PIANO 秋宮 誠空編
元々、親に対して反抗的だった。
歌舞伎なんてものは性に合わなかったし、何より才能が欠片ほどもなかった。
伝統芸能だ何だと言われてもいまいちピンと来なかった。どうでも良かったのかもしれない。
とにかく、何か、自分が思うようにしたい、そう思うようになっていた。
「まさか承諾してもらえるとは思わなかったけどな」
誠空は、空を見上げた。
10月から彼は今までいた高校を離れ、別の高校に行くことになっていた。
そして、今日がその日なのだ。
制服はないということだったが、あんまり服に関しては明るくないため、前の学校の制服を纏ったまま。
親は、この転校に、散々反対した。
秋宮家の次男ともあろう者が、何たる醜態なのかと。それでも歌舞伎の家の息子かと、そう罵られた。
元々反抗的な態度を取っていたこともあり、この話を持ちかけられることは、彼らも想像していたようだ。だが断固として許そうとしなかった。
それでも何とか承諾を得ることが出来たのは、祖父のこの言葉からだった。
“決めたのなら仕方ない。だが、何があっても逃げ出したりなんかするなよ”
祖父は頭の固い人間ではない。歌舞伎に対して積極的ではなかった誠空を、何が何でもこの家に留めておくのは無理だろうと、昔から諦めていたと言う。
転校したいという願いはこの、鶴の一声によって現実となった。
ただし、転校先は定められた。
親元を離れられるなら、別にもう何でも良かった。兄に比べられない、自由な生活が欲しかったのだ。
電車に乗り込み、そっと中を見渡すと、一人の少女が目に入った。
地味な格好をしていて、どうにも印象に残りそうにない少女だ。人並みの顔立ち、人並みの体つき。……いや、体つきは貧相といった方が良いかもしれない。
よくよく見れば彼女の腕や足は不健康なほど細いし、背に似合わぬほど痩せ過ぎている。美容とかそう言った事情であんな体系をしているなら、馬鹿なんじゃないかと鼻で笑うところだが、服装や持ち物から見て、あまり裕福じゃないのかもしれないと推測できた。
少女がこちらを見てきたので、急いで眼をそらす。不躾にじろじろと見すぎたかもしれない。もう一度だけちらりと彼女を見たが、やがてどうでも良くなり、再び眼をそらした。
それが彼女――神月 麗歌との、出会いだった。
「誠空君? 撮れたよ!」
麗歌がとても嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ん……ちょっとブレてる。三脚使った方がいいんじゃないか? って、そんなに近寄るな!」
無意識なのだろうが、普通に身を寄せてきた彼女を制する。ふわふわとした、僅かにウェーブのかかった黒髪が鼻先をくすぐる。甘やかな香りがした。
「あ、ごめんなさい。その……鳥を綺麗に撮るのって凄く難しいから、これが今までで一番綺麗に撮れた奴だったから、その……」
嬉しくて。
そう、呟く彼女を見つめると、彼女は恥ずかしそうに顔をそらした。
誠空の写真を見てみたいと彼女が言い出したのは、昨日のことだった。
一眼レフを持って、家に帰るところを偶然見かけたらしく、声を掛けてきたのだ。
しばらくすると写真の話になり、麗歌は誠空の写真が見たいと言い出した。だが昨日はカメラの電池が切れていて、見せることが出来なかったのだ。だから今日、一緒に写真を撮ろう、なんて話になったのだけれど。
……と、麗歌が誠空の手元を覗き込んだ。一眼レフの液晶に映っているのは、この公園にある大きな噴水。
「わ! 誠空君の綺麗だね! 水……だよね、これ? すごい、なめらかだ……」
「べ、別に綺麗じゃない! それにこの程度なら誰だってすぐできるようになる……!」
誉められてもどうにも反応に困る。
……家で、誰かに誉められることなんか、なかったから。
だから誉められることには、本当に不慣れで。
別に、嬉しくないわけじゃない。そうやって純粋に誉めてもらえることが、嬉しくないわけがない。
でも、やっぱり反応に困ってしまうから。
そんな風に素直に笑顔を向けられても、困ってしまうから。
「シャッター速度を緩めるんだ。三脚で固定して、そのまま待つ。動かないように細心の注意を払って、シャッターが切れたら見てみればいい」
「そうなの? ……凄いね。本当にこの写真、綺麗。水が、まるで絹みたい」
あんまり誉められすぎても、本当に困る。誠空は慌てて麗歌から少し距離をおき、三脚をぶっきらぼうに突き出した。
「………やってみろ」
「いいの?」
「……」
返事はせず、そのまま突き出した三脚を押し付ける。
「……ありがとう」
麗歌は嬉しそうに笑い、三脚を立てた。カメラを固定し、
「……おい?」
おもむろに麗歌がカメラを空に向けた。
「何を撮るんだ?」
「ふふ、秘密」
麗歌は風で乱れる髪を無造作に束ねて、シャッターを切った。
それから待つこと少し。
カシャッ、という短い音が上がると、麗歌はすぐに液晶を確認した。
「一体何を、」
言いかけた誠空の目の前にカメラが差し出される。
液晶に映っていたのは、無論空だ。よく晴れた、青空。幻想的なまでに蒼いそれは、キャンパスに描かれた絵のようだ。
そこに、白い線が幾筋も引かれている。風で彷徨っている、雲だろう。
はっと目を引く青と、それを際立てるための白。自然にはない、変わった風景を、確かによくとらえていた。
「……上手いな。青と白のコントラストが見事だ」
そう呟くと、麗歌はぱっと笑顔になった。
「誉めてもらえた!」
「え?」
「誠空君に、初めて誉めてもらえた! 嬉しい!!」
「……べ、別に誉めたわけじゃ! 僕はただ、その、……」
これは当然誉めたことになるのだろう。だが、誠空にはその気がなかった。ただ思ったことを口にしただけだ。
だけど。
何故か、嬉しくて。
彼女が自分の言葉で喜んでくれる、それがとても、嬉しくて。
だから、誠空は開きかけた口を閉じた。
反論する理由など、どこにもない。彼女が喜んでくれるのなら、それでいい。
誉めたことを、認めるわけではないけれど。
誠空は麗歌がカメラを向けた空を見上げ――どこか満足そうに、微笑んだ。