語り手5…地の底の王
赤茶けた大地。
赤茶けた空。
全面を土壁で覆われていながら、その壁は霞んで見えない程に遠い。
空に浮かぶ光は偽りの太陽。
その光を背に受けて、大きな影が宙を舞った。
この世界では伝説の中にのみ、その姿を見せた飛竜だ。
巨大な体躯を支える大きな翼を翻し、背に乗せた王を目的地へと運ぶため、竜は飛ぶ。
竜に乗った王は、真紅の髪を風に翻弄されながらも、ただ一点を見据えていた。
人々に地獄と称されるここアビスは、神によって創られたものだ。
そしてそこに住まう竜や鬼、様々な魑魅魍魎は、神の呪いによって姿を変えられた、かつての世界の住人である。
この世界の基となった世界。
その中の一人が、この世界での最高神となっている。
ここアビスの魔物たちも、元は神と同じくヒトの姿をしていた。
彼らは、神の意思に反発した裏切り者の、成れの果てだ。
このアビスの王たるサタンも、その中の一人だ。
カエルスより堕とされたときに手に入れた角は、歪に捻れながら天を向いている。
サタンは自らの持つ強大な魔力のお陰で、辛うじてヒトの姿を残しているのだ。
彼のように、呪いを受けながらもヒトの姿をしている者は、サタンを含め六人しかいない。
完全なヒトの姿をしている者は、サタンらがアビスに引き込んだこの世界の魂たちだけだ。
「……まだ着かんのか……くそジジィめ、広く創りすぎだ」
サタンの口から漏れた呟きは、風に流され消えていく。
先刻からずっと竜を飛ばしているのだが、彼の目的地はまだ見えてこない。
彼の魔力を以てすれば、空間をねじ曲げて目的地まで一瞬にして移動できるだろう。
だが、いざというときのため、魔力はできるだけ温存しておきたかった。
これから向かう先は、少しばかり危険な処なのだ。
それから更に一刻程飛び続け、やっと目的地へ続く一本の道が見えてきた。
この道の先に、今回サタンがわざわざ城から出て、自ら足を運ぶ目的の地がある。
長時間飛び続けて疲労を滲ませた飛竜は、しかし休むことなく羽撃きを繰り返す。
化け物のような姿になり自我が薄れても尚、彼はサタンの忠実な部下なのだ。
その忠実な部下を道の手前に待たせ、サタンは一人、森へと続く道を歩く。
荷物らしい荷物もなく、唯一の持ち物は腰から提げたリキュールボトルのみ。 とてもこれから長い道程を行くような格好ではないが、サタンは黙って歩を進めた。
道は一本だが、その進む先は刻一刻と変化する。森の魔力が為せる業だ。
飛竜に乗り上空から見ていたのでは、濃い木々の枝葉に遮られ、道を見失うだけである。
一人になり、黙々と歩くうちに、サタンはふと昔のことを思い出していた。
あの頃の空は青く高く、日の光は手の届かない場所から差していた。
緑豊かな大地の上に建つのは、白を基調にした雄大な城塞。
その中の一室に、サタンはいた。
背も手足も伸びきっておらず、短い赤髪に大きな赤い瞳が印象的な少年だった。
まだ十にも満たない彼は、聡明な眼差しで学術書を読んでいる。
生意気そうな口元と相まって、何とも『可愛くない』雰囲気を醸し出していた。
そこに、様子を見に来た教育係の男が入ってきた。
いつになく真面目に本を読む姿を見て、男は満足そうに頷く。
「結構結構。普段からもう少し真面目に勉強していただければ、私も補習などさせないで済むのですがね」
「…………」
嫌味のような教育係の言葉を無視して、サタンは学術書のページを捲る。
そんなサタンの態度に些かの苛立ちを覚えたのか、教育係は神経質そうに片眉を跳ね上げた。
「まあ、いいでしょう。ではそれを覚えたら次はこの問題を……」
そう言ってサタンの肩を叩こうとした手が、空を切った。
目測を誤った訳ではない。
手がサタンの身体をすり抜けたのだ。
「な……な……!?」
教育係は驚いて目を瞬かせる。
そのときになってようやく気付いた。
窓から入ってくる風に、サタンの髪も服も本のページすら、揺れ動かないことに。
「こ……このくそガキめぇぇぇ!」
目の前にいるのが、ミラージュで作った幻影だということに気付き、男はヒステリックに叫びながら部屋を出ていった。
サタンに逃げられたのは、これで何度目になるかも解らないくらい多い。
慌てて走っていく教育係の後ろ姿を見て、サタンは呆れたように鼻を鳴らした。
「馬鹿め。貴様の顔を見たくなかっただけだ」
そう呟きながら、サタンはクローゼットの中から飛び出した。
ミラージュの呪文を解除して、その椅子に腰掛ける。
窓際に置かれたその場所からは、外の様子がよく見える。
穏やかな日差しの中、広い敷地内で訓練する兵たちや、サタンを捜して庭を駆けずり回る教育係の姿も。
サタンはそれらを眺めた後、少し身を乗り出して斜向かいにある部屋の窓を見た。
綺麗な内装の中に、若い女性の姿がチラチラと映る。
その腕には、一、二歳くらいの子供。
部屋を歩き回ってあやしているのだろう。
残念ながら新緑色の髪の子供の顔までは、サタンの部屋からは見えなかった。
あの子供が生まれてから、サタンの立場は一転したのだ。
サタンの母は国王の三番目の妻で、所謂側室というやつだ。
王からの寵愛は受けていたが、権力などほとんどない。
しかし、正妻も他二人の側室も、子を身籠ることができなかったのだ。
それ故、サタンが王位継承者とされていた。
ところが、サタンが六歳になった頃。
正妻が病で亡くなり、別の若い女性が正妻として迎えられた。
彼女は、正室にはなれなかったのだ。
しかも、その正妻はそれからすぐに身籠った。
生まれたのは女児だが、その子こそが王位を継ぐ者である。
サタンの周りからは、あっという間に人がいなくなった。
今ではもう、数人の教育係と世話人しかいない。
母は大層嘆いたが、サタンは特に何とも思っていなかった。
むしろ、口喧しい連中が減って良かった、とすら思っている。
サタンは権力争いには興味がなかったし、正直な話、自分が王になるなどと考えたこともなかった。
程なくして母が亡くなってからは、それをあからさまに態度に表すようになった。
サタンを利用しようとする高官もいたが、サタンが頑なに興味がない、関係ない、余所でやれ、といった姿勢を貫いていたため、周囲の人間もサタンをそういった目で見ることはなくなっていった。
サタンがただ一つ興味を持った……というより、気に掛けたのが、自分を王位継承者から引きずり下ろした異母妹の存在だ。
あの小さな身に、どれ程厳しく窮屈な教育をされるのかと思うと、少しばかり哀れに思う。
まだ物心つかない幼子だからいいが、これから先が多少心配ではあった。
そんな心配を余所にすくすく育ちやがってあのアマ……
ついそんなことを思いながら、サタンは上から降ってきた針の雨を打ち払った。
森に住む獣たちの攻撃だ。
彼らはかつての世界の民ではなく、獣と成り果てた彼らの子孫である。
刻を経るにつれ、より知能が高く凶暴になっていくから手に負えない。
絶えず攻撃してくる獣たちを追い払いつつ、サタンは更に奥へと進む。
月日を重ね、異母妹は何故かサタンに懐くようになった。
「おにーさま」
舌足らずに自分を呼ぶ小さな妹の声で、サタンは足を止める。
自分とはまるで正反対の、おとなしく真面目な少女に「兄」だなどと呼ばれると、鳥肌が立つ。
「その呼び方はやめろと言っただろう」
冷たい目と声で見下ろすが、彼女はまるで気にしていない。……いや、冷たくされているとは気付いていないのかもしれないが。
ともあれ、サタンは異母妹とはそこそこ良好な関係を築いていた。
だがそれを良く思わない者も、少なからずいた。
彼らの思惑もあり、この頃からサタンは、士官学校に行かされるようになる。
ここグリージアは軍事大国である。
王位を継げないサタンが国軍に所属することは、なんら不思議なことではなかった。
しかしそれは、王位継承権第一位の姫から、サタンを遠ざけたい高官たちの働きによるものだ。
サタンはそうと気付いていたが、特に何も言わずに軍の扉を開けた。
サタンが入ったのは魔剣士小隊だ。
魔法を上乗せした武器で戦う、常に最前列を担う少数部隊である。
「元王子様が入るような部隊じゃねぇだろ。後方支援とかにしたらいいんじゃねーの?」
「はっ、吐かせ。俺様がそんな地味な配置で、満足するとでも思っているのか?」
「いんや、全然」
学友(悪友といって差し支えない)も多い。
カリスマ性も手伝って、サタンは何時しか、軍の中での居場所を確かなものにしていった。
正直なところ、城にいるよりも軍にいる方が居心地は良い。
上官の小言が少々耳障りではあったが、表面上従順なふりをしていれば、何の問題もなかった。
それでも終焉というものは、知らず知らずのうちに近寄ってくるのだ。
それは異母妹が成人の儀を受けた、二年後のことだった。
遠い遠い国の、名もなき地方領主が、禁断の秘術を用いて眠れる女神を呼び起こしたという。
その報せは瞬く間に世界中に知れ渡り、未曾有の大戦乱を引き起こす。
サタンが身を置いているこのグリージアも、例外ではなかった。
その日から、世界は崩壊へのカウントダウンを始める。
女神の力を欲する国同士の衝突。
強大な魔法や凶悪な兵器が広大な大地を荒廃させ、人々、国々、自然そのものにまで、甚大な被害を与えた。
たった一人の人間が発端となった争いは、やがて世界全土を巻き込んだ大戦へと流れを変える。
そして争いは、更なる驚異を呼び起こした。
魔界から這い出た、魔王の眷属である。
世界は混乱を極め、やがて荒れ狂う魔王と女神の力が激突する。
その力の余波は世界中を包み、一つの結末を迎えた。
即ち、世の終焉を。
つい昔を思い返していたサタンは、軽く息を吐いて意識を現在に戻す。
いつの間にか、目的の場所に着いたのだ。
ほぼ一日中歩いていたサタンが、ついに足を停めた。
周囲に魔物たちの姿はなく、眼前にあるのは古びた墓標。
サタンはそれの前に座り、腰から提げたリキュールを取り出した。
グラス代わりのボトルのキャップに酒を注ぎ、朽ちた花飾りの傍にボトルを置く。
そしてサタンは、口元に笑みを浮かべた。
「よう、久しぶりだな。今日の土産は気に入ったか? 味わって飲めよ、貴重な郷里の味だ」
そう言って自らも一口含んだ。
ゆっくりと嚥下し、杯を置く。
「パージ、もうすぐ妹の誕生日だっつってたな。また妙なもんプレゼントして嫌われるなよ。
ブラスタよ、生憎と貴様好みの女は連れて来れなかったが、酒を持ってきてやったんだから我慢しろ。
そうだウィル、貴様はゲームが好きだったな。今度ガイアのゲームをいくつか掻っ払ってきてやる。
ああ、そういえばティーズ、あのときは……」
一人で、彼は喋り続けた。
まるでそこに、目の前に友がいるように。
深い森の奥の奥。人知れず竚む、小さな墓標。
そこに刻まれているのは、グリージア国軍魔剣士小隊第一分隊に所属していた、兵士たちの名だった。
かつて、サタンが心を許した友の名。
今はもういない、戦場の英雄たちの名。
「ああ……今度はもっと良いものを持ってきてやろう」
しばらく喋り続けた後、静かにサタンは立ち上がり、墓標に背を向けた。
時折、思い出したように彼らの許へ訪れては、こうして他愛ないことを喋り、また訪れる約束をして帰る。
アビスに堕とされてから、否、堕とされる前から、サタンはこんなことを続けている。
もう居ない友にしてやれること。それは忘れずにいることだ。
サタンは帰り際、一度だけ振り向いた。
「またな」
To be continue