第七章 6 ヒッキー妖怪を知ってますか?(その2)
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今年も後数日で終わると言うのに、私は一体何をやっているのだろう?
仁左衛門殿は私をおんぶしたまま、信じられない速さで闇の中を駆けた。
堀を渡り、石垣をよじ登り、あっさりと城の潜入に成功する。そしてその隣を同じ速さで駆ける少年。
「しかし、尾張柳生の麒麟児殿まで来ているとは……」
麒麟児は勘弁してよ、と少年――連也殿が苦笑いする。
「兄ちゃんが少し思い出したんだよ。ここの殿様、突如乱心して奥方とその侍女数名を斬り殺したんだって。理由は不明」
右近大夫様が乱心??
検地を始め様々な政策を実行し、ここ赤穂の城下の開発が進められている。特に治水に対しては熱心で、上水道工事が計画されていると聞いた。――まあ、資金的に難しいので完成するのは孫の代か、更にその孫の代になりそうだ、とか言われているが――客観的に見て、良き領主と言っていいと思う。
その領主様が御正室と侍女を斬り殺す??
「うん。殿様がどれだけ剣の達者か不明だけど、怪我させずに無力化出来るのはオイラか半兵衛さんぐらいだろうから、『ちょっと行って何とかしてこい』ってさ」
忍びである仁左衛門殿の動きにあっさり付いて来てる連也殿が肩を竦め、ヘラッと笑ってみせる。流石、尾張柳生の麒麟児。
天井裏を足音を消して進む仁左衛門殿の歩き方――手を足の下に敷いて歩くもので、『深草兎歩ノ術』というらしい――を真似て、ゆっくりと歩く。
ある地点で仁左衛門殿が立ち止まった。目線と手の動きで「この下に居るので、静かにして下さい」と知らせてくる。
私と連也殿が頷いて止まると、そっと足元の板を少しだけずらした。
かすかにだが、線香の匂いが漂ってくる。
そっと覗くと、艶やかな着物をまとった女性を中心に数人の女性が大きな仏壇に向かって両手を合わせ……??
「……蕃山先生、あれ、兄ちゃんがよくやってる切支丹の拝み方だぜ?」
連也殿が小声で囁いた。
確かにあれは、両手を合わせると言うより両手を組んでるって感じだ。京までの移動中、四郎殿が月に向かってするのを私も何度か見た事がある。
右近太夫様の正室は黒田家の姫様。
黒田家はその中興の祖である如水殿が一時期、切支丹に入信してた。これは事実だ。が、太閤の禁令に従い棄教したと聞いている。――本当は棄教してない? いや、そんな馬鹿な??
襖が開き、線の細い若い男が入って来た。右近太夫様か。
中央の女性がそちらに向き、かすかに頭を下げる。
「……奥よ。まだその書物を処分する気にならぬか?」
「申し訳ありません、殿。私が幼かったとはいえ、人として一度した約束は守りたいと存じます」
女性がまだ幼さを感じさせる少し甲高い声でそう言って、今度は深々と頭を下げた。
右近太夫様が彼女の前に腰を下ろす。
「しかしのぉ、奥。その為に家臣やこの赤穂の民が苦しむ事になったら本末転倒……」
「判っております。幕府にこの書物について知られそうになったら、迷いなく私を斬りなされ」
「余はそちを愛おしく思っておる。その余に、愛する者を斬れ、と言うのか……」
右近太夫様が両手で頭を抱える。
女性はクスリと笑い、
「そのお言葉だけで私は成仏出来まする。殿、藩主として道を間違えますな」
「恨むぞ、中浦じゅりあん殿……」
中浦じゅりあん??
「……蕃山先生。中浦じゅりあんって誰??」
連也殿が小声で呟く。仁左衛門殿も知らないのか、小首を傾げて私に視線を向ける。
「……確か、天正の世に南蛮に使節として赴い少年達四人のうちの一人です。切支丹達の法主に会見したとか……。帰って来た日ノ本は禁令の世になっており、捕まって処刑されたと聞きましたが……」
「何者ッ!!」
話に夢中になってたせいか、反応が一瞬遅れた。裂帛の気合と共に槍の穂先が足元の板を貫いて私の指先を掠めたのだ。つッ……。
「……取り敢えず、殿様にちょっと冷静になって貰わないと話のしようがないね」
肩を竦めた連也殿がヒョイと軽い調子で飛び降りた。続けて仁左衛門殿も私を抱き上げてヒョイと飛び降り、音も無く畳の上に着地をする。
「あ、あなた方は……」
御正室殿が目を丸くし、彼女を守るように侍女達が前に出て懐剣を抜いた。
右近太夫様は槍を構え、連也殿を険しい目で睨んでる。が、睨まれてる連也殿は気にした風もなく首をコキコキと鳴らし、
「殿様芸の域を超えた、いい腕前だと思うけど……室内で槍を振り回すのは、やっぱ無理があるでしょ。得物を変えるぐらい待つよ、殿様?」
刀を右手にぶらりと下げた。
右近太夫様が一瞬、目を大きく見開く。
「……無形ノ位?? 柳生か??」
槍を放り捨て、腰から小太刀を抜いた。刀身を横に寝かせて目の高さに構え、左手を切っ先に添える。
連也殿が、へえ~、と呟き、摺り足で一歩前に出ると、それに合わせるように右近太夫様が半歩左足を下げた。
どたどた……と、大勢の足音がこちらに向かって來るが、二人は微動だにせず睨み合っている。
襖が乱暴に開いた。
「御無事ですか、殿!?」
「な、何者ッ!? 皆の者、侵入者だ!!」
家臣達が口々に喚きながら刀を抜くが、御正室殿がそれをピシャリと一喝した。
「静かになされませ! こちらは岡山本家の宰相様です。皆もお顔は御存知であろう」
山賊も裸足で逃げ出すような荒々しい顔つきをしてた家臣達が、慌てて刀を背後にやりその場に平伏した。……いやぁ、私、宰相といっても上にこき使われ、下からは嫌味を言われる面倒な立場なんですけど。
「私の顔を覚えておいででしたか、御正室殿?」
「一度だけ……岡山のお城に挨拶に伺った際に、お見かけしました。それで、このような現れ方、何の御冗談でしょう?」
「冗談で済まなくなる事態になるのを、冗談で済ませる為に……です」
「それは一体??」
「……ふむ。右近太夫様が先に動きますか」
私の言葉に御正室殿が相対する二人に顔を向けた。
ジッと睨み合ったまま二人とも動かなかったが――連也殿は、どちらかと言うと右近太夫様の放つ殺気を柳に風と受け流して涼やかな笑みを浮かべてるだけだったが――右近太夫様の上背が微かに沈み、一気に間合いを詰めた。
「ッ!」
鞭のように右腕をしならせ、小太刀が連也殿の頸動脈を狙い――
連也殿はそれより速く、まさに舟が水面を滑るがごとき足取りで右近太夫様の懐に入った。切っ先が顎の下――喉笛の一寸手前でピタリと止まる。
振り切る寸前の腕の下から突如現れた白刃に、右近太夫様が金縛りになった。
「き、貴殿……何者だ??」
「柳生新陰流正統、連也と申します」
「お、尾張の麒麟児!?」
がしゃり、と右近太夫様の右手から小太刀が落ちる。
「冷静になられましたか、右近太夫様?」
私の声に、紙のごとく真っ白な表情をした右近太夫様が振り返る。
「ほ、本家の宰相殿ッ!?」
「家臣の方々を下げて頂きたい。赤穂池田家の浮沈に関わること故」




