第八章 7
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伊勢神宮の御札を配って全国を回った御師と呼ばれる人達が居る。近代風に言うなら伊勢神宮への観光を促すツアーガイドだ。伊勢暦や伊勢白粉をおまけに付けて参詣を誘い、実際に来た人達には宿泊の手配などを請け負ってたらしい。
で、俺は行った事ないが、伊勢の近くに丹生って場所がある。『丹が産する(生まれる)土地』って意味で、この丹とは丹砂……すなわち水銀の事だ。
専門的に言うと、水銀は硫黄との化合物である硫化水銀という形で産出する。これを朱砂、または辰砂と言い、鮮やかな朱色をしている。神社の鳥居などが赤いのは古代この朱色が塗ったからで、神話に出て来る須佐之男命の「すさ」も、この朱砂と何か繋がりがあるんじゃないかって説を聞いた事がある。
ちなみに地名や苗字でよくある羽生は「埴輪」の「はに」、つまり赤土を産する土地の意らしい。朱色と赤色、色繋がりで「に」が絡むのだろう。
話がややこしいのは、水銀には防腐作用があり、道教の最終目標である不老不死の仙人を目指す者達にとって必須アイテムだった事だ。実際、中国の歴代皇帝の中には水銀中毒じゃないかと思われる症状を発して死んだ者も居るらしく、始皇帝の陵墓には水銀の流れる川が設置してあった。
……さて、古代から近代に至るまで人と水銀は近い関係にあった訳だが、現代知識に照らせば劇薬である。気化した蒸気を吸うだけでも危険なのに、皮膚に塗りたくっていい訳が無い。伊勢白粉の場合、含まれる水銀がどの程度だったのか知らんけど、産出量が減ったのと大陸から安い白粉が伝わった事でメジャーじゃなくなった。で、何故か虱や梅毒に利く薬になり、裏では堕胎の薬として使われるようになったらしい。
「丹生……丹生都比売神社ってのが高野山にあったな。もしかしてそれも水銀に関係あるのか?」
光さんが首を傾げる。
「うん、地下に水銀の鉱床があるよ。――で、大陸から伝わった安い粉の白粉だが、これは鉛が含まれてるものだった」
人体とは上手く出来てるもので、極少量の毒物なら尿など排泄という形で外に出す。が、このラインを越えると人体に溜まり出して危険だ。例えば、ベートーベンの毛髪から現代の基準から見て数十倍の鉛が検出された。彼が生きてた時代、ワインには甘味料として酢酸鉛――完熟葡萄の果汁を鉛でコーティングされた青銅器でグツグツと煮る事で出来るシロップ――が添加されていたので、これがかの天才音楽家を難聴に追い込み死に至らしめた原因と見られる。
日本では、明治の世に天覧歌舞伎まで務めた名優、五代目中村歌右衛門が鉛中毒になってる。これは白粉が原因だろう。一説には、健康に恵まれなかった大正天皇も宮中の女性達の白粉を幼児期に吸い込んだのではないか、と言われている。
これらによって研究が進み、昭和9年に鉛入りの白粉は製造禁止になった。しかし、高尾姐さんの言うようにこっちの方が色っぽさが違うという事で需要は以降も高かったらしい。数百年後の世でも、寒空の中、ミニスカートで頑張る女性達が居るようにオシャレに命を懸けるのは何時の世でも変わりないようだ。
「赤子が白粉を……ですか?」
熊谷さんの娘さんが俺を見詰める。今一つ、状況がイメージ出来ないらしい。
俺は赤ん坊を胸に抱く真似をしてみせ、
「うん。こんだけ飲んだら死んじまうって量、大人と赤ん坊では違うのは何となく判るでしょう? 赤ん坊は母親に抱っこされておっぱいを吸う訳だけど、その時、母親の胸元にまで白粉が塗られていたら……」
「あ、赤子の口に白粉が……??」
娘さんが自分の口に左手を当てて驚く。何故か、ネット広告にあった自分の年収に愕然とする女性の姿を思い出した。
俺はコクリと頷き、
「そう言う訳で出来るだけ多くの女性――普段から白粉塗ってる女性と、祝い事でも無い限り滅多に塗らない女性――達から話を集めて欲しい。その女性自身と生まれた子の健康状態を分析して、俺の説明通り白粉と関係あるか調べて下さい」
「了解しました。ですが……」
娘さんが後ろに顔を向ける。「――あの子、何者ですか?」
先程入って来た少年は、高尾姐さんの背中におぶさるようにじゃれついており、それをキー君と光さんが苦笑いしながらからかってる。
胸元に侵入しようとする手を、ペチッ、と叩き、
「伊達の若様ですよ」
と、姐さんが教えてくれた。
伊達の……ああ、高尾姐さんに初めてを喰われた例の?? 平成の世だとランドセル背負ってそうな見た目なんだが……。
少年が高尾姐さんの肩越しに笑みを浮かべる。
「伊達巳之介だ。六男だからって十二支の六番目『巳』って、その場で思い付いたような適当な名前を付けられた。宜しくな。で、お主達は何者だ?」
「今、話題になってる張孔堂の連中だよ、巳之さん」
キー君がニヤリと笑って俺達を紹介する。
「張孔堂? ああ、榎坂の??」
「あぁ。病で体を壊す女や早死にする赤子、この二つは白粉が原因じゃないかと言い出してな。思い当たるフシは無いか、女稼業に於いては百戦錬磨である吉原の女達に訊きに来たんだよ」
キー君の説明に、そうだ、と叫ぶ伊達の若様。
「白粉は毒だって本当なのか? 高尾、お前が死んだら俺も生きていたくない。今すぐ俺と夫婦になろうッ!」
「落ち着きなさいって、若様」
高尾姐さんが若様の額にチョップする。
しかし、高尾太夫と伊達の若様……そうか、仙台高尾と伊達綱宗か。放蕩三昧の綱宗に家臣達からのクレームが凄すぎて、親戚一門が諫言するが聞く耳持たないから最終的に幕府から怒られて隠居に追い込まれたんだっけ? 放蕩三昧のエピソードの中に高尾太夫の身請けもあった気がする。
いや、でもあれ……姐さんを殺しちゃう話だったような? 物語によくある馬鹿王子のやらかすテンプレ的馬鹿の一つだから、研究者達から作り話じゃないかって疑問符が出てたけど。
ふと視線を感じ周りを見回すと、モブと化していた熊谷さんの娘さん達の質問に答えてた女達が興味津々といった顔でこちらを見ていた。
「姐さん、身請けされちゃうんですか??」
「いやです! ずっと私と一緒に居て下さい!!」
「姐さん! 最後に私を抱いて下さい!!」
絹を裂くような悲鳴(笑)が室内に響く。流石に伊達の若様も目を白黒させた。こういう女子高的ノリに免疫が無いようだ。
まあまあ、と光さんが女達をなだめる。
「いくら北の大藩伊達家の血族とはいえ、藩主になれる可能性の低い六男坊に高尾を身請け出来る程の大金をおいそれと出すとは思えねえ。いつもの戯言――だろう、伊達の若様?」
が、伊達の若様は「へへぇ~」と得意気な笑みを浮かべる。
「何だよ、その笑いは?」
「風向きが変わったんですよ、水戸様」
「風向きぃ?? あ、ここでは『遊び人の光さん』と呼ばれてる。ちなみに隣に居る吉良家の若は『キー君』だ。アンタもそう呼んでくれないか? ――おい、怨霊。伊達の若は何と呼ぶ??」
ここで俺にフリますか?
「え~と……伊達様だから『だてっち』? いや、巳之介だから……『ミー君』とか?」
伊達の若様は「みいくん??」と素っ頓狂な声を出したが、女達は可愛いと歓声を挙げる。高尾姐さんもニコリと微笑み、
「いいねぇ。ほ~ら、ミー君、大人しくしな」
そう言って、彼の顎の下を猫にやるようにコロコロとくすぐった。
あう~、とミー君が恨めしそうな顔をする。
「で、ミー君? 風向きって何の事だい?」
と、光さん。
「ううぅ……。兄上が病で伏せてる事が多いから、最悪の場合、兄上の養子という形にでもして俺に継がせろって、ある人が言ってくれたんだよ」
「ある人?」
「俺はまだ会ってないんだが……京から来た老人らしいよ?」
京から来た……老人??
皆が顔を見合わせて小首を傾げる。雪ちゃんも眉根を寄せて小声で、
「何か……嫌な予感がしませんか、四郎さま?」
と、呟いた。




