと仕事に打ち込む事ができた。
が岩和田少佐は全く正反対のタイプのようだ。権威とか階級とかを笠に着て、口調こそ丁寧というか上品なのに威張り散らしていた。
そういう人間程実際の仕事はできなかったりする。にも関わらずこの手のタイプ程出世とかは速かったりするから、世の中ままならない。と翔子は経験上そのように認識していた。
「さあ立花少佐。打ち合わせを始めましょう。あなたはこの『試製震電』に乗るのは初めてになるのですから、他の試験隊員達にも行ったこの機体の詳細な説明をみーっちりとして差し上げますから、心して聞いてください」
格納庫の片隅に急遽作られた会議スペースの準備が整ったのを見計らって、岩和田少佐は大仰に言い放った。政治家や聖職者が演説でもするかのように両手まで広げて。
翔子は今すぐにでもこの場から逃げ出す≒『震電』で飛び去りたくなったが、自分1人では勝手に『震電』を格納庫から出す訳にもいかない。始動するにしたって何らかの補助が必要だし、普通の飛行機より高いコクピットに乗り込む方法も分からない。もしそれらが1人でクリアできたとしてもいきなりエンジンをかけたら、プロペラが巻き起こす暴風で格納庫の中は大変な事になるだろう。
だから一応一言断って「打ち合わせ」から逃げだそうとした。馬の合わない相手から長ったらしい説明を受けるより、自分の目で見て確認した方がその機体の事がよく分かる。実際に動かしてみればもっと多くの事を知り得るだろう。
決して物事をじっくり考えるのが嫌いでも苦手でもないのだが、翔子は感覚派の人間だし、特に対象が飛行機であれば、機体の方から色々教えてくれると彼女は本気で信じていた。
が自分の説明を一切聞かずに逃げ出す、そんな事は岩和田少佐が許すはずもない。翔子が一番嫌がりそうな方法でそれを阻止しようとした。
「あらあなたの新しい愛機になるかも知れない大切な機体の説明を、一切聞かなくても良いのですか? それも准尉達が急いで用意してくれた資料などに目を通す事もなく。これでは折角の準備が全て無駄になってしまいますねえ」
「……っ!」
岩和田の説明など全く必要なかったが、2人の准尉がしてくれた準備を無駄にする事は翔子にはできなかった。もしそれを振り切ってでもこの場を立ち去れば、そのとばっちりはネチネチと彼女達に向かう事だろう。
ホント嫌な所を突いてくる。翔子は岩和田という人物の底意地の悪さを思い知った。
「そうですねえ。折角2人が頑張って用意してくれたものを無駄にする事はできませんからねえ。あの子の説明お願いしますよ。ですがなるべく手短に。でないと乗ってみる時間がなくなってしまいます。何せ時間は有限なのですからね。そうだ、さくらも一緒に説明聞こっ。さくらだって近い内に乗る機会があるだろうから」
引きつった笑顔でそう言うと、翔子は音を立てて席に着いた。精神安定剤代わりのさくらを呼び寄せて。親友には悪いと思ったが、ストッパーがいないと暴走してしまう可能性があったから、隣にいてもらおうと思ったのだ。何か岩和田少佐の思惑通り動いているようで癪に障るが、彼の部下2人や試験隊のみんなにこれ以上の迷惑はかけられないと、不本意ながら彼の説明とやらを聞いてやる事にした。
それを見て岩和田少佐はしてやったりという風ににんまりと笑みを浮かべる。そしてゆっくりと仕切り役の席に座り、『震電』の技術的レクチャーを始めたのだ。
この説明会は岩和田少佐の『震電』開発の経緯──どのような発想の元『震電』がこのような形になったのか、『震電』が必要とされる理由や求められた性能など、ざっくりとした、この話を聞かなくても『震電』は飛ばせる内容ばかりを語った。
翔子だって決して開発秘話とかが嫌いな訳ではない。
しかしそれは今聞くべき事ではないし、さも自分の手柄であるかのように誇張して語る岩和田の熱弁っぷりに辟易し、翔子は欠伸をかみ殺す事に必死だった。
が彼の話はここで終わりだった。
細かな技術的な内容は2人の准尉が代わる代わる説明してくれ、それはとても分かりやすく、翔子であっても参考になると感じた程だ。これなら2人の説明だけで充分であり、岩和田が語った分の時間を返せよ、と翔子は腹の中で本気で思っていた。
「立花少佐に沢渡大尉、何か質問は?」
准尉達の説明が一区切りすると、岩和田少佐は翔子達に尋ねた。多分何の質問もしてこないだろうが、仕切る者として当然の行動をとり、自らの権威を高めようとする。当然翔子には何も聞く事はなかったが、小難しかったり答えにくい質問を敢えてしてやろうかとも思ったが、岩田を怒らせるくらいで何の意味もないし、それこそ時間の無駄なので、
「いえ、特にありません。それより早く実機を見てみたいのですが、よろしいですか、先任」
と言って打ち合わせを終わりにしようとした。そうすれば今のところは無意味な、そして耳障りで仕方ない岩和田の言葉を聞かないで済むと思って。
岩和田少佐の方だって、翔子が自分を避けようとしている事くらい分かる。自分の方だって大人の建前を理解しようともしない、感覚のみで突っ走ろうとする小娘の相手など疲れるのだ。しかも嫌みかつわざとらしく自分の事を「先任」などと呼んで、腹立たしいと言ったらありはしない。
しかし反面、翔子程人気も実力もある者に「先任」と呼ばれる事は、彼の自尊心を満たすのに充分なものだった。
だから嫌味の1つも言い返して、打ち合わせを終了する事にした。
「あなたもせっかちですねえ。『試製震電』は逃げたりしないと言うのに」
そうは言ってみたものの、今日使える時間はあまり残ってない事を、岩和田少佐も理解していた。現在の時刻は15:00ちょっと前。暗くなるまで後3時間程度。着陸時の安全性を考えればあと2時間といったところか。まあ本格的な試験は明日以降にじっくりやればいい。そう思えば優しいとも思える言葉を翔子にかけていた。
「本日の試験は暗くなるまでですからね。やりたい事があるなら急ぎなさいな」
「ご心配頂かなくても大丈夫ですよ。成田基地の設備なら真夜中でも昼間のように離着陸できますから。さくら、行こっ。それに本庄さんと西さんも手伝ってもらえるかな」
翔子はそう言って飛び上がるように席を立つと、一目散に『震電』の元に駆け寄り、機体の周囲をグルグル回りながらあちこち確認を始めた。
「ちょっとあなた待ちなさい。大事な機体なのですから壊されては困るのですよ!」
岩和田少佐は慌てずにいられなかった。先程までしおらしくしていた翔子が、今本性をむき出しにしている。その態度に不安と少しばかりの怒りを覚えたからだ。
ちょっとした事故や故障ならまだいい。試験機とはそういうものだし、その結果採用時に問題が解決されていればいいのだから。
だが重大事故ともなれば話は別だ。結果的にその機体が不採用になる事になったら、それまでの苦労が水の泡となるし、それも自分が監督する機体で起こったのだとしたら、自分の責任問題になるではないか。
それだけは絶対に避けなければならない。そう考えればお目付役としてずっと側に張り付いていたくもなるが、ソリの合わない翔子の近くにいるだけでも気分を害するし、審査にはいる事を試験隊長らに報告もしなければならない。それにちょっと用足しをしたくなったし。
だから翔子の暴走くらいは食い止めてくれるだろうと、2人の部下を少しだけ信用して、その場を離れる事にした。
次話へ続く──
本当ならこの章で飛び立つはずだったんですよ、『震電』は。
しかし書いていたら思いの外長くなってしまって……思い切って分割する事にしました。
おかげでイヤなヤツとのやりとりに終始する章になってしまいました。
その分次章は技術的な事メインになりますので、この章はこれくらいで勘弁してください。