Baby Skin & Rain Sugar
「メロンパン…」
灰原栄の唐突な呟きに、小宮伸彦は一瞬持っていた本を落としかけた。
「もう駄目、死ぬ。メロンパン買って来て」
伸彦が、眉間に寄る皺を隠そうともせずに「それは今、関係無い筈だろ?」と溜息をつく。
「うっさい馬鹿!もう嫌!甘い物でも食べないとやってらんないよ」
栄が、涙目にすらなって大きな声を出す。買って来たところで、図書室は飲食禁止である事を口にすると、彼女は更に怒りを顕にした。
「あんたさー、もう少し優しくものを言えないの!?」
「それでお前がこのテキスト全部解ける様になるのか?」
「うー…!」
歯軋りしながら、シャーペンを握り直す栄。「後で覚えてなさいよね!」などと、訳の解らない事を怨念めいた表情で吐き捨てる。頼まれたから勉強を教えてやっているのに、何て言い草だ、と伸彦は思った。
「…」
「…」
夕暮れ時ではあったが、外は随分と雨が降っていた。この図書館から見る夕焼けは中々のもので、それは色々な人達が言っているのを何度も聞いている。栄がそんな話をしてみると「普段此処に来て勉強してない奴が言うか…」と、伸彦がまるで今日の空みたいにどんよりと濃く曇った表情になった。
「まあねー。此処が良いところは他にあるもんね、私にしたら」
にやりと笑って、栄が図書室の端の窓をちらりと目配せした。其処には、事務室へ続くドアと…。
「非常階段?」
「ふっふっふー、あれが便利なの!あれこっそり使ったら、何と!!あの道の向こう側にある「河内家」がもう目の前!校門からだと凄い距離あるんだけど、此処からならあっという間なんだよー!凄くない?」
「たい焼きか…成程。…ふーん…」
何事か考え込む仕草のまま、伸彦が数秒動きを止める。そして机に立て掛けてあった傘を手に取り「ちょっと席外す。お前はそれやってろ。戻ってくる前に全部な」と、眼鏡のずれをわざとらしく直しながら言った。
「ええっ?これ全部ー?無理ー!!」
「戻って来た頃に全部出来てたら、何か良い事があるかもな」
伸彦の意味深な言葉に、栄は何事かと思った。
「但し、この間と同じミスが見つかったら…解ってるだろうな?」
低く籠った声で言いながら、伸彦が小走りで非常階段から姿を消した。
「…あれって、もしかして…」
私が頑張ってこれを終わらせたら「河内家」のたい焼きを奢ってくれる…?
「何だー、いいとこあるんじゃーん!よーし、頑張ってやっちゃお!!」
現金なもので、一気にやる気が起こった栄は黙々と机に向かった。
「灰原さんがあんなに勉強熱心なのって、珍しいね…」
同じクラスの女の子二人が図書室を出て行こうとした時の声も、栄の耳には入らなかった。
※
そして、下校時刻も過ぎようとしている頃。天候のせいですっかり空は暗かった。
「出来たか?」
伸彦が、戻って来た。手にはナイロン袋が二つ。
ほかほかと湯気も立ち、何やら甘い香りが漂っていた。
「ま、まだ出来て…ない…」
悔しそうに、栄が言った。
「そうか。んー…?おお、でもかなりやれてる!もう少しだな、頑張れよ」
「あ、でももう時間無いよね。学校閉まっちゃう」
「そうだな…でもここ迄は今日中に進めておきたいし…まあ、でも仕方ないか…お前にしちゃ良く頑張ったんじゃないか?帰る支度しようぜ」
「うんっ」
栄は、胸を躍らせた。
※
そして下校。
雨の中、二人で歩く帰路。
「ねえねえねえ!」
ぐいぐいと伸彦の制服の袖を引っ張る。
「何だよ」
「頑張ったからさー、良い事あるんでしょー!?ほら、それ!」
伸彦の持つナイロン袋を指差して、遠くからでも聞こえそうな程、栄は唾を飲み込んだ。
「…ん、ああ。そうだった。…ほら」
ぽん、と手渡されたのは…。
「…あれ?」
「メロンパンだったよな」
メロンパン。恐らく、コンビニか何処かで買ったであろう、普通の。
「…」
「食べたかったんだろ?」
「…あんたのそれは?」
「河内家のたい焼きか?良い事教えてくれたな、これからはあの道、使わせて貰うぜ。やっぱりたい焼きは此処だよな。時間が時間だから、一つしか買えなかったけど」
言いながら、伸彦は袋からたい焼きを取り出して、頭からぱくついた。「馬鹿にもの教えてるから、糖分が染みるぜ…」などと、言わなくても良い事を口にしている。
「…何だよ?」
「このっ…!馬鹿ー!!」
鞄で伸彦を思い切りぶん殴る。
「痛っ…!!」
栄が、思い付く限りの悪態をつきながら伸彦を叩く。
やがて疲れたのか、肩で息をしながらメロンパンと鞄を投げつけた。何だか頑張った自分が情けなくて、涙が滲み出る。
「うー…」
ぽろりと、雨に紛れて一粒のしずく。
「…お前…」
「何よー…」
雨音。沈黙。息遣い。
少しだけ、甘い匂いがした。
栄が感じたのは、たい焼きの香り。
伸彦が感じたのは…。
「…ほら、顔、上げろよ」
「何よぅ…」
そっと、栄の顎をつまんで、自分の目線迄上げてやる。
「はむっ…むっ…」
半分にはなっていたが、たい焼きを栄の口にねじ込んだ。
「こっちのメロンパン、貰うぜ」
アスファルトに投げ付けられて、袋がびしょ濡れのメロンパンの封をあける。
「…」
「何だよ、駄目なのか?」
「…えへへ」
「…何だよ…」
「半分こなら、いいよっ」
たい焼きを全部飲み込んで、栄がメロンパンを食べたい、と、口をあけた。
雨は、強く、強くなっていく。
「上手く割れないな…」
「勉強じゃないもんね」
有名な河内家のたい焼きよりも、意外とコンビニのメロンパンの方が、何故か美味しいと感じてしまった日のお話…。
END