恋の終わり
朝早く、ローレライが流れるような髪を波打たせて泳いでゆくのを、多くの人魚達が見送った。
彼女は恋人に逢いにゆくのであり、その恋人は美しい彼女に相応しい人だった。
その名をヴィンセントという。この近辺を治める騎士の御曹司だ。
彼女をよく知る者も、噂に聞くだけの者も、ありとあらゆる者が二人を祝福し、絶賛した。
ローレライも、そうしてみんなに認められたことが嬉しいのか、眩いばかりの笑顔をいつも振り撒いていた。
しかし、その太陽が雲に隠れることもある。
ヴィンセントは度々、遠くへと出掛けることがあった。
事前から決まっている時は当然、ローレライに言い聞かせてから行くのだが、時折急に逢えなくなることもあった。
そんな日は、寂しくて胸が締め付けられて、部屋に籠り人知れず泣くのだった。
そしてヴィンセントに逢える時を思い描いて、眠ることも出来ずに夜を過ごす。
それほどに大きな恋心を、いつからかローレライは抱いていた。
だからヴィンセントの所へ辿り着いてすぐに、彼の胸に飛び込んだ。
「ヴィンセント、ひさしぶり!」
「久しぶりって、三日前に会っただろうが」
「そうだけど、ひさしぶりだよ!」
ローレライがあまりに力を込めるものだから、ヴィンセントはバランスを崩して膝を付いた。しかし、彼女に絡めた腕を解きはしない。
そして、柔らかな彼女の唇に、自分のそれを、そっと当てる。
水のせせらぎが、ローレライの甘い吐息をヴィンセントだけのものにする。
長く永遠にも思える一瞬だけの口づけ。
離れてゆくヴィンセントを、ローレライは名残惜しげに見詰める。
「ローレライ、歌を聞かせてくれよ」
しかしヴィンセントがそう頼むから、ローレライはその気持ちを押し込めた。そして恋人の願いを快く承知する。
ローレライが歌うのは、ラインの大いなる流れ、それがもたらす豊かな恵み、可憐に咲く撫子、水の中から見た陽射しの煌めき、星の瞬き……そして、ヴィンセントに出会えた喜び。
楽しみと希望と喜びに彩られた暖かな歌に、ヴィンセントは耳を傾けて聴き入っている。
だが、不意にローレライは歌を止めた。
「どうした?」
ヴィンセントは尋ねるが、ローレライは逡巡を見せ、恥ずかしげに顔を背けるだけだった。
具合でも悪いのかと、ヴィンセントは顔を曇らせる。
「あのね」
「ああ、なんだ?」
「わたし、あなたの話が聞きたいな」
「俺の?」
「うん。わたし、あなたのこと、もっと知りたい」
そこまで言われて、ヴィンセントは自分がいつもローレライにばかり話させていた事実に気付いた。
「ああ、そうか。そういうことか。別におもしろくはないぞ。いいんだな?」
ローレライは、ぱっと顔を輝かせた。
「うん! 聞かせて、お願い!」
あまりに喜ぶローレライに、ヴィンセントは押され気味になりながらも、ぽつりぽつりと話を始めた。
だが、ヴィンセントは騎士。
語るに足るものは、ローレライには何の関係もない政治のことと、自らが嫌う戦争のことのみ。
武門に秀でた一族として人殺しの物語に底はないが、そんなものを誇ることなど、ヴィンセントは出来なかった。
語るにつれて色濃くなるその影を、ローレライが見逃すはずがなかった。
「ヴィンセント……悲しいの?」
ローレライには、ヴィンセントが今にも泣き出しそうに見えた。
だから、震えるその体を優しく抱き締める。
「どうして人は戦うのかな?」
ローレライの問いかけにヴィンセントは答えられない。
しかし彼女は、答えを望んだ訳ではなかった。
「戦わなければいいのにね。……戦う必要のない世の中なら、よかったのにね」
ローレライの優しい呟き。
ヴィンセントは、自分に寄りかかるその軽やかな体を強く抱き返した。
縋りつくように。
守るように。
何も語らず、ただ抱き合っていた。
この静かな場所で、二人は確かな幸せを感じていた。
ローレライはもう、ヴィンセントがなくては生きられなくなった。
けれど、人間─それも騎士と人魚がいつまでも一緒にいられる訳がない。別れはヴィンセントが告げた。
「え? ヴィンセント……なんて言ったの?」
「もう会えないって、そう言ったんだ」
騎士であるヴィンセントに婚約の話が来た。それは人間にとって当たり前で、しかしローレライには信じられない事だった。
「いやだよ! 私、ヴィンセントと一緒にいたいよ!」
「無理だ」
「どうして!?」
「俺は水の中に住めない」
ローレライはヴィンセントの言葉に息を飲んだ。
とても当然で、気にもならなくて、でも決定的な壁。
「ごめん、ローレライ……」
ヴィンセントはローレライの額にキスを落として、いなくなった。
それからローレライは泣き続けた。
昼も夜もなく、声が嗄れても涙は涸れず、何年も何十年も泣き続けた。