狼の子
日本狼が絶滅したとつたえられて既に久しくなった。
今でも様々なところで、狼の目撃証言が得られるが、決してその証明はされていない。
種は、絶滅に向かうとどうやら歯止めが効かなくなるらしい。
多分、今隆盛を迎えている、人間すらそれを否定することは出来ない。
秋も深まり、人がそうそう踏み入れぬ山奥で、枯葉が舞い落ちる大きな木の祠で、小さな狼は生まれました。
親の狼は、年をとっていて、やっとやっと子孫を残そうと、必死の思いで、誕生させました。
生まれてきました。のは、三匹でしたが、うまく母さん狼の乳を飲めました。のは、二匹だけでした。
やせ細り、歳をとった小さな狼の両親は、子供達を育てようと必死でした。
度重なる伐採により、山は杉の木ばかりとなり、山はやせ細り、そこに住む動物も限られてきました。
餌は、ネズミやウサギの小動物ばかりで、それも一日一匹か二匹といった具合で、狼の家族が飢えを満たすのには不十分でした。
生まれてきました。子供のうちの小さなほうは、どう見ても、育ちそうもありませんでした。
秋は更に深まり、次第に、降る雨に、白い雪が混じるようになりました。
そうなってくると餌になるような獲物は、もう見つかりませんでした。
母狼も父狼もやせ細り、木の祠でかたまって寒さをしのいでおりました。
ふと、とおさん狼が何かの音を聴き、顔を上げました。
じっと祠の外に耳を澄ませました。
さっく、ざっくと、森の中を雪を踏みしめる音が聞こえました。
その単調な音は、動物の音ではありませんでした。
人間の足音は、いつも目的がはっきりした歩き方をしていました。。
狼にとっては小さいころから、人間に近づかないように、教わってきました。
もう狼は、自分達以外に存在していないことを、本能的に感じていました。。
高い山の絶壁の頂から、縄張りを主張しようが、何の応えも無く、縄張りが次第に人間によって開発され、追い出されていくことも承知していました。。
狼にとって縄張りを追い出さされることは、生きることを拒絶されたことに等しかった。
年老いていくとうさん狼にとって、かあさん狼に出会えたことは、本当に奇跡に近かった。
まして子孫を残すことが出来たのだから、それこそ奇跡であった。
とおさん狼は、祠の外に顔を出し、更に人間の動きを知ろうとしました。
雪を踏みしめる音が止んだ。
雪に覆われた山中がシーンと静まり返かえりました。
山にいる動物の全てが、その瞬間に、凍りついました。ように、次の瞬間を待った。
遠くで、鉄をすり合わせる音が聞こえました。
「ズトーン」という大きな音とともに、木に覆いかぶさった、雪が落ちる。
とおさん狼は、体を震わせると、落ち着かない様子で、辺りを見渡しました。
風と共に、再び、雪を踏みしめる音が聞こえ、火薬の匂いとともに血の匂いが漂っていきました。
しばらくここには人間が入り込んでこなかった。
狼達にとってここが最後の楽園であった。
今や、この地も安全な土地とはいえなくなっていった。
とうさん狼は祠の中を振り返りました。
かあさん狼と、二匹の小さな狼は、不安そうにとおさん狼を見ていました。。
そこにいる皆の耳は他の生き物のように、せわしなく動いていました。。
再び祠の外に顔を出した、とおさん狼は、じっと銃声の聞こえた方角に、耳を傾けました。
犬がいると、とおさん狼は思いました。
それと同時に、犬の吼える声が、木々に覆われた谷あいに低くこだました。
風を切りながら、雪の上をささっと、した動きは、もうまもなく、この木の祠に接近していることは、容易に察することができました。。
とおさん狼は、意を決したかのように、振り返りかあさん狼を見ました。
かあさん狼も瞬時に自分達がどうしなければならないかを知りました。
狼の家族は、暖かい祠をあきらめ、外に出ました。
小さな兄弟狼は、何が起こったのかわからないまま、雪の積もった、祠の外に出ました。
もう既に、とおさん狼は、森の奥へと向かって、歩き出していました。
かあさん狼は、小さな狼が、ついてこれるか振り返りながら、ゆっくりと歩きはじめました。
一匹の丸々とした小さな狼ほうは、転がる玉のようにかあさん狼についていきましたが、更に小さくやせたもう一匹は、よたよたと、右に左にふらふらとついていこうとしました。
丸々とした小さな狼が、かあさん狼に追いつき、とおさん狼へとついていくと、かあさん狼は、じっとやせ細った小さな狼を、何か決断でもするかのように、見ていました。
犬の吼える声が次第に近づいていました。
かあさん狼が見つめる中で、やせ細った小さな狼は、立ち止まり、かあさん狼を見ました。
かあさん狼は悲しそうに、小さな狼を見ていました。
ちいさな狼は、その瞬間に、もうついていくのをやめ、そしてまた、木の祠に戻っていきました。
かあさん狼はそれをみとどけると、とおさん狼の向かったほうへと駆け出していきました。
やせ細った小さな狼は、祠に入る前に、もう一度かあさん狼を振り返りました。
しかし、もうそこには丸々とした小さな狼や、とおさん狼やかあさん狼の姿を確認することは出来ませんでした。
祠に戻ると小さな狼は祠の一番奥に小さく丸まりました。
それまで、本当に暖かいと感じていた祠も、今では、入り口から入り込む冷たい風で、
寒くてしかたがありませんでした。
犬が近づいているのは、その気配で知ることができました。
黙っていても震えがとまりませんでした。
どうなるんだろう、小さな狼は思いました。
目をつぶり、恐怖が過ぎ去ることを願いました。
祠の外で、何か大きな生き物が匂いを嗅ぐ様子を知ることが出来ました。
どうか見つからないようと、小さな狼は思いましたが、その大きな生き物は、何かを伝えるかのように、吼え始めました。
遠くから、雪を踏みしめるザックサックと言う音が、規則正しくこちらへ向かってきました。
小さな狼はただ小さくなって震えているだけでした。
大きな生き物は、祠の周りに積もった雪を前足で、掻き出していました。
「よーし、待っ」という声が聞こえました。
はあはあという、その生き物は、その声に、雪を掻き出すのを止めました。
何者かが祠を覗き込んでいるのが、小さな狼には、痛いほどわかりました。
そうしてゆっくりと、手が伸ばされ、首根っこをつかまれました。
もうおしまいと小さな狼は思いました。
「野良犬の子供か。」その男は、誰に向かっていっているのか、独り言をつぶやいました。。
小さな狼は祠から引きずり出され、男に抱きかかえられました。
もう既に、小さな狼にはその強靭な力に抵抗する気力は無く、ただただ、震えるだけでした。
大きな犬は、小さな狼を怪訝そうな顔で、見ながら、時折、唸り声をはっしていました。。
「そんなに唸るもんじゃない。見てみろ、お前なんかより、づっと小さな子犬じゃないか。」そう男は、犬に向かって、話かけると、小さな狼を大きな犬の顔に近づけました。
犬は、更に唸り声を高くしていました。が、次第になれてきました。のか、小さな狼の顔中をなめ始めました。
そうして男は、さも小さな狼を、大事そうに、顔で頬擦りすると、大きなナップサックに小さな狼を、顔だけ出していれました。
陽はだいぶ翳ってきて、冷たい風が夕日に輝くダイヤモンドダストとともに吹きはじめました。
ナップサックの中は暖かく、その男の規則正しい歩みが、小さな狼を、眠りへといざなう。
それまでの緊張から解放された小さな狼は、そのまま、目を閉じると、眠りに落ちていった。
どれくらい時間が経ったのであろうか。
男の規則正しい歩みが止まったので、目を覚ましました。
「今帰ったっぞ」という男の声と、玄関の扉の閉まる音で、家の中からまだ幼い子供たちが二人飛び出してきました。。
「ワー新しいわんちゃんだ。」
子供たちが、男からナップサックを受け取ると、我先にと小さな狼の子を引っ張り出してじゃれ始めました。
居間では夕飯の支度がなされ、小さな狼の前には牛乳の入った皿が置かれました。
居間は温かく、心地よかった。
みんなが楽しそうに、食事をしながら、小さな狼の子をかまった。
家族はみんなで四人だ、男と奥さん、そして子供二人。
テレビからの音がにぎやかさに拍車がかかる。
突然、外の庭から「ウォーーン」という地の底から這い上がるような、声がしました。
その鳴き声はあまりにも近く、一瞬にしてあたりを凍らせました。
テレビの音さえ、聞こえず、子供たちすら恐怖を感じる声でした。
玄関の犬すら、おびえて丸くなっておりました。
小さな狼が、その声に反応して、小さく「ウォーン」と返すと、その家族の呪縛はとかれました。
あわてて男は、しまい込んだ猟銃を取り出し、子供たちは、母に連れられて奥の部屋へと籠りました。まるで今にも窓を突き破って、その声の主が飛び込んでくるかのように思えてなりませんでした。
男は、猟銃を片手に外の様子を伺いましたが、既に外には動物の気配が消え、吹雪の中を風が通り過ぎる音だけが、聞こえていました。
翌日は、昨夜の吹雪が嘘のように、晴れ渡っておりました。
男は、猟銃を片手に一睡もせず、窓の外の様子を伺っておりました。
日の出とともに、男は疲れ切ったまま、外に出ました。
辺りは、住宅街の片隅で、丁度、山へと続く森が広がっておりました。
空気は澄んでいて、朝日が森の木々を黄金に染め上げました。
男は、家の周りを見て回りました。
その中で、窓の付近の比較的積雪が少なかったところに、5本指の足跡が残されていました。