恋の息吹
それから数日。
ローレライは再びあのカワウソを追っていた。
今度はローレライの部屋に泥を投げ込んだのだ。
そしてカワウソは、ローレライが追いかけて来られない岸へ上がる。
「こら! この卑怯者!」
「へへん。ここまでは来れないだろ? バーカ」
悔しいが、ローレライは水の中からは出られない。また河に戻れなくなってしまう。
「この……って、あれは?」
「ん? うわっ!」
一人の青年が、ローレライの目の前にいたカワウソを摘み上げた。
ローレライは彼に見覚えがある。
「ヴィンセント?」
「覚えててくれたのか。こいつ、お前のペットか?」
ヴィンセントの言葉に、ローレライは首を振る。
「違うよ。そいつ、わたしに悪戯したんだ」
ヴィンセントは一瞬、目を丸くしたが、すぐに空にも届きそうな声で笑い出した。
「笑わないでよ!」
ローレライは頬を膨らませるが、ヴィンセントの笑いが止むことはなかった。
カワウソはその隙にヴィンセントの手から逃れ、河の中へと逃げ返る。それを見たローレライはすぐさま後を追おうとしたが、ヴィンセントに腕を掴まれて出来なかった。
「待ってくれよ。ずっと待ってやっと会えたんだから」
ローレライは、本当はその手を振り払ってカワウソを追いかけたかった。しかし、彼のずっと待っていたという言葉が気になり、思いとどまる。
「待ってたって、どのくらい?」
「ここ数日」
平然と答えたヴィンセントに、今度はローレライが目を丸くした。
「何日もずっと!?」
「いや、流石に夜は屋敷に帰ったけど」
ローレライは屋敷、という言葉に再び衝撃を受ける。
それは、裕福で偉い方が住む場所のはずだ。自分が口を利くなんてとんでもないことだ。
血の気が一気に引き、身を翻して逃げ出そうとする。
しかし、その腕はヴィンセントに握られたままだった。
「いやー! もうしませんから、許してください!」
いきなり騒ぎ出したローレライに、ヴィンセントは呆れたような視線を送る。何か勘違いしているらしい。
「あのな、なんの話だ?」
「だって、あなたは貴族なのでしょう?」
「まあな」
「だから、不遜な口の利きかたをしたわたしを懲らしめるために待っていたのでしょう? それも何日も」
「そんなわけがあるか。しかも今さら言葉を丁寧にしたって遅い」
「じゃ、なんでわたしなんかを待ってたの?」
「そ、それは……」
急に口籠るヴィンセント。
その様を見て、ローレライはやっぱり何かされるのかと、不安を露わにして顔を曇らせる。
ヴィンセントは敏感にそれを悟り、面白いように慌てだす。
「ち、違う! そうじゃなくて、ただ、その……会いたかったんだ」
「どうして?」
「それは……」
「それは?」
「君が……」
「わたしが?」
「その、綺麗……だったから」
「綺麗?」
ローレライはきょとんとして、ヴィンセントを見つめる。
「ああ、そうだよ。何度も言わせるな」
必死に虚勢を張ろうとするヴィンセントは、逆に可愛らしく見える。
だから、ローレライは微笑みを返した。
まるで撫子のような微笑みを。
それがあまりに愛らしく、思わず赤面してしまったヴィンセントは、それを隠すようにローレライに迫った。
「それで、俺はまだお前の名前知らないんだけど?」
「え? そうだっけ?」
「そうだよ。すっとぼけるな」
ローレライは少し悩む仕草をしてヴィンセントの腕を振り解く。
そして、彼の耳を甘い吐息で撫でつける。
「ローレライ、だよ」
彼に屈んでもらうために頬に当てた手を放す前に、ほんの一瞬だけ唇を重ねて、ローレライは河へと逃げ返った。
後には、呆然としたヴィンセントが残るのみだった。
水の中。
ローレライは自分の居場所で、唇を押さえていた。
初めての時はお礼で、頬だった。
でも今度は……。
どうしてあんなことをしたのか、自分でもよく分からない。
ただ、そうしたかった。
――だって、わたしは、彼のことが――
ローレライは、またあの場所に行こうと決めていた。