第六章 4
天草四郎サイド 寛永16年(1639年) 八月 深夜 張孔堂
世にいう『忠臣蔵』……いわゆる赤穂事件だが、これには一つ大きな謎がある。
「吉良上野介は本当に浅野内匠頭を苛めたのか?」
苛めがあったとする派は、吉良が何人かに言った嫌味を証拠として挙げる。それに対して苛めは無かったとする派は、下手に浅野が失敗しようもんなら教えた吉良も責任を問われかねない、と苛めを否定する。
また、教授料として賄賂を吉良に贈るのが慣例になってたのだが、それを浅野がケチッたと言う話や、塩の市場シェアを巡る争いが裏にあるという話もあるが、賄賂はともかく塩についてはどうも小説の中だけの話らしい。
というのも、討ち入りには参加しなかったが赤穂藩に於いて大石と双璧を為した家老に大野九郎兵衛が居る。この人は経済閣僚だったようで、城の引き渡しの前に藩札の清算や藩士への分配金(退職金)を配っているのだが、入り浜式(潮の干満を利用して海水を引き込む方法)を導入して赤穂の塩を江戸にまで知られる名産品に育てあげたのも彼らしいのだ。
導入って事だから、藩の機密って訳でもない。おそらく瀬戸内で広まりつつあったやり方なのだろう。つまり、
「その技術教えろ。そしたら教授料は50%オフ!」
「赤穂の重要機密だから無理!」
は、根底から成立しないのである。あり得るとしたら、キー君の領地では入り浜式は地形的に難しい、か。つまり、「教えても意味無い」だ。でも、それは専門家による地形調査など様々な角度から分析をした上での話であって、他藩の人間がいきなり言うとは思えない。
それから大野九郎兵衛には『二番隊リーダー説(大石が失敗した時の第二陣)』の噂もあり、平成の世ならヘッドハンティングが殺到しそうな有能な人材だ。孫を置き去りにして逐電したと堀部安兵衛が書き残してるらしいが、安兵衛は徹頭徹尾仇討ち強硬派。盛ってる可能性が皆無とは言えない、と俺は思う。
――
深夜。
皆は部屋に戻って床に就いた。キー君と光さん、それから甚君の三人は客間で寝ている。
寝付けなかった俺は、縁側から外に出て月に祈りを捧げていた。
歴史改変する覚悟は出来てる。……出来てる筈だ。
でも、忠臣蔵は日本人の自己同一性に深く根差してる。本当にこれを無くしていいのだろうか?
「……四郎様?」
ん?
囁くような声。
振り返ると庭の物陰から雪ちゃんが出てきた。月の白い光に照らされ、いつもの男装姿が二割増しで妖しい魅力を醸し出している。
「悩み事ですか?」
「……ちょっと考えがまとまらなくてね」
立ち上がって肩を竦めてみせる。
「私では役に立ちませんか? 幸せは誰かと分かちあえば二倍に、苦悩は半分になると言いますよ」
「それは夫婦になる時に言う台詞じゃない?」
思わず苦笑いが浮かんでしまう。
雪ちゃんもクスクスと笑い、縁側に腰を下ろして隣をポンポンと叩いた。ここに座って洗いざらい白状しちまえ、という意味か。
「高町流交渉術じゃないだけマシか」
「たかまち……どなたですか、それは?」
小首を傾げる雪ちゃんに、俺の時代に居た説得の達人です、と言って隣に腰を下ろした。うん、間違ってはいない。
「で、何を悩んでおられたので?」
「……歴史の流れが変わらなかったと仮定して、これから数十年後、キー君は切腹した大名の遺臣達に殺害される」
「えッ!?」
さすがに驚くか。
松の廊下での刃傷から始まる赤穂事件の概略をざっと説明した。
「……何故、浅野が刃傷に及んだかは不明。でも、この事件は多くの人が『物語』として描き、舞台などで演じられ為にその『物語』と『事実』の境目が曖昧になってるの」
「曖昧、ですか」
「うん。さっきも言ったけど何故、刃傷に及んだかは不明。でも、それだと『物語』として面白くないから『吉良が虐めた』って脚色された。数百年後までこの『物語』は演じられ続けられているから、この脚色は大成功だったと言っていい」
「が、そのせいで『吉良様が虐めた』が事実のようになってしまった、と?」
俺はコクリと頷いた。
子供の頃は俺も「大石、すげえ!」と単純に思ってたが、浅野が勅使饗応役を担当するのは二回目だったと何かで読み、妙に引っ掛かった。
――教授料を安く見積もったのってマジなんじゃないのか?
有名な畳替えや本番当日の衣装の話――本当にあったと仮定して――は、浅野側がキー君とちゃんと連絡を取り合っていれば避けられたんじゃないのか?
つまり、浅野は「二度目だから」と教授料を安く済ませ……
キー君は「あ、そ。なら、いちいち説明しなくていいね」と打ち合わせする機会を持たなかったとしたら……
そして浅野は痞という持病があり、薬を服用してた記録もある。何でも心理的な不安やストレスを感じると、胸や喉が詰まったような感覚に陥るらしい。……それって過呼吸症候群? ま、病気については門外漢なので何とも言えないけど。
あくまで俺の想像だが、おそらく浅野の周囲は病に気遣って「二回目だし、気負わなくていいですよ」とアドバイスしてたんでは? で、本人もその気になって「そうだな。あ、だったら教授料も減額してもらうか。うちの藩も財政きついし」と考えた。
で、届いた教授料を見てキー君は「舐めてんのか?」とイラッとはするものの、だったら一人で頑張れ、と大人の対応で流した。もしかしたら病について小耳に挟んでいたのかもしれない。
そして儀式本番が近付くにつれ、やはり打ち合わせ不足が露呈してくる。ストレスで追い詰められた浅野は、無意識に「アイツがちゃんと説明しないから。全部、アイツの悪いんだ」と考えてしまい……当日、それが爆発した。
まるで平成の世に起きてた通り魔事件の犯人を、素人がプロファイリングしてるようで強引なのは自分でも判っている。が、この理屈はキー君を説得する為に構築してるだけだし、この時点で「まだ発生してない事件」を理路整然と説明しても、周囲はMM〇よろしく「な、何だってーッ!!」と返してはくれないだろう。
「……では、何を苦悩しておられたので?」
「忠臣蔵は、いい意味でも悪い意味でも後世に影響が大きい。いや、大き過ぎる。様々な文芸作品、舞台、映画、ドラマ……傑作が山のようにある。事件を未然に防ぐってことは、すなわちそれらをすべて消し去ってしまうって事だ」
俺にそんな権利あるのか? 四谷怪談だって忠臣蔵の派生作品なんだぞ。もし四谷怪談が生まれなかったらジャパン・ホラーは確実に百年は遅れる。
で、悪い意味での影響は何だと言うと、何人かの作家がエッセイで指摘してる幕末のテロ――桜田門外ノ変とか――、あれをやった連中の胸の奥には赤穂浪士への憧憬があったんじゃないかって点だ。
「それって、目的が正しければ手段は選ばない、って意味ですか?」
「うん。それも一つの戦術だってのは判らなくもないんだけどね……」
例えば独裁者が恐怖政治で国を支配してると仮定して、国民の一人が失敗すれば処刑されるのを覚悟で暗殺を決行したら……。殺人行為だが、その者は英雄として賞賛されるだろう。
「風蕭々と易水寒し……ですね」
「壮士一度去ってまた還らず……。荊軻だっけ? うん、まさにそれ。自分は荊軻だと成り切っちゃうんだね」
そして、この幕末の維新志士達に自分達をなぞらえていたのか、『昭和維新』を謳って決行されたのが戦前のクーデター未遂、226事件だ。
雪ちゃんが深く溜息を吐く。
「ふぅ……。吉良の若様が殺される事件が日ノ本の歴史に於いて、重大な意味を持ってるのは何となく理解しました。でも、四郎様は……助けたいんですよね?」
「うん、友達だからね。――友達を殺されるのは、島原だけでもう沢山だよ」
俺が苦笑いして言うと、雪ちゃんはニコリと「しょうがない人ね」といった感じの笑みを浮かべ、俺の頭に手を伸ばした。
え?
そのまま俺の頭を強い力で引き寄せて自分の太腿に置き、膝枕する。
「ゆ、雪ちゃん??」
「四郎様は難しく考え過ぎです。察するに、その忠臣蔵とは『お家の一大事に武士はどうあるべきか?』武士にとってそんな根源的なものを問うておるのでしょう。故に何百年先の世まで語り継がれている」
……雪ちゃんの手が俺の頭を優しく撫でる。
「そ、そうだけど……」
「ならば話は簡単です。大坂の鴻池の御隠居に手紙を送り、伝手で舞台付き作者(脚本家)を紹介して貰いましょう。その人にその『忠臣蔵』の詳細を語って、芝居にしてもらうのです」
「あ……」
近松門左衛門って、いつ生まれたっけ?? 江戸時代のシェイクスピアと後世から評価される、あの大作家なら……。
「芝居は大成功するのでしょう? 実際に起きた事件という売り文句は消えちゃいますが、吉良の若様を助けつつ後世への影響も妨げない一手――どうです?」
「参りました。さすがは天下の軍学者、由比正雪殿」
「これからは誰かに頼ることも少しは覚えて下さい、天下の大罪人、天草四郎殿」
俺が降参と肩を竦めると、雪ちゃんがクスクスと笑った。