第七章 3 その頃、江戸の柳生家では……
柳生十兵衛サイド 寛永16年(1639年) 12月某日 夜 江戸 柳生家上屋敷
「そうか、土井殿が腹を切ったか……」
布団の上で上半身を起こした親父殿が、両腕を組んで唸った。
「水戸の若に、決して恣意があって越前黄門を毒殺した訳ではない、天下静謐を望むが為と……それを証明する為に自らの腹を切りました」
「あの方らしい。儂も、もうすぐに地獄に行く事になる。向こうで土井殿……そして本多親子の四人で酒でも酌み交わすとしよう」
「鬼に酌させて、ですか?」
うむ、と親父殿が悪そうな笑みを浮かべた。俺の横で控えてたあやめがびびって、体を強張らせてるぞ。
この場には親父殿、俺、あやめの三人しか居ない。又三郎は足の動きがまだ未熟と助九郎等から指摘され、親父殿から「能の摺り足を間近で見て来い!」と怒鳴られ金春家に行っている。……多分、暫く帰って来ないだろう。
伊豆守様は銭がどうのこうのと言って、幕閣一同と談合を重ねてる。ざっと説明されたんだが、難しすぎてよく判らんかった。
親父殿が呆れた顔をする。
「お前は政にはまったく、毛筋ほども興味を持たなかったからな。撰銭令よ。段階的に日ノ本の銅銭を寛永通宝に統一したいのだが、なかなか上手く行かぬ。特にここ数年の天候異常で、来年は凶作になりそうだからな。銅も全然足りぬという話だし……」
親父殿が溜息を吐く。……うん、さっぱり判らん。
「あのぉ、但馬様、一つお聞きして宜しいでしょうか?」
おずおずとあやめが口を開く。
「何じゃ?」
「何故、伊豆守様はあの時、土井様殺害の罪で天草四郎一派を捕縛しなかったのでしょうか? いえ、今だってその気になれば、張孔堂を囲んで奴等を捕まえる事は容易い筈。我が甲賀の矜持を慮って――との事ですが……」
「……甲賀の矜持云々はお主達のやる気を引き出す為、それは察しておる訳か」
あやめがコクリと頷く。
「おそらくじゃが、伊豆殿は市井に溢れる浪人達の心を折る事を狙ってるのじゃろう」
「心を?」
「張孔堂に乗り込み、奴等を適当な罪状で捕縛する――忍び、貴様が言うようにそれ自体は容易い。だが、奴等と言葉を交わし、深く接していた市井の浪人達は適当な罪状をでっち上げて捕まえた幕府を何と思う?」
「……卑劣な手を?」
「そう。幕府に反感を持つ。それでは後世、上様の治政に瑕疵があったと思われてしまう。臣下の者として、それは避けたい」
「……」
「ならばどうするか? ――手っ取り早いのは闇の中で消す事じゃ。つまり、お主達忍びの手によって殺害し、世間には病死したと思わせる……。もしくは、奴等自身に地に堕ちてもらうか……」
「地に堕ちる??」
「名声を汚し、浪人達から『裏切者』と思わせる――離間工作じゃな」
あやめが、成程、と得心のいったように小さく頷いた。
まるで師が弟子に教えを授けるかのような光景だ。眺めてた俺は肩を竦め、笑いたくなるのを必死にこらえた。
「若い娘には随分と優しいですな、親父殿。拙者はそんな優しく指導された事ありませんが??」
「お前は可愛げが無かったからな、十兵衛」
「……あやめ、親父殿の肩を揉んでやれ。きっと小遣いくれるぞ」
俺の言葉にあやめが、えっ、えっ、と戸惑う。
「さて、話を戻しますが……土井殿の死を公表しないのは何故です?」
「口煩い大久保殿が亡くなったばかりだし、これで土井様も、となったら上様が動揺する。それに土井殿の存在は幕閣達にとっても怖い長老よ。かの方が後ろで見ていると思うから誰もが好き勝手に動かず、機を織るがごとく、組織として成立している」
実際には親父殿が大目付として見張っていましたからな。
確かに、幕閣がまとまりを欠けば上様も動揺するだろう。
「それで隠す訳ですか……」
「うむ。数年は隠したい。いつまで隠せるかは判らぬがな。それに……」
親父殿が顎に手を当てて目を閉じ、深く思考の海に沈む。
「親父殿?」
「肥後殿が……何か気付いたフシがあるしな……」
「親父殿??」
ついにボケたか?
親父殿が瞼を持ち上げ、ギロッと俺を睨む。
「ボケておらんわ」
「何で拙者の心の中が判るんですか?」
「顔を見れば判るわ、馬鹿め。――島原の怨霊、奴の知識に多くの者が興味を持ち、近寄って来てる。まるで甘き蜜に虫がたかるがごとくな。これ以上、それを増やすな。特に京のやんごとなき方や北の輩などな」
「はあ……」
京は判るが……北??
親父殿は疲れたのか、横になり、右手をそれこそ虫を払うかのように左右に振った。
「もう行け」
「ハッ」
立ち上がって襖を開けた俺達の背に、珍しく「尾張の小僧に負けるなよ、十兵衛」と気弱な声が聞こえた。




