第二章 4
2
翌日。
前もってアポを取っていた大商人に会う為、俺達はある屋敷に訪れていた。奥座敷に通され、目の前には床の間を背にした老人が難しい顔をして座っている。
老人が口を開くのを俺達はじっと待っていた。
「……」
開け放たれた障子の向こうには見事な庭があり、そこから気持ちのいい風が入って来るのだが、室内の空気は重い。何、この圧迫面接?
「ごろ……」
しびれを切らした雪ちゃんが立ち上がろうとしたが、その膝を押さえて首を左右に振る。
「……」
雪ちゃんは唇を噛んで眉根を寄せ、コクリと頷いて座り直した。昨夜の『勉強』のせいか目の下に隈がある為、非常にコワい顔になってる。
老人の口が開く。
「……確かに、確かに尾張藩、紀州藩から『飢饉の前兆が起きてないか?』と言われて、わて、ハッとしました。言われてみれば思い当たるフシが幾つもありますよって。そういう意味では尾張さま、紀州さまは命の恩人や。でも、これは……」
老人が目の前に置かれた手紙――尾張公からの紹介状――を睨みつけるような目で見詰め、再び口を閉ざす。
手紙にはこう書かれていた。
『……奇貨を拾った。時の果てを見通す力を持つ。どうやら化生、異形異類の類なり……』
こんな手紙貰えば誰だって戸惑うだろう。しかし尾張公、化物って酷くないっすか?
庭先に人影が生ずる。
「旦那様。三井様がおいででございます。いかがなさいますか?」
「ふむ……」
沈思黙考してた老人が瞼を持ち上げ、俺に目を向ける。「――先頃知り合った伊勢松坂の商人で信用の出来る男です。構いませぬか?」
俺は微笑みながらコクリと頷いた。
「貴方ほどの――かの名将、山中鹿之助殿の末裔たる鴻池善右衛門さまが『信用出来る』と申されるなら」
「……フッ。わては、ただの商人――酒屋の隠居ジジイですよ」
老人が白い片眉をピクリと動かし、薄く皮肉めいた笑みを浮かべる。
鴻池善右衛門――数百年後、つまり俺の生きていた現代まで続く大豪商の当代である。
戦国末期、山中鹿之助の遺児が摂津の鴻池村(現代の兵庫県伊丹市から宝塚の辺りらしい)に居を構えた。最早、武をもって家名を復活させるのは不可能と平和な時代の到来を予見し、刀を捨てて酒造りの道に入った。
伝承では関ヶ原の年、彼に叱責された使用人が腹いせに仕込み中の酒樽に向かって灰汁を投げ込んで逃げた。当時の酒は濁り酒なのだが、彼は驚いた。どうしてかは判らなかったが、そこに澄んだ酒――清酒が出来ていたのである。酒飲み達よ、彼と逃げた使用人を伏して拝むべし。
この清酒を武器に財を築き、そして彼の息子――初代、善右衛門。つまり目の前にこの老人だ――が大坂に出て来て海運業へ乗り出す。現代風に言うなら江戸の市場を求め、流通業に乗り出したってところだ。その後、何代目の善右衛門か忘れたが両替商(現代の銀行業務)を始めて大名貸しを行ったりし(幕末には新撰組にも貸し付けを行ってる)、明治には長者番付に毎年『鴻池』の名が載るほどの大財閥を形成していく。
先程の使用人に連れられ、ニコニコと人当たりのいい笑みを浮かべた青年が庭先に姿を見せる。
「おや、お客さんでっか? そんなら出直しますよ、御隠居」
「いやいや、あんさんの意見も聞かせて欲しいし、上がっとくれ。銭の匂いがする話を聞かせてやると、尾張様がまたけったいなお人を送り込んで来ましたんや」
けったい、ですか。
苦笑いを浮かべ、雪ちゃんと顔を見合わせる。コイツは故駿河大納言の隠し子、俺は島原切支丹一揆の総大将、そして連れに一揆軍の軍師である宗意軒の爺さんに幕府軍側に居た新免武蔵様、更に尾張柳生の御曹司が居るとなれば……確かに、けったいな一行だ。
縁側から、ほうほう、と好奇心たっぷりの大きな瞳をして先程の青年が上がってくる。伊勢松坂の三井と言ったか。――ん? 三井??
「伊勢松坂で酒屋土倉をやってる三井、言います」
「江戸で張孔堂という名の私塾を開いてる由比です。儲けの種になりそうな事を思い付いたので紀州藩と尾張藩の知人に話したら、紹介状書いてやるから大商人を口説き落としてみろ、と言われまして」
「儲けの種、ですか……」
「ええ」
雪ちゃんが一度区切り、俺に視線を向けてきた。ニヤリと笑って頷いてやると雪ちゃんも微笑んで頷き、鴻池の御隠居と三井さんの方に姿勢を戻す。「――まだ実ってない、来年の米の値段を決めて貰おうと思いまして」
「ッ!?」
「……詳しく聞きましょ」
三井さんが目を真ん丸にし、鴻池の御隠居は険しい表情でそう呟いた。
袖の袂から折り畳んだ紙を出し、雪ちゃんに手渡す。それを畳の上に広げ、
「……横の線を今年、来年、再来年とお考え下さい。縦の線は米の金額――相場です」
紙にはL字の形に墨で線が引いてある。数百年後の人間にはお馴染みのグラフ(チャート)だ。正雪は携帯用の墨壷と筆を出し、今年のポイントに上向きの矢印を書いた。
「仮に、今年の相場がこう上がったとします。来年の米相場がこのまま動かなければ同じ金額出せば買えることになります」
「そう単純なら商人達は皆、苦労しませんよ」
苦笑いして三井さんが言う。
「ですね。という訳で、来年の米を一定量、この金額で買う約束を今年します。手付けを払ってです。計算を単純にする為、百石を一万両としましょうか。で、来年になり相場が百石、一万五千両に上がってたとしましょう。普通に買ってたらあかひッ」
……あ、噛んだ。
雪ちゃんが頬を少しだけ赤くし、赤字です、と言い直す。
「ん……ふむ。結果的に五千両分の赤字を回避出来た、という訳だな」
御隠居の口の端、かすかにヒクヒクしてる……? もしかして笑いそうになるのを必死に堪えてる??
「え、ええ。仮に最低限、必要な量が半分の五十石としましょうか。お得意さんとかで。ですので残り五十石を売ると……七千五百両入ってきますよね」
「手元の五十石を五千両でお得意さんに買って貰えれば、最終的に二千五百両の儲けとなるな」
御隠居が目を細める。さすが計算が速い。
「え? え? なんで二千五百両??」
連也が指を折りながら小首を傾げてるが、取り敢えず放置しよう。
「では、逆に相場が下がった場合ですが……百石が五千両まで下がったとしますか。一万両で買う約束をしちゃってるので五千両の損ですね。さて、先程と同じく最低限必要なのが五十石として、残りの五十石を売って少しでも損を埋めましょう」
「二千五百両、手元に入って来るな。五十石をお得意さんが五千両で買ってくれれば〆て七千五百両。つまり五千両の損のところを半分の二千五百両に抑えられる」
老人が目を閉じて唸るように呟く。……連也は指を折りつつ頭から煙を吹いてるが、やっぱり放置で。
現代では金融システムの重要な柱になっている先物取引だが、その始まりはここ大坂の堂島らしい。いつから行われていたか正確なことは知らんが、この仕組みを博打としか理解できなかった八代将軍吉宗が潰したと『逆〇の日本史』にあったから、寛永の大飢饉を経験した商人達が試行錯誤の上、町人文化が花開く元禄辺りには完成してたんじゃないかな? 先物取引は博打じゃない。相場の乱高下による破産リスクを少しでも減らす、言ってみればリスク・マネジメントなのである。
となると……飢饉の情報を尾張、紀州に流してしまった今、商人達に自衛策を採られると、このシステムは誕生しない可能性がある。故に『金になる』と俺は踏んだ。マッチポンプと言うなかれ。歴史改変を仕掛けるにしても何にしても、先立つものが無いと話にならないのだ。
「横に広がる為替の理屈を時の流れ――“縦”に置き換えたと考えればいいのか? 御隠居、これは是非とも取り入れましょう!」
三井さんが目を真ん丸にしてグラフを睨む。よし、一人墜ちた。
御隠居は苦笑いして三井さんに「落ち着きなされ」と言い、雪ちゃんに視線を向けた。
「これ、あんさんが考えたんか?」
「え、ええ……」
雪ちゃんがチラチラと俺に視線を向けつつ頷く。御隠居は肩を竦め、「そうか、あんさんか」と呟き俺を見詰めた。
フム。海千山千の商人に小細工は利かないか。
「どうやら、近いものをすでに考えているようですね?」
「うむ。仲間内で『あ~でもない、こ~でもない』と頭を捻っておったわ。だから、まだここまではっきり形になってはいないんだが……誰かが漏らしたとも思えん。あんさん、これをどうやって思い付いた?」
「お二方を、商人の中ではまさに戦国大名に匹敵する程の傑物と見込んで話します。公の手紙にありました『異形異類』の本当の意味を……。最後まで聞いた上で我等と手を組むか、何も聞かなかったことにするか、お答え下さい」
「……ふむ。長い話になりそうだのぉ。茶を点てよう」
御隠居が釜に火を入れ、しばらくするとシュワシュワとお湯が沸き始めた。茶道はよく知らないが、御隠居の流れるような見事な所作に見惚れていたら、雪ちゃんに膝を叩かれた。いけない、いけない。
「俺の名は……」
このタイミング(某学園問題)で、作中人物の御子孫さんにテレビで「無礼者め!」と叫ばられると……自分が怒られてるような気分に……(苦笑)




