語り手1…とある生まれ変わり
この世界が、三層に分かれているのは知っているだろうか。
カエルス、アビス、ガイア……即ち天国と地獄と現世のことだ。
人間は現世に住まい、死を迎えるそのときまで、他二層の存在を知ることはない。
なに、きみは天国や地獄を知っていると?
だがそれは、神話や宗教、他にもお伽噺や言い伝え、伝説、誰かが想像で書いた書物や絵画で得た、あくまで人の思い浮べるものに過ぎないだろう。
本物を見たことは、ないはずだ。
……ああ、臨死体験をしたことがあるならば、カエルスでの経験を覚えているかもしれないがね。
信じる信じないは勝手だが、それらは確かに存在するのだよ。
勿論カエルスには神、アビスには悪魔がいるのだが、住人は他にも存在する。
それが天使と幽鬼たちだ。
彼らは主に神魔のサポートをするために存在する。
天使も幽鬼も、元は私たち人間であり、私たちの魂に、神や魔が新たな名と器を与え、魂の中に眠る力を引き出した者、それが彼らなのさ。
勿論、すべての魂が天使になれる訳ではないがね。
天使になるには、強い意思と強い力がなければならない。
それらを持たぬ魂は、生前のすべてを忘れ、新たな命の源として転生する。
言うなれば魂のリサイクルだな。
なんともエコロジー精神満載な世界ではないか。そう思わんかね。
転生される魂の中には、生前のことを覚えたまま転生する者もいる。
それを生まれ変わりと言うのだ。
生前のすべてを持って生まれ変わる者はいない。
生まれ変わりが持つものは、魂に蓄積された記憶の一部だったり、容姿だったり特技だったりする。
実は私も、生まれ変わりを果たした人間の一人なのだよ。
だからカエルスのことを詳しく覚えているのだが、大抵の生まれ変わりはカエルスやアビスでの記憶は消されている。
私は少々特殊な生まれ変わりなので、カエルスでの記憶が残っているのさ。
何が特殊なのかって?
ここだけの話だが、私は天使の生まれ変わりなので、天使であった頃の記憶が残っているのだよ。
どれ、退屈しのぎに、私が覚えている天使たちの話でも、聞かせてあげようか。
青い空、白い雲、そして、累々と横たわる地獄の獣ども。
何時になく、今回の襲撃は派手だった。
カエルスの門前は、むせ返る程の血臭が溢れている。
地獄に住まう獣たちは、時折思い出したようにカエルスを襲撃しに来る。
今回も突然道が開き、そこから大量の魑魅魍魎が溢れてきたのだ。
奴らが門を蹴破る前に、事態を察知した天使たちが出撃したため、門には傷一つついていない。
しかし、いくら監視カメラを設置してあるとはいえ、映像を確認してからの出撃では、いつか手遅れになるのではないだろうか。
やはり門番を置くことを考えないといけないな、とミカエルは小声で呟いた。
隣にいた天使がそれを聞き、そうだな、と同意している。
「いつ襲撃が来るか判らないから、置いても無駄だってアレス様は言ってたけどな」
「しかし、現状ではどうしても後手に回ってしまう。有事の備えはしておくに越したことはない、と思うのだが」
ミカエルの隣に立つ大柄な天使は、獣どもの死体を寄せながらミカエルに話し掛ける。
ミカエルもそれを手伝いながら、溜息混じりに答えた。
大柄な天使は疲れを解すように、腰に手を当てて伸びをする。
「ミカエルは真面目だなぁ。俺も門番置くのは賛成だがよ、誰もやりたがらないと思うぜ?」
「……そうだな」
ミカエルも少し手を休めて門を見る。
天使はまだまだ数が少ない。
いつ来るかも判らない襲撃に備えて門の前に警備を置く程、人材は豊富ではないのだ。
仮に門番を置くとしたら、かなり少ない人数でローテーションを組むか、最悪、一人で門の前に住み込みすることになるだろう。
今日は襲撃があったから天使が集まっているが、平時はほとんど此処に人が来ることはない。
そんな場所に一人でいるなど、退屈で死にたくなる。
そのとき、鎖されていた門がわずかに軋んだ。
内側から押し開けられ、一人の天使がひょっこり顔を出す。
「おっと、大天使様のお出ましだ」
隣の天使は言いながら、今し方門から出てきた天使に近付いていく。
ミカエルはその場から動かずにそれを見送った。
「みんな、お疲れさま。怪我したひと、いる?」
大天使と呼ばれた彼は、まだ幼い子供の姿をしている。
しかし、ここにいるどの天使よりも実働年数は上なのだ。
愛らしい少年の姿とのギャップに、何とも言い難い不思議な感覚を覚える。
「リリスちゃん、こっちに負傷者がいるんだ。診てやってくれるか」
「わかった。ロックは大丈夫?」
「ああ、俺は何ともないさ」
大柄な天使とリリスは、怪我人の許へと走っていく。
リリスは強大な治癒の力を持っているのだ。
戦う力は皆無だが、彼は必ず戦場に来て負傷者の治療を行っている。
大天使という肩書きに不釣り合いな容姿を笑われることもあるが、それで彼が皆に接する態度を変えたことはない。
すべての仲間に、同じように救いの手を差し伸べる。
天使とはあのような者のことを指すのだと、以前誰かが言っていた。
ミカエルは、怪我人に治療を施すリリスの姿を遠巻きに眺めていたが、やがて視線を手元に戻し、作業を続けた。
「こんにちは、ミカエル」
明くる日、神殿内でミカエルはリリスに呼び止められた。
いったい何の用かと、ミカエルは立ち止まる。
「……こんにちは。何か用ですか、リリス様」
律儀に頭を下げるミカエルに、リリスは困ったような笑みを浮かべた。
「ミカエル、僕のことリリス様なんて呼ばないでいいよ。なんだか照れちゃう」
リリスは首から提げた十字架のペンダントを指先で弄り、上目遣いにミカエルを見上げた。
ミカエルが律儀な性格の持ち主であることは知っているが、そんな風に敬われるような言い方をされると、擽ったいような気分になる。
他の天使たちは皆、リリスを対等に……いや、この外見のお陰で子供扱いしてくるのだが、ミカエルだけは初対面のときから敬語が抜けないのだ。
リリスが何度言っても、一向に改善される気配はない。
「しかし、リリス様は大天使ですので、私とは立場が違います」
今までに何度も聞いた台詞が、またミカエルの口から出てきた。
リリスは子供らしく頬を膨らませる。
「むー。いいもんね。もうそんなこと言えなくなるんだから」
リリスの言葉を聞いて、ミカエルは不思議そうに首を傾げた。
そんなミカエルを尻目に、リリスはポケットから一枚の羊皮紙を取り出す。
少し折れ曲がってしまったそれを、ミカエルの前に広げてみせた。
「これは……」
「じゃーん。ミカエルは今日から、僕と同じ大天使になるんだよ」
リリスがミカエルに見せたのは、彼の昇進を知らせるものだった。
本日付でミカエルを大天使に迎えると、そういった内容が書いてある。
ミカエルは驚いたように目を見開き、そこに書かれた文章を何度も読み返した。
リリスはまるで悪戯が成功したような、楽しそうな笑みを浮かべる。
「これっ……は、本物ですか?」
「本物だよ。ほら、ゼウスのサインもあるでしょ」
羊皮紙の一番上には、この世界の最高神であるゼウスの名が書かれている。
間違いなく本人のサインだ。ミカエルが見間違えるはずがない。
「こんな……急な……」
「いいから、早くゼウスのとこ行って、正式に証書もらっておいでよ」
リリスに言われて、ようやくミカエルは我に返る。 リリスから渡された羊皮紙を手に、ミカエルは慌ててゼウスの許へと向かった。
その後ろ姿を見送って、リリスはこっそり舌を出す。
きっと驚くだろう。
この急な昇進が、リリスのワガママによるものだと解ったら。
いつまでも敬語の抜けないミカエルに、どうにか対等に接してもらいたいと思っていたリリスは、昨日ゼウスに言ったのだ。
ミカエルを大天使にしてほしいと。
ミカエルが地位の違いを言い訳にするならば、違いをなくしてやればいい。
そう考えたのだ。
ゼウスはリリスを孫のように可愛がっている。
少しくらいの我が儘ならば、無理をしてでも聞いてくれるのだ。
実際、神たちもミカエルのことは高く評価していたので、リリスが言いださなくとも、いずれは大天使になっていただろう。
リリスは、それをちょっと後押ししたに過ぎない。
この後、無理矢理対等に話せるよう仕向けられたミカエルが真相を知り、リリスを叱りに来るのは言うまでもないが。
ああ、あの頃は楽しかった。
いや、今でも充分楽しいが、ミカエル程生真面目な人間は、見たことがないのでね。
あれをからかうのは、本当に面白かったのだよ。本人には内緒だがね。
私の暇潰しに付き合ってくれてありがとう。
そろそろ支度をしないと時間に遅れそうなので、私はこれで失礼するよ。
世界一の長寿になるには、定期検診は欠かせないからね。
目標まで、あと三十二年。
もしきみが、私より先にカエルスに行くことがあったら、彼らによろしく伝えておいてくれ。
では、またどこかでお会いしよう。
To be continue