語り手4…双子の神官
私がカエルスに天使として迎え入れられて、もうどれ程の時が過ぎただろうか。
最初は人間としてのガイアの生活を懐かしんだりもしたが、今となってはもう、思い出せるような思い出もない。
ただ、強烈に記憶に残っている人物ならばいる。
彼がいたからこそ、今の私がいると言っても過言ではない。
それだけ、彼の存在が私の中で大きなものだったということなのだろう。認めたくはないが。
神によって生み出された人の祖は、神の存在をかすかに覚えていたのだろう。
神というものがどんな存在なのか、具体的な情報は何一つ無く、ただ記憶の……否、魂の片隅で、神の存在を覚えていた。
己に生を与えたもうた神に感謝すべく、また神の存在を忘れぬために、神を崇め奉る社を造った。
そこに想像の神を祭り上げ、神の偶像に感謝と祷りを捧げるようになる。
そしてそれは後世にまで受け継がれ、この国にもまた、荘厳な神殿が竚んでいた。
それは人々が思い描く神の社。
そこに仕える神官は、神に近い者として、国の民から尊敬されている。
双子の兄弟である彼らもまた、神官として人々から期待を寄せられていた。
「兄さん」
金の髪の青年は、夕日色の瞳を動かして辺りを見回した。
離れた木陰に捜していた人物を見付け、彼はそちらへと歩み寄る。
兄と呼ばれたその青年は、彼とはまったく似ていない黒い髪を掻き上げ、弟を笑顔で迎えた。
「やあ、遅かったじゃないか。爺さんどもの話は、随分長かったんだな」
茶化すような口調で喋る兄に、弟はわずかに眉間を寄せた。
兄は、いつもこうなのだ。どんなに大事な話だろうと、真剣に聞いた例しがない。
「ふざけないでください。これはあなたの問題なんですよ」
兄とは対照に生真面目を絵に描いたような弟は、非難するような視線を兄に送った。
しかし、だからと言って兄が態度を変えることはないので、彼はそのまま話を続ける。
「……評議会は、あなたの追放を決定したようです」
「へぇ」
弟の言葉を聞きながら、兄は小枝から舞い落ちた花弁を捕まえようと手を伸ばす。
しかし花弁はその手からすり抜け、ひらひらと足下に散った。
柔らかな風が彼の短い黒髪を揺らし、落ちた花弁を再び空へと舞い上げる。
「それは残念だ。私はてっきり、堕落の印を押され処刑されると思っていたのだが」
「兄さん!」
少しだけ荒げた声で、弟に咎められた。
花弁を目で追っていた彼は、口許の笑みは絶やさず弟に顔を向ける。
「何だ? いいじゃないか、遅かれ早かれそうなるんだろう? 追放なんて、ただの建前だ」
「…………っ」
まるですべてを見通しているかのような兄の言葉に、言い返せるだけの希望を弟は持っていなかった。
この双子の兄弟は神官として神殿に仕えている。
双子といっても、何一つ似ている要素はないが。
敢えて挙げるならば、頑固なところだけは共通点であると言えよう。
そしてもう一つ。完璧である、というところも。
二人は何をやらせても完璧だった。
信者の心を集め、癒し、神を崇め、己を鍛える。
日々の仕事から民への慈愛、すべてにおいて彼らに勝る者はいない。
神の寵愛者。
程なくして、彼らはそう呼ばれるようになった。
それから彼らの運命は決められたのだ。
弟は運命に従い、兄は運命に逆らった。
運命に束縛されぬ自由を求めて。
そう、神に仕える彼が求めたのは、神の掌からの解放。
予め決められた途ではなく、未だ知らぬ道を歩みたいと願った。
ただ、それだけだったのに。
「神は、ナルシストなのさ。自分至上主義。我ら人の子に、己が定めた道筋を歩ませたくて必死だ」
「神を冒涜するのですか!?」
表情にわずかばかりの怒りを滲ませた弟を見て、兄は静かに微笑う。
「ならばお前の行動はどうだ? 何故私に、わざわざ評議会の決定を伝えた?
お前も神の定めた道筋を変えようとしたのではないのか?」
そんなことはない! と言えなかった。
弟は困惑したように視線を宙に彷徨わせる。
評議会は、兄に追放という名の処刑を決定した。
それを兄に伝えてはならないはずだったが、どうしても黙っていられなかった。
この神殿から追放されれば、神の御許へ往けなくなってしまう。
それでは何のために、厳しい戒律を守り修練に励んできたのか。
だから、兄を追放させたくなかった。
「私は……」
言い淀む弟が視線を兄に戻すと、彼は目の前に立っていた。
月光色の瞳に、自分の顔が映り込んでいる。
なんて顔をしているのだろう。
「おいおい、なんて顔をしているんだ。もっと胸を張れ。お前が選択した行動なんだろう?」
兄はそう言って弟の肩を叩く。
歩み出しかけた足が、ひたりと停まった。
立ち去ろうとした兄が足を停めるのは珍しい。
いつも、こうと決めたら決して止まらない人なのに。
歩く先に何かあったのだろうか。私の背後に。
そう思い、弟が振り返ろうとした瞬間、兄がそっと耳打ちしてきた。
「だからエレフセリア、これは私の選択だ」
兄に名を呼ばれるのも珍しい。
そんなことを考える間もなく、兄の手が首に伸びてきた。
口から息が漏れる音を聞きながら、視界が回るのを感じた。
背中に当たる、固い地面の感触。
息が詰まる苦しさは、ここにきてようやく感じられた。
何が起きたのか理解できず、見開いた目の先には笑みを浮かべる兄の顔。
苦しさに続いて打ち付けた背の痛みが伝わり、弟は現状を理解した。
兄が、自分を殺そうとしている……?
信じられぬ思いとは裏腹に、兄が首を絞める手を緩める気配はなかった。
いつもの悪戯ではない。
このままでは、本当に死んでしまう。
暗くなる視界。
ぼやける思考。
そんな中で考えたのは、何故という疑問。
兄に問うてみたくて、口を開いた。
しかし声など出るはずもなく、魚のように口を動かすことしかできない。
「 」
兄の唇が滑らかに動く。
何を言っているのか解らなくて、弟は兄の手を掴んだ。
瞬間。
視界が紅く染まる。
首を絞めていた手が緩められた。
肺が酸素を求め急速に伸縮する。
空気に混じって錆びた鉄のような味がした。
次第にはっきりしてきた視界に、見たこともない兄の顔が映る。
数本の矢を受けて崩れ落ちた、兄の死に顔が。
「無事かエレフセリア」
「ペリオリズモめ、弟に手を掛けるとは……」
神官と神兵が駆け寄り、口々に声を掛けてくる。
彼らに助け起こされながら、混乱しかけた頭で、弟は兄の最期の言葉を思い出そうとした。
兄は何と言っていた? 思い出せ。
あのとき、兄は……
泣くなよエレフセリア。お前は選択を誤った訳じゃない。神が少し、残酷だっただけだ。
弟の目から、涙が溢れた。
倒れた兄に縋り、彼の名を呼ぶ。
兄は、救けてくれたのだ。
評議会の決定は神の意志。
それに逆らい兄を救おうとした弟もまた、神の意に背く者として罰せられるだろう。
兄は、それを良と思わなかった。
せめて弟だけでも、この場で処断されるのを防ぎたかった。
それがただの『先延ばし』であると解っていても、少しでも長く生きてほしかったから。
己を殺そうとした兄のために涙を流す彼を見て、神官たちは感銘を受ける。
彼はやはり、神の寵愛者たる者に相応しいと。
こうして弟は、兄の手によって神の掌の上へと戻されたのだ。
それから月日は流れ、弟は──エレフセリアは祭壇へと上げられた。
神の寵愛者として、神の御許へと帰るために。
今日は光蝕まれし日。
彼は光を取り戻すための贄として、ここで殺される運命にあった。
要は日蝕に託けた、神官たちの権力誇示だ。
そんな些細な矜持のために殺されるなど、誰が望むものだろうか。
だから彼の兄は運命に逆らおうとしたのだろう。
今ならば、それがよく解る。
祭壇でその瞬間を待ちながら、エレフセリアは兄のことを考えていた。
あの日、追放者として死を選んだ兄も、同じように恐怖を感じていただろうか。
最期まで笑っていた兄は、何を思って逝ったのだろうか。
暗くなり始めた空を見上げて、エレフセリアは震える手を握り締めた。
人々を安心させるためにも、せめて最期の瞬間まで穏やかに微笑んでいよう。
「ああ……やっとあなたの気持ちが解りましたよ、兄さん……」
私は……この運命を呪ったことはない。
私が自ら、この道を選択したのだから。
一つ気掛かりだったのは、兄のことだった。
彼の魂を、私は見付けることができなかったのだ。
後からリリスに聞いたのだが、兄は生まれ変わりとして輪廻の旅に出たらしい。
輪廻に失敗して魂ごと消滅してしまったかもしれないし、もしかしたら、私の側にいるのかもしれない。
もし生まれ変わっているのなら、私は願わずにはいられない。
兄のあの性格の悪さが改善されているように、と。
To be continue